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「まず手本を見せるからよく見てるんだぞ」
少し青みがかった銀色に近い尻尾を大きく膨らませ、お父さんは腰を深く下ろした。娘の私からみると優しいお父さんだけど、周りの人からみるとすごく怖く見えるらしい。こんなに格好良いのに何故だろうとは思うけど、優しいお父さんを私だけが知ってるという事を思うとちょっと嬉しくなった。あ、お母さんもお父さんの優しいところが好きって言ってから私だけじゃなかった。でも、お母さんなら仕方ないかな。
お父さんの体の中で漂っていた力が渦を巻いて、後ろに引いた足に集まってギュウギュウしてるのがわかる。
すごい。
私だったらあんなに力を溜められないし、溜められてもすぐにどっかにいっちゃう。
「ふん!」
お父さんが気合いを息と同時に吐き出すと、足に集まっていた力が地面を叩き私の所まで地揺れが伝ってきた。でも、お父さんがよく見てろって言ったんだから、これ位で驚いてちゃだめ。私はお腹に力を入れてお父さんを一心に見続ける。
渦巻いた力が足から地面を叩いたあと、まるで反射するように体の中をもっと、もっと早く回りながら右手に集まって――。
庭の隅に植えられていた楓の大木に私が通れるくらいの大きな穴があき、少ししてゆっくりと倒れていった。不思議な事に穴があくときの音より倒れる方の音が大きかった。
ぱちぱちぱち。
私はこの自慢のお父さんが大好きだ。あれだけの技を使ったのに少しも疲れた風のないお父さんに走り寄って抱きついた。
「おいおい、ちゃんと見ていたのか」
「ちゃんと見てたよ。足のぐるぐるがくるっと回って腕に集まってどーんって」
少し目を見張ったお父さんは、そうかそうかと私の頭をなでて「さすが俺の娘だ」と嬉しそうだった。
「ちょっと、私たちの娘でしょ」
いつのまにか近くにお母さんが立ってにこにこと笑っていた。
あれ? ちょっと機嫌が悪い?
私はお父さんに降ろしてもらって、お父さんとお母さんから少し距離を取った。皆はお父さんが怖くてお母さんが優しいって言うけど、逆だと思う。
「あなた、その木がこれだけの大きさになるまで何十年かかると思ってるの」
「ま、まて。可愛い娘に闘技を教える駄賃と考えれば安いだろ」
「あらそう、じゃあ私が想術を教えるときに地下にしまって一向にだしたことのない瓶を的にしても構わないわよね。この子は闘技より想術の方が得意みたいだし」
「あれは百年物の霊酒だぞ。も、もったいないだろ」
喋りながらもじりじり逃げるお父さんと、逃がさないとばかりに逃げ道を塞ぐように追い詰めるお母さん。もうしょうがないなお父さんは。
「お母さん。今日のお昼ご飯は何作ってくれたの」
怖かった顔は私の方へ向いたときには穏やかな笑顔になっていた。私の意図を理解してか、お父さんの方をみて小さくため息を吐いた。
「あなたたちの好きなうどんよ。そうね、お父さんはお腹が空いてないようだから油揚げは二つ食べて良いわよ」
喜ぶ私と眉を下げるお父さん。私の毎日はとても穏やかで幸せでした。
「お母さん、おはよー」
家の中にはお手伝いで来ている近所の美代おばちゃんしかいなかった。お父さんとお母さんの居場所を聞くと、お母さんは外にいると教えてくれた。
「美代おばちゃん、ミルを借りてもいい?」
ご自由にどう扱ってもいいですよ、と自分の作った疑似生命に対してあまり頓着しないのか特別な事がないかぎりいつも私にミルを貸してくれる。ミルは光を良くはじく白の毛色に鼻面がぺっちゃんこの動物を象っている。美代おばちゃんが言うには外の世界の猫を元にしているらしい。らしいと言うのは猫を知っている人が私が知る限りいないからだ。
目を擦りミルを抱えながら外へでると、お母さんが家の門を閉めている所だった。お父さんが里の長だからこの家に住んでいるって言ってたけれど、皆の家に比べて大きすぎると思う。今お母さんが閉めた門だって大きいだけじゃなくて、そこら中に変な模様があって不用意に触るといつもお母さんや美代おばちゃんに怒られた。お父さんはそんなのなくても俺がいるから平気だって言っていつもお母さんにお説教されてたのを覚えている。
「もうお早うの時間じゃないでしょ、朝ご飯は片付けちゃったわよ。それにそんな着崩した格好で外へ出て、女の子なんだから身だしなみには気をつけなさい」
朝ご飯がなくなった事にぶーぶー言う私の服の帯を一度緩め、お母さんが着付け直してくれた。いくら誰も見てなくても、外で一瞬半裸になるのはさっき言ってた事とおかしくないかな、なんて思いながらいると、手ぐしで私の髪を整えながらおにぎりが用意してあるから美代おばちゃんの所に行きなさいと、お母さんが膝を折って私に微笑んできた。
ミルは着付けの際に地面に下ろしたら走ってどこかへ行ってしまったけど、いつも通りひょっこり戻ってくると思う。
「ねえ、お父さんは」
お母さんは母屋の隣にある離れを見ながら私を抱き寄せてきた。お日様のような匂いと少し甘い様な匂いがしてとても落ち着く。
「昨日の午後ね、東地区の一部にお天気雨が振ったそうなの。狐の嫁入りだ狐の嫁入りだって雨に降られた家々の皆は喜んでるんだけど、どの家からお嫁を出すか折り合いが付かないみたいなのよね。離れでいま、話し合いがされてるけどいつもみたいにくじ引きになる気がするわ」
私はあまり聞きたくない話だったので、気のない返事でふーんって聞いていた。確か秋にも、今が春だから半年前かな、にも狐の嫁入りがあったはず。何人もお嫁さんを取るなんて神様って何を考えてるんだろう。
「私はお父さんのお嫁さんになるから、狐の嫁入りがあってもいかないもん」
ぎゅっと、私を抱き寄せる腕に力がこもり、お母さんが満面の笑顔で語りかけてきた。
「お父さんはね、お母さんのなの。お父さんを二つに分けることは出来ないから、他の人を見つけなくちゃ駄目よ?」
「う、うん」
お母さん、怖い。
「それより、今日は午後から音々ちゃん達が遊びに来るんでしょ。だったらお昼ご飯までは想術のお勉強をしましょう」
また難しいご本を読むのかなー、それとも実技かな。
「そうね、お勉強だと音々ちゃん達が来ても起きそうにないくらい寝ちゃうでしょうから、実技にしましょうか」
ちょっと引っかかるけど、実技なら楽しいから大好き。
折れた大木を前に、私はぼーぜんとしている。
この大木は昨日、お父さんが折ったやつだ。穴を空けられた所から痛々しく折れている。想術の基本については覚えているわよねというお母さんの問いかけに、戸惑いながらも頷くとなら簡単よと、とんでもないことを言ってきた。
「それではこの大木を再生しましょう。やり方は簡単よ。木行で木を元気にして、木に吸い取られた大地の力を土行で補い、さらに奪われた水気を水行で補う。この季節だから火気は気にしなくて良いでしょうから、たった三つの力を同時に使うだけね」
多分、いや絶対、私は涙目になっていたと思う。お母さんの話を聞いて口を半開きにしながら、言っていることを理解したときにはお母さんが鬼に見えた。
今までは一つの力を上手に扱うことしかしてこなかったのに、なんでいきなり。
「あ、あの」
「なーに?」
ひうっ。これ絶対逆らっちゃだめなお母さんだ。お父さんがお母さんを本気で怒らせて、美代おばちゃんの家に避難してたときの顔してる。わ、私なにかしたっけ。この頃はいたづらだって控えているし、おねしょだって一ヶ月以上してないし。
パンパン。
お母さんが手のひらを叩いた音に我に返って、嘘だよねって意味を込めて見つめたけど世の中は非情でした。
「早くしないとお昼ご飯も抜きだし、遊びにもいけないわよ」
へとへとです。今にも倒れるんじゃないかというくらいへとへとです。音々ちゃんに手を引いてもらわなければ動きたくないです。皆は楽しそうに笑ってるけど、私はちょっと息切れ中。皆じゃなかった、音々ちゃんだけは苦笑いで私を見ていた。さっき食べたお昼ご飯が力に変わるまで耐えよう。お昼ご飯、美味しかったな。まだお昼なのにすき焼きだった。思い出したら少し元気が出てきた。
午前の事は忘れて今日は遊ぶぞー。
「少し厳しかったんじゃないのか」
「そうは言っても、狐の嫁入りの間隔があまりにも早すぎるわ。もう限界なのかもしれないかと思うと」
この優しい夫は私の肩を抱き寄せて、厳しい顔をしながらあの子の後ろ姿を追ってる。焦りばかりで空回りしてるのではと自問自答している私に比べて、いつも物事に対して堂々と構えている姿は、昔から変わらない。
狐の嫁入りは文字通り、神に嫁入りする儀式だった。嫁入りした娘は時々里に戻っては夫となった里神の話を家族や友達に話して、また里神の元へ帰っていく。誰もが狐の嫁入りは幸せの象徴だと思っていた。
しかしいつからか、嫁にいった娘が里に戻らなくなり、次第に狐の嫁入りの感覚も短くなっていた。私が物心ついた頃には十年間隔だったと思う。当時は何も思わなかったけど、今にして思えばそれでも早すぎた。
真実を知ったのは、夫と結ばれてあの子が生まれたとき。私と夫はお互いに惹かれ合っていたのもあるけれど、長の息子である夫は天狐、私は空狐、霊狐の中でも特に強力な力を持つ私たちの結婚を周りは皆祝福した。
でもそんな仮初めの幸せは続かない。娘が生まれたとき、今まで誰も見たことがない銀に紫が混じったような不思議な色。昔の文献を紐解けば空天狐と呼ばれた、天狐とも空狐とも似て非なる霊孤。その力は他の霊孤の追随を許さず、神の領域に入っているのではと言われるくらい強いと残されていた。
そして、里神も昔は空天狐だったと。
里の起こりに誕生して以来、一度も生まれてこなかった空天狐が今の時期に誕生した。里の長老達はこれは行幸とばかりに里神をすげ替えるだの、次の生贄をこの子にすれば里神も少しは落ち着くだろうと囃し立てた。反対する長老や、中立を保つ長老もいたけれど、多くは前者だった。
夫は私に娘を抱いて離れから母屋に行けと追い出すと、戸を閉じた。
少しの時間をおいて、中からは怒号や泣き叫ぶ声、何かを潰す音や破壊音が聞こえてきて、震えながら動けず戸の前にいた私の前に血だらけの夫が姿を現したのは、半刻もたっていなかった。
「少し湯を浴びてくる」
今までに一度も見たことがない顔で夫が母屋へ向かうと、中から反対や中立を保っていた長老達が青を通り越して白い顔で這い出してきて、そのまま逃げ帰るように去って行った。
私は娘に何も見せないように抱き直すと、中の惨状を確認し離れを全て焼き払った。夫の実親の姿も視界の端に収めたけれど、私には何が大切か決まり切っている。後に不審火で犠牲者が出たという事になったけれど、以降、夫は長老達に恐れられるようになり、大事な会合は再建した離れで行う習慣ができた。
警告の意味を込めて。
「何かあったとき、最後は自分の力でどうにかしないといけないのよ。あの子には才能があるといっても、開花しなければただの子供よ」
「だからと言って、五行の同時行使なんて大人でも出来るのは一握りだぞ。それも二つ同時までだ」
「でもあの子は出来たわ。私と同じく五行全てを同時に行使できるはずなのよ」
「心配するのは分かるが、一人で抱えるな」
娘の後ろ姿が見えなくなった通りを見続けながら、私たちはしばらく肩を寄せ合っていた。