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Moon Child  作者: かゆき
第十章 月の子
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10

 声帯が小刻みに震え、咽喉(のど)が自然に熱くなる。溶岩の塊を飲み込んだかのように痛くて苦しい咽喉元を押さえ、朔夜は脱力するように座り込んだ。


 淡く発光する花が微かに揺れている。観覧用の花卉(かき)ではない、野に咲くようなもっと素朴な花。


 そんな名も知らぬ花々の合間に埋もれるようにして人が横たわっている。


 腰まで届く長い髪に、透き通るように薄いワンピース。

 幾重にも重ねた花びらのようなデザインのワンピースは、かたわらの植物にかかっていたが、その重みで花が項垂れることはなかった。


 その様はまるで葉の上に落ちた牡丹雪のようで、薄く入った筋がその結晶を想起させる。

 抜けるように白い(はだえ)に、糸のように(ほそ)い睫毛。


 人というよりも精巧な人形に近い雰囲気を持つその少女を朔夜は知っていた。



「ゆ……え……?」



 震える声でようやくその名を紡ぎ出すと、少女はつぶやきに呼応するようにしてピクンと動いた。


 真珠のかけらで造られたような硬い瞼が震え、睫毛が花芯のごとく揺れる。


 ビスクの肌はうっすらと桃色に上気し、桜の花弁を添えたような小さな唇が微かに開く。



「ゆえ……」



 言下にまなじりと眉間に皺が寄り、ゆっくりと瞼が持ちあがった。


 長い睫毛の陰からこぼれるような青い虹彩が見える。(とろ)けてしまいそうなほど濡れたサファイアブルーの双眸。


 目尻からつうっと一筋、涙が零れ、象牙色の丘陵を下っていく。


 朔夜ははっとして手を伸ばしかけたが、触れる前に少女の目が開き、慌てて引っ込めた。



「ゆえ」



 少女の目は溶けかけた飴玉のようにとろんとしている。


 ぼんやりと目の前にいる少年を見つめ、まだ覚醒しきっていない脳で考えているようだった。


 ゆえの頬に手を乗せ、もう一度呼びかけてみる。


 すると、少女は一度大きくまばたきをし、それからようやく焦点があったようにこちらを見た。



「さく…や……?」



 かすれた声が耳に触れる。朔夜は泣きそうになるのを抑えながら、くしゃくしゃに歪んだ顔で何度もうなずいた。



「ほんとうに…みつけて……くれた……?」



 独語するようにつぶやき、少女は胸元で組んでいた手を解いて朔夜の顔に触れた。


 折れそうなほど華奢な指が目や鼻の上をかすめ、頬から首筋へ降りていく。


 温かくも冷たくもない、何の温度もないその不思議な感覚は紛れもなくゆえのものだった。


 朔夜は唇を噛み締め、これ以上ないほど眉間に皺を寄せながら、狂ったように首肯した。


 そんな朔夜を見て、ゆえは大丈夫とでも云うように目を細めると、うっとりとしたような表情のまま、たどたどしい手つきで朔夜のうなじに指をかけた。



「ゆえ?」



 指が耳の裏をかすめる。


 ゆえは朔夜の首に腕を絡めると、ゆっくりと身を起こし、悲しげに微笑んだ。


 今にも泣きそうなその笑顔に顔を曇らせると、ゆえは眉間に深く皺を寄せ、それから抱きついてきた。



「ゆ…え……」



「……朔夜が王子様だったのね……」



 ゆえはもう一度朔夜の顔をじっと見つめ、破顔した。



「ありがとう……」




 刹那何かが目の前でスパークした。



 閃光弾を食らった瞬間のように視界が一瞬にして奪われる。ただ弾とは違い、目に激痛がはしることはなかった。


 体の内から光があふれ、温かな感情に包まれた。感情はそのまま光となり、気付いたときにはその光の一部となっていた。



 時が流れているのかさえ定かではない光の空間。


 それは夢を見ていると自覚しているときの感覚と似ていた。


 どこまでも続く深淵の中で浮かぶ意識。それは点のような存在でもあったが、同時にこの空間全てのようでもあった。


 そこは過去と現在、そして近しい未来が同時に存在する空間だった。



 光る深淵の中、時折染みのようなものが現れた。その染みはぶれのようなもので空間を維持するためには排除しなければならないものだった。


 何故空間を維持する必要があるのか、いつからこの空間が存在したのか、その答えはなかった。


 ただ染みは必ず消さなければならない。消さなければこの空間は破綻してしまう。


 そのことだけがはっきりとした意思のような形で存在していた。




 あるとき、どこかで激しいぶれのようなものを感じた。


 空間にこれまで見たこともないほど大きな染みが出来ていた。

 それは非常に強い吸引力を持っていた。光の中の一点の染みのようなそのぶれは、見る見るうちに色濃くなっていった。


 それはこれまでの染みとはまるで異なっていた。


 平素であればすぐに消えるはずの染みはいつまで経っても消すことが出来なかった。



 これまでの方法とは別の手段を講じなければならない。



 様々な手立てで染み消しを行ったが、そのどれもが上手くいかず、最後の手段として変換装置を使った。


 別の次元の存在がアクセスしてきたもので、変換装置を介してその次元の物体をとらえることが出来るというものだった。

 

 変換装置には一部損傷が見られたため、自己修復機能を使いながら、この次元の『染み』を探索した。


 二つの次元を照らし合わせると、あっさりと染みのありかがわかった。



 そこは夜の森だった。


 染みの発生源は濃い闇色をした木立の影の小さな塊だった。


 初めは岩か何かのように見えたそれは小さな子供だった。

 その子供は座ったまま放心していて、ぴくりとも動かなかった。



 染みは消さなければならない。



 またたきに反応した染みに、ゆっくりと光を溶け込ませるとぶれが一層激しくなった。



―――望……



 抗う子供の意識と同化した瞬間、消え入るようにか細い『声』が聞こえた。



 だが染みは消えなかった。



 そればかりか無理やり抑え込んだためか、ぶれはいびつな様相を呈し始めた。



 子供を森の外まで歩かせた結果、彼は保護されたが、凍りついた世界は色を取り戻さず、染みにも変化は起きない。



 それでも時間という概念に流されているうちに染みは少しずつ薄くなっていったように思えた。



 他の人間の呼びかけやその手厚い看護。それらのおかげで子供の内面世界はその温度と色をじょじょに取り戻していった。


 光の中の染みは薄くなったが、家族が消えた違和感からか決して消えることはなかった。


 ちょっとしたことであふれ出す真っ黒な染みを押さえるように、絶えず子供の意識を見守った。



 けれど再び世界は崩れた。



 それは陰雨の酷い、初夏のある夕暮れのことだった。


 地上軍官憲だという人間からの連絡が脳に伝わった瞬間、押し留められないくらいの暗黒が内側から滲み出てきたのだ。


 それは押さえられる限界を超えていた。(せき)を切ったように真っ暗な闇が内部を埋めつくした。

 そして遺体安置室に置かれた二つのカプセルを前にしたときには、子供の内面世界は前よりも更に酷い状態になっていた。


 外部から慰めの言葉が幾度もかかったが、それすら届かない。


 そうして親類だという男とともに帰宅し、誰もいないリビングルームを見た瞬間、最早修整のしようがないくらいずたずたにひび割れていた彼の世界は砕け散った。


 光る深淵の中で黒点が広がっていく。



 これまでの方法では修正出来ない。



 だから今度は染みを隔離して、時間が経つのを待つことにした。


 変換装置にあった不必要としか思えない膨大なデータを引用し、染みを隔離する空間を作った。



―――頼んだよ、『ユエ』



 解析装置を作った人間が入れたメッセージが今更ながらに再生された。



―――……君が人と語り合いたいと、そう望んだときのためにこの子を置いていくよ



 染みを消すには『語り合い』が必要なのだろうか。



 子供はリンクさせた映像に怯えて大きな声で泣いていた。空間にいびつなぶれを引き起こしている。


 次元保全のために、急遽変換装置の中に大量にあったデータをベースにして同じ年のころの少女を子供の前に出現させた。



 上手く再現出来ているか不明だったが、子供はすぐに反応した。



「……誰?」



 目尻を擦っていた手を下ろし、子供は怯えたように震えた。


 その様子に大丈夫と微笑み、変換装置の名を口にした。



「ゆえ」



 そしてもう一度微笑を浮かべ、子供の手を取った。



「遊ぼ」




 言下に画面がはじけた。



 青い画面が粉々に砕け、破片が割れたガラスのようにきらきらと光りながら落ちてくる。

 やわらかいのにまぶしい真っ白な光。


 その光は視界一杯に溢れ、やがて少しずつ晴れてきた。



「あ……」



 霧が晴れた画面の向こうに現れたのは、舞踏場のような作りをしたホールだった。


 それまで通ってきた廊下と同じ無味乾燥なデザインの床が一面に広がるのみで、植物一つ見当たらない。


 あるのは、高い穹窿(きゅうりゅう)と天井から伸びた細い柱、そしてその合間から見える青く巨大な星だけだ。



 部屋の様子はついさっき見たものと同じなのに、花畑だけが消失している。

 ただその代わりとでもいうように、先程はなかった機械が部屋の真ん中にあった。


 その周辺を囲むように放射状に並べられたカプセル状の装置に繋がっている。

 それはちょうどゆえが眠っていた場所と同じで、朔夜はもしかしたらという思いで駆け寄った。


 床に足が着くたびに軽い音がして、そのあとすぐに体が浮く。




 繭のような装置の一つを覗き込んだ瞬間、心臓が大きく波打った。


 手に持っていたヘルメットがゆっくりと落ち、小さな音を立てて床の上でバウンドする。



「……あ…」



 コクーンの中には白骨化した遺体があった。



 空気に触れなかったせいか、千年もの時が経過しているというのにそこまで崩れもせずに残っている。


 頭蓋骨から抜けてしまったばさばさの髪が遺骸の周囲に散乱し、服と思しき布片が肋骨に引っかかっていた。


 射抜くように正面を見据えた二つの眼窩(がんか)は絶望を湛えたような真っ暗な闇を抱えている。



 正視出来なくて目を逸らすと、ばさついた髪に異物が絡まっているのを見つけた。


 (ほそ)い鎖がついた大きな鈍色の髪留め。


 ところどころにくすんだ色の小さな宝石がちりばめられたそれを、朔夜は見たことがあった。



―――本当は誕生日忘れてる人にあげるのなんて癪なんだけど



 そう云ってつっけんどんに渡されたアクセサリー。


 しゃらんと軽い音を立てるそれは夢の中で親友だった少女から贈られたものだ。



 まさか。



 朔夜は咽喉(のど)を震わせながら、装置に手を伸ばした。


 心臓が鼓動を打ち鳴らすせいで体がやけに熱く、宇宙服をこの場で脱ぎ捨てたいような衝動に駆られる。


 疲れてもいないのに呼吸がどんどん荒くなり、手が小刻みに振動した。


 詰まったような感覚がある気管を押さえ、大きく息を吸う。



―――ありがとう……、アイラちゃん



「ルナ……レ……」



 息が詰まった。


 気管が収縮したようになり、満足に息が吸えない。


 朔夜はその場に崩れ落ち、両手で口を覆った。気管を拡張しようと空咳を繰り返すが、それでもほとんど呼吸出来ない。


 朔夜はあまりの苦しさに胸を叩き、嘔吐せんばかりの勢いで息を吐き出した。



「う……ぁ……」



 頭に血が上り、目の前の色が痛いくらいに広がる。


 痙攣する指先を握り込み、胸元を押さえながら突っ伏していると、後ろの方から声が聞こえた。



「朔夜!」



 シンは駆け寄ってくると、背中を抱き込むようにして朔夜のかたわらに座り込んだ。



「ようやく見つけた、何やってるんだよお前――朔夜? おいっ、朔夜!!」



 頭の痛みが増す。朔夜は頭を抱えてうずくまりながら、呻き声をあげた。



「…ぐ……、う……」



「朔夜?!」



 叫び声と共にシンの手が背中に触れた瞬間、脳裏に光が散った。



 その光は陽光を反射する水面(みなも)のようにピカピカ輝き、様々に色を変えて脳の奥深いところに染み渡っていく。


 パキンパキンと砕ける音。


 そこから更に色の粒子が弾け、暗黒の欠片が積み重なる脳内に落ちていく。


 地上に落ちた雪が溶けるように、じんわりと吸い込まれていくそれは欠片の色をゆっくりと変えていった。


 じくじくとした温かな感覚。優しい言葉をかけられて撫ぜられるような甘い感触に、朔夜の中で何かが溶けた。



「朔夜……?」



 シンのはっとしたような顔を見て、朔夜は自分の目尻になみなみと水分があふれていることに気がついた。


 咄嗟に拭おうとしたが、意思に反して涙は次々とこぼれ落ちる。



 何だこれ。



 朔夜はどうして涙が出てくるのか理解出来なかった。


 他人に見られているという気恥ずかしさが頭に血を上らせ、こめかみの痛みを倍増させる。


 朔夜は倉皇(そうこう)として涙を除去しようとしたが、その手はシンによって遮られた。


 胸を押さえたまま、つかまれた手を見ると、シンは泣きそうに顔を歪めていた。



「シ――」



「どうして……、お前っ」



 言下に朔夜は抱き締められていた。


 宇宙服の何とも云えない感触が頬をかすめ、朔夜は訳も分からず目をしばたたかせた。



「どうしていつも耐えてるんだよ!」



 金色の光がパキンと音を立てて砕ける。


 落日と同じ色をしたその破片は漆黒の海に落ちていき、凍りついたその塊をじわりと溶かした。熱いくらいの光が、留まっていた涙を押し出す。


 朔夜ははっとして拭おうとしたが、腕はシンの肩の向こう側にあって動かすことは出来なかった。


 身じろぎする朔夜に、シンは首に回した腕に力を入れた。



「泣けよ。何で泣かないんだよ。お前だって云ってたじゃないか。我慢するなよ!」



 その声はかなり震えていた。


 泣いているのはそっちの方だろと云おうとしたものの、気管が詰まっていて喋ると嗚咽が出そうだった。


 熱湯を浴びたように鋭くてじわりとした感覚が皮膚に浸透していき、その熱さで気管は更に麻痺したような状態になった。



「馬鹿……」



 静かな声で囁くように云われ、止まっていた涙がまたあふれた。


 わかるはずがないのに、シンの体温が伝わってくる。じくじくとしたその感覚に、朔夜は静かに落涙した。


 頬を伝い、唇をかすめ、顎門(あぎと)からこぼれ落ちる。


 それはやがて云いようのない悲しみの流れとなり、自然と声が漏れ始めた。

 目がふやけ、鼻がつまり、声が()れた。


 それでも朔夜は泣き続け、それはやがて慟哭となってホールに広がった。



 シンは何も云わず、ただ黙って泣き続ける朔夜の背を撫ぜ続けた。


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