9・皮肉の応酬
「値上げされるかと思ったけど、そうでも無かった様だね」
部屋に入って真っ先にメアリーに痛烈な皮肉を投げたイルにメアリーは力なく睨みつける事しか出来なかった。
「気に入ったなら奴隷として買わないか」と話を持ち掛けられてはしたが今のイルにとってこの奴隷を得ても使い道は無い。話は考えておくとだけ告げ、断った。
怯えの残る視線は何度も床を舐め、それでもイルの様子が気になるのか、彼の顔へと戻ってきた。
イルはそれをまるっきり無視して机の上に手荷物を広げ、荷物を整理した後、リュックを机の下におろし、小銭を財布に入れ直した。気に入ったペンをベストの胸ポケットに入れ、剣をリュックの横に下ろした辺りで、メアリーが死を覚悟した悲壮な顔をし始めた。
メアリーに気を払っていなかったからか、彼女がどういう思考でこうなったのかイルにはさっぱりだった。声を掛けるか一瞬だけ逡巡して、イルは買ってきた酒瓶と食事を机に載せた。
「わるいね、まさか、そこまで空腹だったとは思わなくて」
「いや、違いますから」
見当違いのイルの台詞に、思わずメアリーは真顔に戻ってツッコミを入れるのだった。
イルとしては大真面目にそう思ったのだが、実際はイルの持ち物を見て、金回りが良くなり、口封じされると勝手に想像していたのだが、イルとしても不都合な事を知られているとは思っていなかった。
メアリーに【幻影】が効かなかった事は困惑したが、そういう物なのだろうと理解していた。
そう、イルからすれば、メアリーが必死に知ってしまった事を隠している事も全て筒抜けだ。
だからこそノルクスはイルリュジオン・ウチテルがこの潜入捜査にうってつけだと言ったのだ。相手の考えをほぼ確実に読める程の能力者でありながら、威圧感をもたないこの男を。
イルはメアリーの不安を取り除くべきか、思案する為に、椅子に座り腕を組んだ。だが、その姿こそ、どう調理すべきか考えている様に見えたらしくメアリーは後ずさりし始めた。
思案が無駄になった事に気付いたイルは思考を放棄し、酒に手を付けるのだった。
酒瓶のまま、無造作にコルク栓を指で掴んで引っこ抜くという離れ業をしメアリーを怯えさせたイルはそのまま口元に当て、酒を傾け始めた。
目の前で酒盛りを始めたイルにメアリーは訳もわからなかった。
「面倒だから説明したくない。とりあえず、飯と酒が先だよ。」
ワインを酒瓶で煽り飲む奇人にメアリーは困惑しながらも今回のつまみ交じりの”2人分”の食事に着くために椅子に座るのだった。
イルは彼女に栄養の偏りの少ない無難な食事を、自分には塩気の強いハムと果物のサラダの様な物を口に運んだ。
自身が異世界から持ち込んだ一部の用品をリュックに出すついでに出したフォークで食事をするイル。昨日は手で食べれる様に屋台物ばかりだった。(今日のメアリーの食事も屋台物だった)
やっと食べ物を食べる姿を見たメアリーは謎が一つ増えた様な減った様な気持ちを、無理矢理納得させるのだった。勝手にイルが食事しないかもと決めつけていたが、彼は今普通に食事している。
イルが先に食べ終え、メアリーが後を追うように食事を終えた時、律義にメアリーが食べ終わるのを待っていた。最後に屋台物の果物ジュースを差し出されたとき、メアリーは思わず受け取り、喉を潤すのだった。
一方イルは食事をしながら、メアリーについて考えていた。彼女の思考を読む事も忘れずに。やがて彼女がジュースを飲み終える時、画期的な利用方法に気が付いたのだった。
思わずにっこりと嘘臭い笑みを浮かべてしまったイルに、メアリーは今度こそ嫌な予感が的中するのを予感するのだった。
「奴隷、男と、女。ね」
イルは椅子から腰を上げ、彼女に歩み寄るかと思われた、だがその予想は当たらなかった。踵を返し、部屋を出て行ったのだ。そして僅かばかりして部屋に戻ってきた男の手には。
「!?」
メアリーの奴隷所有証明の紙が握られ、部屋にあの受付の男が入ってくるのだった。
「じゃあお金は払ったから、今から行こうか」
イルがそう言いながら、剣とリュックを拾った。受付の男が僅かばかりのメアリーの私物を押しつけながら、店の外へと促すのだった。
異様な容姿であるメアリーを連れて奴隷屋に入っていく姿は人々の関心と視線を集めるのだった。一方メアリーは悲壮な顔を更に引き攣らせ、屠殺予定の家畜の様に項垂れながら、後をついていくのだった。
受付の男が面倒な手続きを全て行い、イルは血を一滴提出する事で魔術的奴隷契約の主人変更を終えた。書類を革製の奴隷首輪に変え、メアリーは本格的にイルの奴隷となったのだ。
娼館では娼婦が首輪をしていると冷める男も居る為、娼館所有の書類上でのみの奴隷となる。しかし個人所有ならば首輪。イルもその方が都合がいい為、首輪に切り替えた。
彼女の銀貨1枚ではなく、彼女本体の銀貨15枚を支払い、荷物を持ってギルドの公認宿に向かう。イルが楽しそうにしている後ろをトボトボと付いていく彼女の悲壮さに周りが悪い噂を生み出していく。
勿論イルにとって想定済みだ。ここまで考え無しに悪い噂が広まれば誰も彼を工作員だの、魔族だの疑わないだろう。
イルが宿の扉を開いた時、酒場はまだ喧噪に包まれていた。宿の受付には幼い少女が座っており、メアリーを見て、一瞬びくりとした後、仕事を始めた。
「おひとり様一泊銀貨5枚です。食事は朝晩、別料金で一回銀貨1枚だよ」
「奴隷は?」
「奴隷も人数分頂きます」
「2人、7泊。ギルド証は使えるかな?」
ここまでがお決まりの業務連絡なのだろう。イルも手短に奴隷の扱いについて聞けば料金を取られる事を告げた。イルがギルド証を出せば、10歳位の子供は首を振った。
「料金は後でもいいですか?ギルド証はお母さんがしてるから。」
そういって酒場で忙しなく動き回る母親の方に顔を向けた。細身な美人の母親だ。この可愛い少女は母親似だろう。それを見たイルは軽く頷いた。
少女は帳簿を取り出した。会計が終わっている者達はハンコが押されているらしい。少女の差し出したペンを断り、自身の買ったばかりのペンで帳簿に自分の名前イルリュジオンと記すのだった。
「イルル…えっとイリュリュ…」
名前を呼ぼうと固まってしまった子供の前でイルはにこやかに笑った。
「イルでいいよ」
「えっと、イル様は2名様ですね?」
イルの助け舟に乗った少女が、人数を指で指し示しながら確認するのに頷き笑いかけた。
「今晩の食事は無し、朝は二人分欲しい。以降は朝晩ここで取るよ。部屋はツインがあると最高だけどダブルでもいいよ」
そうイルが告げれば、なんと無しにイルに注目していた酒場の客が少しざわついた。奴隷との関係を隠さない事に対する悪い噂だ。子供の前で堂々とし過ぎと言うのも良くなかった。
何より、奴隷の絶望の顔がその噂を後押ししていた。酒場のざわつきに宿の女将たる少女の母がイル達に歩み寄ってきた。
「ツインなら空いてるよ、3号室でいいね?」
笑顔で丁度客室に挟まれた部屋の鍵を渡しながら、イルからギルド証を受け取った女将は受付に回り込み、銀貨48枚分の料金の処理を終えた。
「はい、銀貨48枚。それから悪いけどここは連れ込み宿じゃないんだ。控えてくれると助かるよ。」
そう人好きのする笑顔の女将が差し出したギルド証を受け取りながら、イルも笑い返した。
「ダブルだったとしても、この宿で事に及びませんよ。」
イルの胡散臭い笑みに、宿屋の少女は慌てて受付の裏に隠れるのだった。
【幻影】現時点では謎が多いが、おそらく心を読めるというイルの特殊能力として、幻覚を見せる事と思われる。