ACT.06 神の不在
「……」
「……零、何やってる。オレのコーヒーをただの茶色い液体にするつもりか」
「……祈響」
「ん?」
「……何故こいつが此処にいる」
憮然とした面持ちのまま、零は眼鏡を押し上げる。その視線はかつて『大神』と呼ばれた者に向けられていた。
対して、愛用のソファに足を組んで座る青年は優雅に微笑んだ。
「お前の老化現象も堪ったもんじゃないな。偉大なる元『大神』の存在を忘れるとは」
「……それを訊いているんじゃない。俺が訊きたいのは、何故こいつが此処にいる必要が有るのかと言うことだ
「あぁ…今のこいつには躾が必要だからな。暫くは此処に置くことにした」
その刹那、零の眉がぴくりと不快げに動いた。
それを見落とさなかったのか、祈響はくす、と笑う。
「……もしかして、動物苦手か?」
意外な弱点新発見、とあからさまにからかいと見える文句を吐く青年に「そんなわけあるか」と零が冷ややかに応じたと同時に。
遠慮がちに、事務室の扉がノックされた。
「開いてる」
祈響が短く応じ、奥から藍色が覗く。
〔お帰りなさい〕
「ん。悪かったな、留守番任せて」
お疲れ様、と祈響が笑むと、由良はぎこちなく微笑んだ。
不意に藍色の瞳と金色の瞳の視線が交わって、
〔この子は?〕
「あぁ、こいつか。先日の依頼で意気投合してな。なかなか利口な屍だ」
零は苦手みたいだけどな、と祈響は笑う。
「…で? そいつ、名前は」
淹れ直したコーヒー、紅茶、そして今入ってきた少女の為にとホットミルクをそれぞれ机に置き、零は言う。
どことなく不機嫌な様子で。
「そうだな…“ライカンスロープ”。略して“ライカ”」
即興だが良い名前だろ? と祈響は笑う。
「“人獣”か…安易だな」
「シンプル・イズ・ザ・ベストと言うだろ?」
言葉を詰まらせる副長にくす、と祈響が笑った直後。
不意に、“来客”を告げる鐘が響いた。
紅い瞳を僅か細め、コーヒーを飲み干すと、青年は立ち上がる。
銀糸を揺らし、冷えた声音で呟く。
「…政府の輩か。この時期に来るとは…驚きだ」
カップを置き、“紋章”の入ったネクタイを締めて祈響は銀糸を揺らした。
「おそらく今回の緊急要請の件だろうな。政府の小言を聞くのも面倒だが…オレひとりで出迎えて来るよ」
「―――久しいですね、祈響殿」
祈響殿、と。
す、と背筋を正し、近付き難い空気を纏わせそう呼ぶのは、政府の“氷の華”と謳われる女性。
「誰が来るのかと思ったら…よりによってアンタか、銀嶺」
応接室のソファにもたれ、祈響はあからさまな文句で出迎える。
「その軽率な物言いで足元を掬われると何度も申しておりますよ」
氷のような眼光をチラと青年へ向け、冷ややかに銀嶺が告げると、ク、と短く笑って祈響は「それはどうも」と肩をすくめた。
「何の用だ? 用も無いのにわざわざ支配下の組織を訪れる暇は無いと聞いたが」
用件は、と問われ、銀嶺は表情ひとつ乱さず応じる。
「またひとり、違法の屍を引き入れたそうですね、祈響殿」
「“政府の断りも無しに”…か? 始めに断った筈だ。好きにやらせてもらうとな。それに、あいつは違法でも何でもない。政府の目も、そろそろ狂ったんじゃないか?」
嘲笑を浮かべる青年を一瞥すると銀嶺は変わらず冷淡な口調で、
「その言動、その体裁…とても組織の“指導者”とは思えませんね」
「褒め言葉をどうも。こういう男なんでね」
個性は大切だぞ、と笑う青年を見やり、
「“お遊び”はほどほどにした方が賢明です。そのようなことは当にご存知でしょう?」
「あぁ、聞いた。だがオレは遊びだと思ったことは一度も無いんだよ。ましてや、『はい、そうですか』と同胞を差し出そうと思ったこともない。政府がどう言おうと…この組織の“指導者”はオレだ」
そう告げる声音は、瞳は、確固たる意志を携え。
青年の美貌からは笑みが消え、赤の眼が、より禍々しく染まる。
「オレ達はオレ達のやり方で“理想郷”までたどり着く。必ずな」
手出しはするな、とその声音は告げる。
「このオレを説き伏せようと思うなら…トップである“奴”を連れてくるんだな。考えてやらないことも無い」
不敵な笑みを浮かべる青年の言葉に、銀嶺は淡々と告げた。
「―――この事は“上”に報告します。もう少しご自分の立場と言うものを考えた方が宜しいかと」
「へぇ。それは“忠告”か? それとも“警告”か?」
「ご自由に」
好きなように解釈すればいい、と。
言って、銀嶺はス、と無駄のない動きで立ち上がり、踵を返す。
「――…あぁ、そうだ」
歩み出した相手を、青年がさも今思い出したかのような口調で呼び止める。
「“上”に報告するついでに、“奴”に伝えてくれないか」
「……何です」
「……“その《羽》、直ぐに堕としてやるよ”……ってな」
聞いて、銀嶺は振り返る事無く応じる。
「……世迷言を。あの方は貴方とは違います。悠々と空を舞い、やがては狩人に撃ち殺される鷹のように不様に堕ちるようなことなど、有り得ませんよ」
「そうか。それは失敬」
肩をすくめ苦笑する“指導者”を刹那一瞥し、銀嶺は足音を立てず扉の奥へ消えた。
閉められた扉を赤の眼で暫し見つめ、祈響は嗤う。
紡ぐ声音は掠れ、酷く冷たい。
「その《羽》を赤で染める時は、そう遠くないというのに……」
一方。
「離れろ狼男ッ。噛み付くなッ」
『ローズロイヤル』事務室では、ひとりの男と少年が取っ組み合っていた。
不意にその扉が開き、
〔あ、祈響〕
それに気付いた少女が紙面にペンを走らせる。
「何だかんだで結構仲良いじゃないか、零」
「……お前な」
これの何処がそう形容出来るんだ、と睨む零に祈響は笑い、ソファに座る。
「ライカ、零にじゃれつくのも程々にしてやれ。そうしないとこいつがストレスで過労死する」
それは困るから、と祈響が微笑すると、ライカは大人しく由良の傍らに座った。
「……睨む前に感謝して欲しいんだけど、零。あぁ違うか……動物嫌いな副長さん」
「……いちいち言い直すな」
この横暴リーダーが、と零はため息交じりに言った。
机上に散らばる本来の意味をなさなくなった書類達を見つめ、零は短く舌打ちした。
「……余計な仕事増やしやがって……」
大体掃除するのは誰だと思っているんだ、とこぼすと青年が微笑。
「まぁ良いじゃないか。好奇心旺盛なのは悪い事じゃない」
「それとこれとは話が別だろう」
「同じさ。興味が有ることには貪欲にならないと、この世界に残れないどころか理想郷の足元にも及ばない」
そうだろう? と祈響は笑んだ後、組んでいた足を解き、ライカに声をかける。
「ライカ、丁度良い機会だ。この“世界”を視せてやるよ」
わずかに首を傾げるライカを祈響はついてこい、と促した。
*
音を立て、扉が閉じられたと同時に、零は深いため息をつく。
彼を仰いだ由良が、スケッチブックにペンを走らせた。
〔零、少し休んだら? 最近依頼続きで疲れてるでしょ?〕
副長の仕事は極めて多い。
いくら『ローズロイヤル』が少数の先鋭部隊と言っても、依頼が少ない訳ではないのだった。
だから、休める時に休んだ方が良い、と。由良が紡ごうとした刹那。
規則正しい寝息が、ソファから聞こえてくる。
黒髪に隠された深緑の瞳は、おそらく閉じられていることだろう。
あの指導者は、気づいていたのだろうか。
そんな事をふと思いながら、由良は空いているソファに座る。
空は蒼く、透ける。
暖かな静寂に、由良はふと笑みをこぼした。
*
思いの外、呆気なく沈んだ意識を浮上させ、零は僅かに深緑の瞳を開いた。
眼鏡越しに映る銀色。それと同時に油性ペン独特の匂いが近付いてくる。
―――油性ペン…?
「――――ッ!!」
思わず身を退く。
「あぁ、おはよう」
二、と微笑する青年を目前に、零は問う。
「…何をしようとしていた」
「落書き」
悪びれず即答する相手の胸ぐらを掴み、
「……一発殴らせろ」
「却下」
仕方がない、と言った風に、祈響はペンのキャップを閉め、つまらない、とぼやいた。
愛用のソファに背を預ける青年に、零は訊いた。
「…由良とあの狼男は」
「あぁ、自室。時間帯で言うと夜だからな、今」
器用に油性ペンを指で弄びながら、祈響は言う。
どのくらい眠っていたのだろう、と思うところで、祈響が続けた。
「どうだ、零。良く眠れたか?」
随分と疲れているようだったが、と心情を見透かすように、赤の眼が笑う。
「……どういうつもりだ」
「別に? お疲れ気味の副長さんにサプライズプレゼント」
なんてな、と笑う祈響に、零は呆れたようにため息をつく。
「…馬鹿だろ、お前」
「束の間の休息ってやつだよ。今日は“神様”が不在の様だから」
「…『アイツ』に不在も何も無いだろう」
「まぁ、そうだけど」
ははっ、と無邪気に笑う青年はソファから立ち上がり、棚から盤を取り出した。
次いで、同じ棚から黒と白の硝子で形どられた駒が同じく取り出される。
「久しぶりにチェスでもやらないか?」
眠気覚ましにどうだ? と青年が微笑するのに、零は「仕方がない」と応じる。
「1ゲームだけなら、付き合ってやる」
夜の帳が降りて、暫くの時が過ぎた。
「―――なぁ、零」
歩兵を片手に、祈響は呟くように問う。
「チェスには白と黒しか無い。戦争には、勝か負しか無い。……それが当然で、必然だ。でも、だったら、そのどちらにも“入れぬ”モノは……“異端”以外の、何なんだろうな」
どちらにも染まらず、どちらにも属さないモノが在るとするなら、それは異端以外の何なのだろう、と。
そう紡ぐ声音は淡々としていて、けれど酷く自虐めいていた。
「……別に、世界が白と黒で出来ている訳では無いだろう。戦争にしても、必ず勝敗がつくとは限らない。和解することだって有り得る。…“異端”でも、何でもないだろ」
応じるように、零は言う。
祈響は駒を動かしながら、
「そうか」と微笑した。
「お前らしい回答だな」
“いつもの”調子で笑う青年は手に持った“騎士”を盤に置き、続ける。
「……確かあの時もお前はそんな風にオレに説教したんだった」
「……根に持つな。だいたい、昔の話だろう」
「……そうだな」
両者が暫し沈黙し再び静寂の中。
カツン、と硝子同士がぶつかる音。
白と黒が入れ替わる。
そして。
“王”が終焉を迎えた。
「―――チェックメイト」
青年が唇に笑みを浮かべる。
「…これで、通算50連勝だ」
つまりお前は通算50連敗だな、と青年は獲った“王”の駒を手のひらで弄び、言う。
「やはり柔軟性に欠ける。物事を堅苦しく考え過ぎだぞ」
「うるさい」
くす、と笑う青年を前に零は内心舌打ちした。
「まぁ、そういう奴も居ないとからかい甲斐が無いんだけどな」
「……お前な」
――どうして当人を前にこいつは平気でこういう台詞が言えるのか。
“昔”の方がまだほんの少々は素直で聞き分けが良かった気がする、と思うところで、赤の眼と視線がぶつかる。
「? 何か言いたそうだな。零」
「――…別に」
そう応じ、零はふと窓の外へ視線をやる。
「…明けたな」
「あぁ」
本当だ、と祈響は笑む。 朝陽を浴び、銀色の髪が、煌めきを放つ。
「――さて、次はどんな奇怪な依頼が舞い込んで来るのやら」
言って、赤の瞳が心底愉しそうに、笑った。