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現在、私達は後悔の真っ最中です。小春ちゃんに連れられて来たのは長の家、小春ちゃんの家です。立派な門を少し入ったところで私達は正座させられています。
冷や汗を流している和君、諦めた顔の音々ちゃん、俯いている小春ちゃん、そして逃げ出したい私。
私達の正面には目をうっすら細めた小春ちゃんのお母さんが立っています。お父さんもお母さんの少し後ろにいるけど、手を差し伸べてくれる気はないようです。大人は小春ちゃんのお父さんが怖いって言ってるけれど、小春ちゃんがお母さんの方が怖いって言ってた意味が今になって伝わりました。酒盛りの時より怖いです。
小春ちゃんのお母さんが私達に近寄ってくると――。
乾いた音が四つ続いた後、私は何をされたのか分かりました。私の左頬が熱をもって痺れるように痛いです。
「あなたたち、昨日の夜から朝までどこへ行っていたの。このまま帰ってこなかったら大人総出で里中を探そうって話にまでなっていたのよ」
小春ちゃんのお母さん、なんで私を見るの! 私が言わなくちゃだめなんですか!
目も顔も声も全てが怒っている。ずっと見られているとカラカラに喉が渇いて出てもいない生唾を飲み込みたくなりました。これ以上は耐えられそうにないと私は頑張って声をだしました。
「ひ、広場の地下の、里神様のと、所へいってました」
喋った事で私は少し気が抜けてたと思います。目を細めていた小春ちゃんのお母さんが目を大きく見開いた瞬間、小春ちゃんが私の前を通り過ぎ、地面を転がっていきました。私が頬を叩かれた音とは比べものにならない音が耳に残っていて鳥肌がたちました。
よろよろと立ち上がった春ちゃんの口から赤い血が流れて地面に落ちていきます。
「小春! あなたは、あなたは一体何をしたか分かってるの! あなたがした事は「助けて……」絶対に――」
小春ちゃんが小さく呟いた声を私は聞き逃しました。でもその後に大粒の涙を流しながら訴える声を聞いて私の頭には何でと疑問が浮かびました。
「助けて、助けて。私が、うぐ、馬鹿だっ、たの、悪かった、の。良い、子になひっく、るから、もう悪いこ、としない、から。お父、さん、お、母さん、助、ううう、けてよ」
小春ちゃん?
「し、知らなひっく、の、あんな化け物、化け物がいる、な、んて。あいつ、ずと、ずっと私だけ、見てたの。ひぐっ、う、皆、あいつの事、う、うう、見えて、ないの。扉なんて、な、い、うぐう、のに」
何を言ってるの小春ちゃん?
「お社、の、裏に服、服あっ、あったの。お嫁、ひっく、さんの服と、今日、イッ、イッ君が着て、服。術で見え、ひぐ、ないように、してた。殺、した。あい、うううう、あいつが、化け、物、ひっく、が殺し、た」
訳が分からず泣き止まない小春ちゃんをお母さんが抱きしめて、大丈夫大丈夫とあやし始めた。
「美代さん、橘家の結界術士を総動員してくれ。それと門の結界を修復できるか」
「問題ありません、既に修復済みでいつでも起動できます。守矢家にも要請をいれますか?」
「守矢家の五行衆には俺から連絡する。変わりに無関係の民をそれとなく南に避難させてくれ」
「承知しました」
いつも小春ちゃんの家の遊びにいくとお菓子をくれる美代おばちゃんの見たことのない顔でした。美代おばちゃんは懐から折り紙を取り出すと瞬時に鶴を折り、空へと放ちました。
私と和君は突然の事にあっけにとられ、音々ちゃんは真っ青な顔で口元を手で押さえていました。私達の中で一番大人びている音々ちゃんが真っ青になるって、どういう状況なの。
「小春、落ち着きなさい。大丈夫だから、お父さんもお母さんも、皆いるから、ね?」
「だめ、なの。うぐぅ、あいつ、強い、の。あの、どろどろひっく、した黒い、狐。おと、さんよ、り、ひぐ、おかあ、さ、より、つ、よいの。おま、じゅう。ついせ、き、の陣、かくし、ひぐ、て、刻まれ、あい、つ、にがす、うううう、き、ない、の。皆、ころさ、れる。殺され、る、の、ううう、ううああああううああうう」
私はやっと、とんでもないことをしてしまった、とんでもないことが起こってるんだって気付いて体が震えてきました。
「子供達はどうした」
「地下室に避難させたわ」
そうかと頷いた小春の父、道元の顔から厳しさは欠片も抜けていない。隣では母の聖が心配そうに地下室がある倉の戸を見つめている。
道元――長の屋敷には多くの人が行き来している。門を中心に塀にそって屋敷を囲み、地面に座って手で印を結んでいる者達。屋敷の敷地内を決まった道順で歩き続ける者達。その者達の中には、里でよく見かける黄色いような耳と尻尾ではなく、薄く他の色が入り交じった様な複雑な色も見受けられた。
「長、ここにいましたか」
道元の前に現れ、腰を折っているのは橘家の現当主で橘音々の父親の橘精礼。その隣では髪を荒く掻きながらも鋭い視線を携えている守矢家当主の守矢弥彦。守矢和の父親にして普段は猟師の仮面を被っている。
どちらの家も有事の際に里の守りと攻めを担う、この里の守手として長い年月役目を務めてきた。
「美代からの伝言です。民の避難は八割方終了。残りは自分の生き方に固執する老人等が残っているそうですが、多くの民の方を優先するそうです。また、間当家と春日家が里の備蓄を開放、今回の事が長期にわたっても二ヶ月はもつそうです」
「あとよ、両家から伝言だ。馬鹿息子のカタキと馬鹿娘をよろしくだってよ。たくっ、嫁入りが嫌なら何も知らずに喜んでいるやつらに譲れば良かったのによ」
「弥彦、不謹慎だぞ」
首の後ろに腕を回して反省の色もなくそれに応える弥彦。精礼も道元も弥彦の事をよく知っているからそれ以上は何も言わなかった。弥彦は普段、寡黙で陰口などは絶対にたたかない。それだけ今回のことは弥彦を苛立たせていると同時に、不安にさせている事に他ならない。
「でもよー、これだけ厳重に結界を張って里のやつらも避難させたんだろ。向こうさんには此処にいますって言ってるようなもんじゃねぇのか?」
「小春は追跡の陣を隠して刻んだ饅頭を持たされたと言った。それに子供とはいえ小春は空天孤だ。その空天孤が我を忘れて泣き叫んだんだぞ。どこに居たって遅いか早いかの違いだろう。なら万全の状態で迎えるべきだ」
「空天孤が恐れるですか。神の末席とも言われているそうですが、それが恐れるという事は最悪の想像しか出来ませんね。私達は里神を封じていたつもりでしたが、本当は違ったと言うことでしょうか」
「分からない。分からないが、今のうちに謝らせて欲しい。今回は娘が迷惑をかけた、いやかける。それに、長の役目として娘ではなく里を優先させるべきなのを私は拒んだ。私は皆だけでなく里を巻き込んだ」
深々と頭を下げた道元。その頭をあきれた感じで同時に殴りつける精礼と弥彦。短いうなり声で耐えた道元は、いまの状況で自分がこれ以上弱々しい姿をさらすのは士気に関わると思っているからだ。
「相手が里神、それに狐の嫁入りの間隔が非常に短くなっていることからも、近いうちに今と似た状況になっていたのは容易に想像できます。それに、空天孤の小春殿を守護するのは結果的に里を守ることに繋がる。違いますか?」
道元の背なかを強く何回も叩き、弥彦が豪快に笑う。
「小春の坊主と里を一緒に救えるんだぜ、一石二鳥だろうが」
「小春は坊主ではないんだがな」
相も変わらず背中を叩き続ける弥彦は、あれだけやんちゃなんだから坊主みたいなもんだろと笑い続ける。
道元の口元に少し笑みが浮かぶと厳しさが少し顔から抜け、目はまっすぐと中央の広場の方角を見据える。
「弥彦さん。小春を坊主呼ばわりしたことは小春自身にちゃんと伝えますから。しっかり小春に怒られて下さいね」
「ちょっ、勘弁してくれよ。おやつを一つ盗み食いしただけで一ヶ月口聞いてくれねぇんだから、また会う度に謝り続けるなんてごめんだぜ」
「私としては、今回の事が無事に終わって謝り続ける弥彦さんを見たいですね」
ほんと勘弁してくれと困り顔でいる弥彦だったが、気負っていた自分自身が少し軽くなったのを自覚した。