前
――いざ、戦場へ――
それが、小さな小さな国の、今際の叫びだった。
つい先ほど死都となり果てた街の片隅で、男は故国の挽歌を聴いていた。
同朋達の喊声は、死にゆく者の末期の吐息のように、ぽろぽろと欠け続けている。
擦り減っていく戦場の音色と引き換えに、故郷の死の気配は、一層その濃さを増していった。
生きていることを後悔しろとでも言いたげに、生者を手招く亡都から、男を此岸に留めていたのは、腕の中の柔らかな温もり。
男が仕えた王は、かつて女神より下賜された宝玉を手ずから奉献するために、今は女神の御許へ向かっている頃合いだ。
王妃を始めとした王家の子女は、王の供をし、王弟や傍系男子は、戦う者を全て引き連れ戦場へ、そして、戦えない者たちは――。
濃厚な血臭や粘ついた油の臭気に、重要拠点や物資を焼く煙が混じりだし、息苦しさがひどくなる。
敵国の手には一切合切渡さぬと、生と豊穣を司る女神を奉じた小さな国の、それが、最期の意地と誇りだった。
……なにが悪かったのか、なんて問いは、終わってしまっては意味がない。
けれど、強いて言うならば、女神の腕に抱かれた小国を、急峻な山脈といった天然の要害が守ってくれると、信じて疑わなかったことか。
それとも、いかな大国の長と言えど、女神に愛された一族には敬意を払うだろうと、無意識に驕っていたことなのか。
険しくか細い道を踏破し、小さな国に群がる、帝国旗をはためかせた大軍の黒い影は、男が欲しい回答を与えてはくれなかった。
見知ったはずの、石と木を組み合わせた素朴な街並みは、死と煙を纏って、異界の――あるいは地獄の様相を呈している。
黒い煙に含まれる毒気を吸い込まぬよう、男は、潜んでいた場所から、風上に向かって音もなく駆け出す。
また男は、自分と抱えていた赤子の口元を、湿らせた布で覆うことも忘れない。
亡びゆく故国が遺す希望を絶やさぬため、男は死ぬわけにも、小国最後の姫君を死なせるわけにもいかなかった。
不死に狂った老帝が、小さな小さな国に求めたのは、生と豊穣を司る女神に愛されたお姫様。
死を拒絶し死者を弄ぶ老帝に、国の宝物である姫君を差し出せるはずもなく。
……しかし、侵略者たちと戦おうにも、長らく平穏に微睡んでいた小国はろくな戦力を持たず、帝国に抗った国々は、とうの昔に制圧されていた。
――そして、死と再生を司る神に仕える帝国の皇族は、自らの手で命を奪った人間の魂を、支配する。
だから、帝国と戦って抵抗するだけでは、姫君を護れない。
また、人々が国を捨て離散する程度では、いつか必ず老帝の手が姫君に追いつく。
……不死に狂った老帝から、たった一人、生と豊穣を司る女神に愛された姫を隠しきるには、皇族の手にかかる前に、他の全ての民が死んでおくしかなかったのだ。
徐々に数を減らしていく、様々な喚声に紛れるように、小さな小さな姫君がひっそりと声を上げた。
人見知りしない姫君は、逃亡生活中、男だけでも世話ができると判断されるくらいには、大人しく手がかからない。
なにも知らない姫君の澄んだ青い瞳に、男は唇を噛み締めた。
なにが、なにかが違っていたら、男以外にも、小さなお姫様の傍に、誰かが残ってくれていたのだろうか?
小国で最優秀の密偵ゆえに、男は、姫君を託された。
けれど男は、天与の才により惰性で生き続けていた、自らの虚を、今更ながらに恥じる。
――どうか、健やかに、どうかどうか、幸せに、と。
一国丸ごとの自害を選んだ人々が、赤子でしかない姫君に負わせた願いが、男には、どうしようもなく重かった。
生きていても、退屈なままだと思っていたから、男は、いつ死んでも構わなかった。
しかし、男が怠惰なままに放置していた、生きる、ということは、優しくて哀しくて――涙も出ないくらいに、尊く残酷だ。
死ねない。
死ぬわけにはいかないと、男は心の底から思った。
生きなければならない。
生きて、幸福を望まれた姫君を護って、間違いなくしあわせに――
まだ辛うじて穢されていない空気に、ふと、男の呼吸が乱れた。
そこは、利便性の向上のため、近く再開発される予定だった区画。
戦の前に住民の立ち退きが済んでいたため、その一角だけは、死の臭気や毒気交じりの煙がごく薄い。
また、その場所は、軍や密偵が使用する隠し通路から、そう遠くない位置にあった。
少し、少しだけ休もうと、男は、目に付いた廃屋に、扉を壊して潜り込む。
もはや戻る者は存在しないのだ、多少の破損など、気に留める生者はいない。
普段は男の思い通りになる身体が、恐ろしく重たいのは、人生で一番の重圧と、亡都の汚れ切った空気のせい。
男は、壁際でズルズルと座り込みながら、自分と姫君の口元を覆っていた布を取り払う。
どこぞの悪ガキの犯行か、硝子が割られた窓から外気が流れ込んでいた、室内の空気は埃っぽくなく、澱んでもいなかった。
いつの間にか、途切れがちになっていた鬨の声に、男は姫君を抱え直して、瞼を閉じる。
逃げ出すには、まだ早い。
間もなく亡都に押し入ってくるだろう侵略者たちが、一国の滅亡を確かめ切るまでやり過ごして、それから――
激痛。
暗転。
それから
――目の前に、自分がいた。
姫君を抱え込む己の身体を、男は声もなく見下ろす。
すやすやと寝息を立てている姫君の上で、がくりと垂れている頭は、ピクリとも動かない。
呆然としたまま伸ばした男の腕は、小さな温もりを感じることなく、すり抜けた。
なぜ
『『『『『『『『『『なぜ』』』』』』』』』』
聞こえるはずのない幾つもの声に、男は弾かれた様に顔を上げ、――絶句した。
宰相がいた。
女官長がいた。
騎士がいた。
侍女がいた。
もう、死んでいるはずの者たちが、男と男の体と姫君を取り巻いていた。
まさかと思う前に、男は悟る。
知っていた。
知っていたのだ。
健康だった人間が、ある日突然、死に至る事例を、男は知っていた。
――けれど、どうして、いま、じぶんが。
男の目に映る、無数の顔の失望と絶望は、鏡のよう。
男の代わりに、姫君を廃屋から連れ出す者はいない。
だって、残らず先に死んだから。
死んだばかりの男は、生きていた時のように、床の上に崩れ落ちる。
おぼろに透けた掌は、もはやなにも掴めない。
死に狂い、死が溢れかえった亡都の片隅で、生者に届かぬ咆哮が、長く、響いた。
◆◆◆
ディーノの今の主君は、子供らしく甘っちょろい。
「……ディーノ、なんでこんな事したの?」
「そりゃあ、若君、俺の目の前で運ばれていましたからね」
「え、そうじゃなくて……」
ディーノの飄々とした返答に、まだ幼い主君は、困り果てたように見比べる。
死と再生を司る神を奉ずる帝国の、皇族に特有である紫黒の双眸が、おろおろと忙しなく動いていた。
「――どうか、どうかこの通りっ!!」
『――帝国にくれてやるものなど、なにもないわぁっっっ!!!!!!』
辺境とは言え、領主なのに土下座している主君の義理の父に、彼に対峙する偉丈夫が、おぼろげな姿でも分かる憤怒の形相で怒鳴りつける。
空気を震わせず、頭に直接響く胴間声は、ディーノと同じ死者の声音だ。
殺気だったやり取りを綺麗に流し、愛用の煙管に火を入れようとしたディーノの上着の裾を、稚い手が引っ張った。
「ディーノ、からだにわるいのは、めっ、なの!」
「――いや、すいませんねぇ、姫様」
小さなお姫様の円らな青い瞳に咎められ、ディーノはばつが悪くなりながら、煙管を懐に戻す。
みんなのお姫様の背後では、亡国の女官長やら辺境侍女やら、亡者生者問わず、姫君の教育に悪いディーノに対して眦を吊り上げていた。
ちなみに、彼らがいる辺境領主の館にある広間は、お姫様の勉強部屋兼領主の執務室兼休憩所兼その他諸々の場所という、なんともごった煮な使い方をされている。
帝都の貴族あたりには、どこまで部屋数が少ないのかと、館の規模を鼻で嗤われそうな使用法だ。
なお、館自体は領主に相応しい大きさなのだが、いかんせん、騎士だった領主の気持ちと常識の問題なのである。
ディーノが持ち込んだ斧槍に縛られた亡霊は、生者と死者が入り混じる光景に、ますます気を悪くしたらしかった。
『……死霊の王におもねるなど、平和惚けした小国に誇りはないのかっ!!』
忌々し気に吐き捨てられた偉丈夫の台詞に、亡国の死者たちから表情が消える。
攻め入る帝国を前に、亡ぶしかなかった小国とて、誇りはあった。
侵略者たちに膝を折るよりも、一国丸ごとの自害を選んだぐらいには。
帝国と戦い抜いて果てた南国の王に、ディーノは、同朋達の代わりに答えを告げる。
それは、他の誰より、ディーノが言うべきことだったから。
「誇り以上に、守りたいものがありましてね」
――ディーノの黒緋に変じた瞳は、幼い死霊の王の直臣たる証。
故国を亡びへ追い込んだ、帝国の皇子に忠節を誓い、ディーノは生者さながらの身体を手に入れた。
己が取り落としたものを、今度こそ、護るためだ。
ディーノの言葉に、偉丈夫のおぼろな眼差しが、小さなお姫様に向けられた。
白金の髪に、大きな瞳の青い色彩は、小国の王統の特徴だ。
お姫様の無敵な可愛さ(女官長他談)は、しかし、傑出した戦士であり、歴代屈指の鍛冶師でもあった、南国の長の無骨ぶりには通じない。
『――――――――か』
険しい顔で、低く、低く呟かれた言葉を、ディーノは受け取り損ねた。
みんなのお姫様がビクッとなった怖い顔に、明るい日差しが差し込む広間の温度が、急降下する。
「あのっ!!」
最悪の雰囲気で声を出せる主君は、ちびっ子の割に胆力があると、ディーノは思った。
「弔う前に、貴方の墓標の手入れをしても、構いませんか?」
主君の細い指先が、絨毯の上の簡素な台座に横たわる、重厚な斧槍を指し示す。
総身が金属で作られ、重量がある斧槍は、生前のディーノでは、持ち運びに難儀したであろう代物だ。
――帝国に地図から消された南国において、戦士たちの墓標は、彼らが愛用していた武器であった。
南国では、優れた武器を作るために、鍛冶師は、戦士として自らの作品を振るい、死しては己の技量を墓碑として遺す。
作り手ではない戦士たちもまた、彼らの武器の作り手に敬意を表し、それに倣ったという。
戦禍の中で技が失われ、今は同じものが作れない南国製の武器の強靭さは、主の最期を永く謳うためのもの。
そして、主を看取った愛器は、墓標となる前に最後の手入れを受けるのが、南国での戦士の弔いの作法だ。
『――』
思春期前の澄んだ声に、南国の亡霊が、怒気を鎮める。
老帝の末子の庶子でしかない主君は、しかし、幼いながらも、死にまつわる儀礼について異様に詳しい。
死と再生を司る神を奉じる帝国の皇族は、仕える神ゆえ、他国であろうと葬儀や鎮魂における最高位の祭司であるからだ。
……その役割を、主君以外の皇族たちは、放棄しているようだが。
主君に観察する目を向けてくる偉丈夫の沈黙を、温厚な少年は、珍しく強引に、自分の言葉への許可だと解釈したらしい。
南国の亡き王に土下座した後、両手を床についたままだった騎士領主に、主君は早口で語り掛けた。
「義父上、僕、鍛冶師組合に行ってきますね。
――アンジェも、お留守番して待っていてね、帰りに、お土産を用意しておくから」
ものっすっごい顔をしている同朋達(特に女官長)を見ないふりをし、慌てて離脱を図った主君が、その紫黒の瞳でディーノを見上げる。
「ディーノ、鍛冶師組合の場所は分かるよね」
「当たり前ですって、若君」
ディーノはそう言いながら、片手で斧槍を持ち上げつつ、主君の手を取った。
そして、次の一瞬で、亡国の姫君の密偵と死霊の王の姿は、領主館の広間から消え失せたのだ。
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