ACT.10 瞳の住人
「オレに他者の為に死ねと? …愚問だな」
冷ややかな笑み。常にない冷えた声音で、祈響は笑う。
それを見やり、『雪月花』の指導者は苦笑。
「そう言われるんはある程度予想してたんやけどな。俺らにもそろそろ限界が来てんねん」
「何の限界だ?」
分かっているくせに、と言わんばかりの口調で、東雲は告げる。
「――お向かいの指導者さんがな、臨戦体制に入ったんや。元々考え方が俺らとは違うさかい、嫌われてるのは承知済みな訳やけど」
聞いて、あぁ、と祈響が言う。
「あぁ…『マリゴールド』の連中か」
東の『雪月花』を保守的と例えるならば。
西の『マリゴールド』は革新的と言ったところ。
このまま“戦争”に発展するにしろ、しないにしろ、中立の立場である『ローズロイヤル』が邪魔な訳だ、と祈響が笑う。
「組織の大小にかかわらず指導者を狙うのは基本中の基本だしな」
「せやな」
言った刹那、空気が震えた。
「―――…」
抜き払われたのは、黒き刀。
青年の銀糸がはらりと地に落ち、その白い首筋にそれの刃がピタリとあてがわれる。
『雪月花』指導者である東雲の“契約”――『漆黒拡散』――だった。
「その指導者の首の根を狙うのも基本な訳やけど…落ち着いたもんやな、表情ひとつ変えんとは」
「“昔”からオレに刃を向ける輩は数多く居たんでな。今更そう驚かないさ」
「さよか」
グ、と刃に力が込められる。その先端が僅か赤に染まった。
それでも尚表情を変えない青年に、東雲は僅かの皮肉を孕んだ声音で呟く。
「『神様に最も近い者』、『神の寵愛を受ける青年』―――そんなごたいそうな肩書きを持っとる自分でも……案外簡単に殺せたりしてな?」
「…そうなったらオレの代わりにウチの副長がお前を殺すだろうな」
見かけに寄らず血の気が多い奴だから、と赤の瞳だけ動かして、祈響は言う。
その言葉にフ、と笑って、東雲は告げた。
「…せやったら、試してみてもえぇかもな―――」
黒が煌めき、銀が揺れる。
「――…アカン」
東雲がぽつりと呟く。
「…空、曇ってもーた」
刀身が、“無い”。
今の今まで其処に存在していた東雲の契約――『漆黒拡散』――の刀身が“消えて”いた。
まるで太陽の元に存在する影のように。
まるで光の元に存在する闇のように。
「まぁ、天気には逆らえへんもんなぁ…」
仕方がない、と東雲はため息をひとつこぼして契約を仕舞う。
今までの冷たい雰囲気を払拭するようにニコリと笑んで、彼は言った。
「無茶言ってすまんかったな。……ほな、帰るで、天音」
促された『雪月花』副長が僅か困惑の色を表情に浮かべ、応じる。
「…えぇんか」
「あぁ、えぇよ。お疲れのところを長く引き留めんのも悪いし」
行くで、と微笑んで『雪月花』指導者は踵を返し――けれど、立ち止まる。
「あ、そうや――ひとつ、忠告しといたる」
言って、笑う。
「たまには“下”も見んと…狩人に容易く狩られて終わりや。そうや無くても――鷹は目立つんやからな」
屈託の無い笑みを浮かべて、東雲は続ける。
「気ぃつけや。『狩人』はすぐそこまで来てんで」
その刹那。
リン、と鈴の音が響き、ふたつの影が消えた。
「―――…つくづく理解出来ないな、あいつは」
眼鏡を直し半ば呆れたように呟く零に祈響は笑みかける。
「あはは、でも窮地に立たされた鼠は猫をも凌ぐからな…どうなることやら」
あたかも他人事の口調で、祈響は帰ろうか、と笑った。
**
「―――何や、不満げやなぁ、天音」
「……そういう自分はえらい上機嫌やね、東雲」
笑う指導者に、天音は自身の金色の髪を揺らして問う。
「――…何で、殺さなかったんや?」
あの時。
太陽が隠れるほんの一瞬でも前に力を込めていたなら、あの青年を殺せていただろう、と。
怪訝そうな表情のままそう訊くと、相手が笑う。
「そうしても良かったんやけどな。…あぁ、ちゃうか…そうさせてもらえへんかったんやろな、あの場合」
自らに言い聞かせるような東雲の口調に天音が僅か首を傾げると、「気まぐれや」と相手が微笑して、言う。
「しっかし変わってへんなぁ、祈響はんは」
「……何がや」
「攻めてるんはこっちやのに、どうも詰めきれへん。それだけやない、訳の分からん“畏れ”を覚えさせられる…まるで神様と、おんなじや」
まだ手の震えが止まらへんわ、と東雲は自らの手のひらをふと見つめて苦笑する。
「…自分がそこまで言うの、珍しいな」
「そか? 俺らはお向かいさんとのこともあるさかい、祈響はんには世話んなるかもしれへんなぁ…ま、気長に構えて行こか」
不意に射し込んできた太陽の光を仰ぎ、東雲は笑う。
「お、晴れた。まだ神様はヘソ曲げておらんようやな」
「…?」
意味が分からず再度首を傾げる副長に屈託ない笑みを投げかけて、
「はよ向こうに帰って、桜見ながら団子でも食べようや、天音」
リン、と鈴の音がどこか遠くで、響いた。
**
「…零」
淹れたてのコーヒーを片手に『ローズロイヤル』指導者は左右異色の双眸を副長に向ける。
「…………何だ」
そう応じると、青年がどことなく不機嫌さを孕んだ声音で言う。
「和風パスタ」
「……は?」
「いい加減腹が減った」
三日前の昼から何も食べてない、と青年が告げる。
あぁ、と零は内心納得した。
“ハーメルンの笛吹き”の依頼が来たのは丁度昼時。依頼先では殆ど何も食さないこいつにとっては、言う通り三日前から何も食べていないに等しいのだ。
「……と言うわけだから。零、オレがシャワー浴びて帰って来るまでに作っておけよ」
言うだけ言って、青年は扉の外に消えた。
「―――……?」
零は消える銀色を見送り、そして気付く。
違和感。
否。“気配”、だろうか。
「……馬鹿馬鹿しい」
そう吐き捨てるように呟くと零はソファから立ち上がる。
テーブルには飲み干されたコーヒーカップから僅かに湯気の余韻が漂っていた。
*
降り注ぐ透明な雫に、銀色が濡れる。
雫は細いそれを伝い、青年の白い頬を、首筋を、肩を、腕を、湿らせていく。
伏せられていた長い睫毛がふと開き、双眸を同じく濡らした。
「――…」
青年が己の左瞳――“幻葬の瞳”を片手で覆い、呟く。
「――…“神様は何故僕らだけ愛してくれなかったのか”…か」
温かな雫とは対照的に酷く冷えた声音で、青年はひとりごちる。
全てを嫌悪するかのような声音で。
「……くだらない」
緋の眼を僅かに細めると、青年は温かな雫を止め、荒々しい手付きで己の銀色を拭き、掛けてあったシャツを羽織る。傷跡を、覆い隠すように。
「――…本当に、くだらない」
*
「……ん。美味しかった。ご馳走様」
注文した品を容易く平らげ、祈響はフォークを置く。
半乾きの銀髪をかきあげる青年を深緑の瞳が凝視した。
「……」
「…? 何か言いたげだな、零」
「…お前、その眼に…今どのくらい“侵食”されている」
「――…気付いていたか。流石だな」
薄く笑んで、祈響はソファに背を預ける。
「いいから答えろ」
はぁ、と青年は刹那ため息をついてかきあげた銀髪をおろす。
左右異色の瞳がふと伏せられた。
「――…五割、といったところか」
祈響は一拍置いて、言った。
“幻葬の瞳”。
あまりにも強すぎる存在が故にそれ以外の名を持たぬ眼。
青年の左眼に収まるそれは、“切り札”と言うには切れ過ぎる。
「…そんなに心配するな。自分のことくらい、熟知してるさ」
祈響は他人事のように笑った後、呟く。
「……“まだ”大丈夫だよ。まだちゃんと、“痛み”を感じられる」
だからまだ大丈夫だ、とその声音は告げる。
「………」
無言でその視線のみ向ける副長にフ、と微笑んで青年は言った。
「それじゃ、オレは此処で仮眠をとることにするから。始末書その他諸々、あとよろしく」
愛用のソファに体を預け、瞳を伏せる青年。
程無くして、微かな寝息が聞こえてくる。
―――“痛み”。
それを感じるのは“自分”で在ることの証だと、青年はいつかに言った。
まだ痛みを感じられる。忘れてはいない。
“まだ”
それはいつまで“まだ”なのだろう。
もし。
こいつが“痛み”を感じる事が出来なくなったら。
その時は―――――…
*
静寂。
銀色が窓辺の月に照らされ、煌めく。
ソファの上で仰向けになったまま、青年はひとりごちる。
「……“もうひとりの神”…“太陽を神として崇める名も無き街”……なかなか面白い余興だった」
乾いた声音が刹那笑う。その双眸がふと窓の外を見やり、形の良い唇が“その名”を呼ぶ。
それは天地創造の神。
それは総てを操る“幻葬”。
自嘲めいた声音が、その名を呼んだ。
“貴方は”、と。
「これも全て手のひらの中だと言うのなら…貴方は次の駒をどう動かす? ―――夢夜」
独白のように紡がれた言葉。
けれど、それに呼応するかのように、“気配”が具現する。
長く美しい、白銀の髪。
その美貌に浮かべる神々しい微笑。
そして。
右の、緋の眼。
それらを携えて、“神”が応じた。
「自ら振った賽の目に従うだけのことですよ―――愛しい我が子」