なろうの流行
「小説家になろう」には流行がある。
最近の流行りは何ですか? と聞かれれば、多くの方が「もう遅い」が今は流行だね、と答えるかもしれない。
少し前だと「幼なじみざまぁ」何てものが流行った事もある。
では、なろうの流行は常に激しく変遷してるのか? と考えた場合、実はその物語の構造は似通っている。
「主人公は、自己を不当に抑圧する無能な人物や組織(以下抑圧者)から解放され、真の姿を取り戻す。その過程で、抑圧者が痛い目に合うことがある」
つまり正当な評価の回復、という構造だ。
この構造に気が付いている人は多いと思うが、あえてこれを避けている人も多いのではないのだろうか。
ピンと来てない方の為に以下に解説する。
例えば昨今流行りの「もう遅い」系。
この系統の話では、実家や王様といった権力者が「抑圧者」となる。
この抑圧者たちは大抵「その存在に生まれたから」という理由で主人公を抑圧する。
例えば実家の場合、実家は代々続く名家で、主人公を抑圧する父や母は「ただ名家を継いだ当主やその伴侶」として描かれる。
勿論、一般人に比すれば高い能力を有していると描かれることもあるが、大抵は「主人公より無能」である(物語開始時点では主人公より強く描かれる事もある)。
国王も「一代で国を創った英傑」みたいな人物は少ない。
細かく描写されることもあまりないが、大抵は「無能だけど血筋で王になったんだろうなぁ」といった人物が多い。
そして、ちょっと前に流行った「幼なじみざまぁ」。
幼なじみという存在は、まさに「たまたま同年代に主人公の近くに生まれたから」という、ラッキーな存在そのものとして描写される。
学年一の美女とか秀才だったりする才女として描写されることもあるが、前髪上げるだけでアイドルでさえ一目惚れする外見を有していたり、学業はイマイチでも、例えば芸術や音楽などの分野において、唯一無二の高い能力を有している主人公には釣り合わないのだ。
つまり
「たまたまその立場を得ただけの無能の癖に、ずいぶん偉そうにしてますね」
というのが、「抑圧者」に共通している特徴となる。
この抑圧者から主人公が解放される過程で痛い目を見るのが「ざまぁ」となる。
ざまぁについては、このエッセイではなく過去に書いたエッセイ
「なぜ追放ものを読みたくなるのか? 読み手の心理から考える書き手のテンプレ考察」
に書いた通りなので、今回は省く。
つまり、次に何か「なろうの流行」と呼ばれる小説が台頭してきても、恐らく
「主人公が抑圧者から解放され、真の評価を回復する」
という構造に当てはまるのではないだろうか。
たぶん。
では、また何かあれば。




