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Moon Child  作者: かゆき
第十章 月の子
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9

 誰かに呼ばれたような気がして朔夜は目を開けた。


 そこで朔夜は自分が失神していたことに気がついた。

 おもむろに起き上がり、あたりを見回すと、エレベーターの口が開いていた。


 朔夜はぼんやりとしながらエレベーターを出た。


 いつの間にか空気があるエリアに出たらしく外気の組成が地球のものと変わらないものとなっていた。外気温もさほど低くない。


 度重なるイメージの奔流で朔夜の意識はどこか遠くにあった。


 朔夜はヘルメットを脱いで大きく深呼吸し、それから慣性に身をまかせながら跳んだ。


 中空に少しだけ浮いて地面に降りる。

 少しだけ重いその感覚が何だかとても懐かしい。



―――ね、朔夜



 脳裏に消えてしまった少女の最後の顔が思い浮かぶ。


 悲しみであふれた優しい笑顔。


 手を伸ばそうとした自分に、もういいからとでもいうようにかぶりを振り、風にさらわれるようにして消えた。



「ゆえ……」



 まだびりびりと痛むこめかみを押さえ、朔夜はゆっくりと前を向いた。


 背中の方でトンという軽い衝撃が走り、朔夜の体はまたも前に進みかけたが、重力に引っ張られて床に足が吸いついた。


 ぼんやりとその場に佇む朔夜の脳裏に、感極まったように顔を歪めるゆえの姿がかすめた。



―――朔夜



 ただ花を見せると云っただけで、今にも泣き出しそうな顔をした少女。


 中空に流れる長い髪は、海中(わたなか)にたゆたう海草(うみくさ)のように揺れ、葉脈のごとき細かな筋が入ったワンピースの裾がさらりとひるがえる。


 朔夜は彼女が虚空に舞う姿がとても好きだった。


 ゆえが跳ぶと彼女の体を包み込む羽衣のような(もや)から光がこぼれ落ちるのだ。

 真っ青な夢の空気に真珠沢の細かい粒が散り、きらきら光りながら消えていく。



―――少しの間、こうしていて



 そう云った彼女の顔は不安であふれていた。


 サファイアブルーの大きな目をしばたたかせ、拒絶されるのを恐れて震える。


 ゆえはいつも何かに怯えているようだった。


 要求に首肯すると、それがこの上ない幸せであるかのように破顔し、巻きつけた手に力を入れた。


 その(かいな)はどきりとするほど体温を感じなくて、出会ったばかりのころなど怖くて突き放してしまったこともある。


 そのときのゆえの表情は今でも忘れない。


 この世の終わりとでもいうように、顔を強張らせ、何も悪いことなどしていないのにごめんなさいと謝るのだ。



 朔夜はゆえと四年も一緒にいたが、彼女が怒った姿など一度しか見たことがない。


 それはヤーンスに帰省したときのこと。

 夢の中でシンの見ているものを共有してしまい、帰ろうとしたときのことだ。



―――行かないでよ!



 縋りつき、取り乱す彼女を、朔夜は邪険に振り払った。


 その結果、夢を見ることはなくなり、代わって現実世界に現れてシンを拉致した。


 夢の世界の住人がどうして現実に干渉出来たのかは分からない。


 けれどもその後、ゆえは夢の世界から完全に消えてしまった。



―――見つけて……



 真っ青な大気に光が散る。


 朔夜は脳裏に響いた声にびくりと肩を震わせた。

 目を見開いて自らの足先を見つめ、ゆっくりと顔をあげる。



 そうだ、何をしているんだ。行かなきゃいけないのに。



 朔夜は瞠目したまま首を回すと大きく息をした。

 そして真っ直ぐ伸びた明るい廊下に視線を走らせると、何かに憑かれたように走り出した。


 ふわりと体が宙に浮き、壁や天井が差し迫る。


 朔夜はそれを絶妙なタイミングでかわしながら意識がおもむくままに駆けた。



―――花はいつになったら見せてくれるの?



 ブランコを支える銀環(ぎんかん)の上で小さな足がふらふら揺れている。


 夢の中の小さな公園。

 遊び疲れたときはいつもそこで、二人で喋っていた。

 花を見せるなんて約束をしたこと自体を覚えていなかった朔夜に、ゆえは精一杯のしかめ面をして見せた。



―――朔夜ってすぐ忘れるよね。花を見せてくれるって朔夜が云ったんだよ



 懐かしい思い出。もう戻れないあのころ。


 朔夜は壁に手をつくと、反動で(はす)向かいの壁に移り、思い切りそこを蹴った。



―――本当に? また忘れるかも



 くすくすと微笑(わら)うゆえの姿が酷く悲しい。


 朔夜は泣きそうになりながら、いつまでも続く迷路のような廊下を進んだ。

 かつてもこんなふうに見当もつかないまま、走ったことがあった。あのときはシンを探し、今度はゆえを追っている。


 もうすぐで手が届くところだった。眼前で煙にまかれるようにして消えてしまった少女。



 今度はきっと間に合わせてみせる。



 朔夜はスピードをゆるめることなく、突っ走った。

 廊下を抜け、目の前にあった上層階用エレベーターに乗って上へと急ぐ。

 どこへ向かっているのとか、どうして自分の勘を信じているのかということは、ナーサリーの寮塔でシンを救助しに向かったときと同じく、念頭になかった。



 もう突き放したりしない、文句だって云わないから。



 脳裏を長い髪が横切った。

 真っ青な大気に淡く光る粒が舞い、溶けていく。


 ぼんやりと白く光る体が腕の中に飛び込み、真っ青な双眸がこの上なく嬉しそうに細まる。



―――大好き



 廊下の最奥に朔夜を待ち構えるがごとく、鎮座する扉があった。


 朔夜は大きく息を吸うと、思い切り床を蹴り、なかば突っ込むようにして扉に向かった。


 人の存在を感知し、勢いよくドアが開く。



「ゆえ!!」



 朔夜はあの日の空を思い出していた。


 灰色の雲が次々と流れていく紺碧の空。

 嵐の前触れのような激しい大風がびゅうびゅうと吹き、木立をざわめかせる。(あおぐろ)い闇と浮かび上がる白い霧。


 けれども目の前の光景は全く別物だった。



「……?」



 朔夜は目の前に広がる光景がすぐには理解出来なかった。


 目をしばたたかせて、眼前に置かれた風景を見る。


 そこは外だった。


 それまでと同じような無味乾燥とした空間の延長線上になるような部屋を想像していた朔夜は、サテライトの第九エリアやシンの部屋を見たときと同じような驚きを覚えた。


 普通に天井があると思っていた場所には、吸い込まれそうなくらいに濃い紺碧の空が広がっていて、地面は発光しているようにぼんやりと白く光っていた。



「……あ……」



 朔夜は小さく溜息をこぼして、視界のほとんどを占める夜空を仰いだ。


 漆黒に近い紺色の空は、星の輝きでベルベットのように見えた。


 朔夜が入ってきたドアのすぐ上あたりには巨大な青い天体があって、高みからこちらを俯瞰(ふかん)している。


 睨みつけられているような、そんな居心地の悪ささえ感じさせる巨大な地球。

 ここに入る前に見たそれよりも更に大きく見える青い惑星の周りには、決してまたたくことのない無数の星がある。


 視界のほとんどを埋め尽くす空はとても暗いのに、はっきりとドーム内の様子がわかる。

 光源となるものは何もないはずなのに、明るささえ感じるのだ。



 この光るもののせいだろうか。



 眉根を寄せて足元をしげしげと見下ろした朔夜は、発光するそれが、様々な(いろどり)の花々だということに気がついた。



「……花……?」



 何故こんなところに。



 この場にあまりにも不相応なものの存在に朔夜は眉をひそめた。


 本物なのだろうかと疑念を抱きつつ、屈み込む。


 花は錯覚ではなく、微かに白く発光していた。空が暗いのにぼんやりとでも明るく見えるのはこれのせいなのだろうか。


 朔夜は花に触れようと手を伸ばしかけ、中途でその動作を止めた。



 今、何か。



 視界の端にかすめたその何かに、朔夜は伸ばしかけていた手を戻し、ゆっくりと立ち上がった。


 首を巡らせると、確かに花園の中央付近に何かがある。



 何だろうかと顔を曇らせ歩き始めた朔夜は、数歩進んだ辺りで突然はじかれたように駆け出した。



 白やピンク、黄色といった小さな花々が足の下で大きく揺れる。



 朔夜は花園の花が散ることも気にせず突き進み、軽く息を乱して立ち止まった。


 それまで気付かなかった疲労が一気に込み上げ、ずしりとした重みが肩にのしかかる。



「……は……っ」



 朔夜は口元に手を当て、じょじょに速くなっていく鼓動を抑えるように心臓部をつかんだ。


 一歩一歩踏みしめるように進み、草花の陰から覗く白い何かに近寄る。



「……っ」



 そこにあるものを見て、朔夜は言葉を失った。

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