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Moon Child  作者: かゆき
第十章 月の子
85/89

7

 ふと気がつくと、朔夜はドームの中ではなく外にいた。

 夢の中で何度も見たあの大通りよりも少しだけ細い道の上にいつの間にか佇んでいる。



 暮れ方なのか、天も大気も全てが真っ青に染まっている。

 空が青いからそう見えるだけだということはすぐに分かったものの、それにしても鮮やかな色合いだった。


 海に潜っているようなそんな深い藍色の空気。



 両端には民家と思しき家々が軒を連ねていたが、そのどれもが暗く、人が住んでいる気配は全くなかった。住宅地でありながらひとけがまるで感じられない。


 その違和感が、街をしつらえられた舞台のように感じさせた。



 ふらふらと歩き続け向かった先はかつて母親とともに住んでいた家だった。


 ルナレアの母、エラの姿が脳裏をよぎり、そこで朔夜はまだルナレアの意識と同化したままになっていることに気がついた。


 人がいなくなってもまだエネルギーの供給はされているらしく、扉の前に立つと、家は静かに口を開けて中に迎えてくれた。


 じわりじわりと明かりが点り、生活していたころと何ら変わりのない姿が明らかになる。

 けれどもそこには昔のように迎えてくれる人の姿はない。



―――おかえり、ルナ



 リビングの向こうから母親の声がする。幻聴と幻覚を同時に感じ、朔夜は泣きたいような気分になった。

 

 他人の記憶だというのが分かっていても、ルナのイメージは抗うのが困難なほど明確で強い力を持っていた。



―――また転んだ。自分の家の階段なのにそんなに転んでどうすんの? あんたって本当にドジね



 脳裏にひとりの少女が現れる。


 朔夜がいる場所から少しだけ高い階段の中途でこちらを見下ろすその少女は、明るく笑って駆け上がっていく。



 アイラ……



 脱力しそうになるのを堪えて、朔夜は目の前にある現実の中央塔の階段を上った。


 そこでもまた何かを想起しそうになり、朔夜は逃げるように更に階段を駆けあがった。


 階段をのぼりきった先には大広間があって、その奥にはさらなる階段とエレベーターがあった。

 コンソールパネルとおぼしき場所が光っている。


 使えるのだろうかと触ると、音を立てて破損した筒が降りてきた。


 壊れかけた建物で動くエレベーターが、あの廃ビルでの出来事を否応なく思い出させる。



 朔夜は嘔吐しそうになるのをこらえながらエレベーターに乗った。


 不安と吐き気に襲われながら、朔夜は最上階を指定した。


 意外にもなめらかな動きで出発したエレベーターに朔夜はほっと息をついて、しゃがみこんだ。


 そして顔をあげた瞬間、凍りついた。



 目の前にあったのは一部が破損したエレベーターではなく、部屋だったのだ。


 しかもその部屋は見たことがあった。

 懐かしい気さえするルナレアの部屋だった。



 エレベーターで上がっていたはずの朔夜はいつの間にかルナレアとなり、自室のベッドにふらふらと近寄っていった。


 戸惑うほどに小さなベッドは冷たく乾いていた。


 目の前にはやはり小さな姿見があり、その大きさにおさまるほどの身丈しかなかったかつてから、もうかなりの時間が過ぎてしまったことを否応なしに思い知らされる。



―――ルナ



 その声に誘われるようにして枕元の引き出しを開け、ルナレア・アルトとなった朔夜はその中にしまっておいたケースを取り出した。


 中には(ほそ)い鎖がついた大ぶりの装身具があった。所々に青を基調とした色とりどりの石があしらわれたそれは誕生日プレゼントとして、幼馴染みから贈られたものだ。



 アイラちゃん。



 胸が締めつけられたように痛くなった。

 思い出が次々と脳裏に去来し、それによって心臓がきりきりと締めあげられる。嘔吐しそうなほどの圧迫感。



 こんなところはもう嫌。

 わたしはアイラやママのいた世界で生きたい。

 こんな苦しみばかりの世界じゃない、一番楽しかったあのころに戻って、ずっとそこで暮らしたい。



 朔夜の脳裏に放射状に並べられたカプセルベッドが浮かんだ。


 アイラがまだ生きていた頃、よく日の入りを見に行った塔最上部の空間。

 その中心部に置かれたコクーンは、遠い昔脳の機能を調べるために使用されていた機械だ。



 もう現実には戻りたくない。



 どこかぼんやりしたような思考が脳内をさまよったのち、つかんだ髪飾りをぼさぼさの髪に留めた。


 かちりという音がいやに大きく響く。

 

 (もや)がかかったように上手く考えられない頭でそれを見つめていると、おもむろにコクーンに手が伸びた。



 駄目だ。



 そうは思っていても、これは過去の記憶だ。どうすることも出来ない。



―――『ユエ』



 言下に朔夜はルナレアではなくなっていた。


 ちょうど彼女を俯瞰するような形で映像が見える。


 ルナレアはあの日に着ていた花びらのような白いドレスを着ていた。すっかり短くなってしまったドレスの丈が否応なく時の流れを感じさせる。



 ルナレアはコクーンの透明なカバーの上をゆっくりと撫ぜると、装置に手をかけた。



―――『ユエ』、十歳のときに記録したわたしの夢を再生して。終わったらわたしの記憶をリセットしてもう一度再生して。それでわたしが死ぬまで再生し続けて。それがわたしの……、月世界人(ムーンレイス)の最後のひとりになったルナレア・アルトの望みよ



 瞬間、目の前がスパークした。


 大量の細かい光の粒が視界を侵し、静電気のようにはじける。


 パチパチとしたそれらは一瞬のちに消え失せ、その向こうにあった光景が明らかになっていった。



 目尻に溜まった涙を拭うと、思いのほか手が濡れた。


 いまだぼやけがとれない視界を無言のまま見つめ、濡れた手をシーツに擦りつける。


 その感触がいつもとすこし違う気がした。


 まばたきをして、それからじっと天井を見つめる。

 ゆるい穹窿(きゅうりゅう)を描く白い天井はこれまでに見たことのないものだった。



 ここはどこだろう。



 もう一度まばたきをして、目を閉じる。

 それから数秒のちにゆっくりと開眼したが、視界に映る光景は先程と変わることはなかった。


 急に不安になり、身を起こす。

 

 すぐに起きあがれるものとばかり思っていたのに、体は意外と疲労が募っていて、上半身を起こしただけなのに眩暈がした。



「う……」



 思わず漏れた自身の声は想像していたものとあまりに異なっていた。

 こんな声をしていただろうかと、戸惑いを感じながら思い出したようにあたりを見回す。


 不安が頂点に達した瞬間、部屋の一角にあった扉が開いた。



「ルナ!」



 女性は入ってくるなり、いきなり怒鳴った。キンとしたその音にビクリと体が揺れる。



「何やってるのよ、早く支度しなさい。遅れるわよ!」



「……あ…」



 頭の中がピンと張ったような気がした。



「ルナレア!」



 はっとして顔を向けると、女性は腰に手を当て、ほうっと嘆息した。



「もうすぐ十歳になるっていうのにまだひとりで起きられないの? 早く支度しなさい」



 疲れたような口調で告げ、女性は出て行った。


 一気にしんとなった部屋は温度さえも下がったようで、元々ほんのすこしだけ感じていた寒さがそこで際立ったような気がした。


 身を守るようにそっと体を抱き締め、それから溜息でもつくようにそっと呟く。



「ルナレア」



 口にしてようやくしっくりと馴染んだ。

 それまで自分のものとは思えないほど現実感に欠けていた体に力が戻る。



「――ルナ……っ」



 再びくりかえされようとする映像から逃れようと、朔夜は必死に叫んだ。



 しかし抵抗むなしく、ルナレアの意識の中に引きずり込まれる。


 

「二人とも十歳の誕生日、おめでとう!」



 目の前には大勢の女性たちが並んでいる。にこやかな顔の彼女たちを見て、ようやく今日が何の日か思い当たった。


 思わず口を手で覆うと、アイラが振り返った。



「サイテー」



 睨むように見られて、萎縮した。


 ごめんなさいと小さく呟くと、アイラは腰に手を当てて大きく息をつき、目の前にこぶしを突き出した。



「ほら」



「え?」



 開かれた手の間からさらりと何かが落ちてきた。

 とっさに両手を出し、ぎりぎりキャッチする。掌にずしりとした重みがきた。

 


「誕生日プレゼントよ。本当は誕生日忘れてる人にあげるのなんて癪なんだけど」



 掌の中にあったのは、何百本もの抜けた髪だった。


 長くて白い、癖のついた髪には黄色い汁のようなものが絡みついている。

 吐き気をもよおすほどの臭いを放つ汁は、指の間を伝ってゆっくりと零れた。

 

 悲鳴すらあがらず、目を剥いて立ち尽くす。



「……アイラ、……ちゃん……?」



 震えながら顔をあげた瞬間、呼吸がとまりそうになった。


 先程まで明るく笑っていた幼馴染みの姿はそこにはない。


 ドレスを着た骸骨がいた。



 眼窩から黄色い汁が流れ出し、一瞬前まであったアイラ自慢の美しい髪は白くばさついたものに変わった。


 骸骨の長い髪は見ている間に次々と抜けて、顔や首筋に絡みついてきた。



「―――っ!」



 衝撃でルナレアと朔夜の意識が一瞬乖離する。



 やめてくれ、もう充分だ



 一番幸福だった誕生日を境に幾度となく巻き戻る時間。


 しかもじょじょにいびつになっていくそのイメージを何十、何百と見せられ、朔夜は発狂しそうになっていた。



 すぐにまた始まりそうになるルナレアの記憶を抗おうと、朔夜は必死にかぶりを振った。

 全身を強く動かし、どうにかして共鳴から逃れようとする。


 

 ルナレアの記憶の海でおぼれているような感覚だった。


 途切れそうになる意識の隅から彼女の記憶が滑り込んできて、朔夜の全てを覆い隠す。



 助けてくれ、ゆえ!



 朔夜はもがきながら懸命に祈った。



 こんな状況じゃ、目的が果たせない。見つけて欲しいんじゃないのか。



 念じている間にもルナレアの記憶が浸食してくる。



 ゆえっ



 ルナレアの記憶と重なるようにして、脳裏に白いドレスを着た少女が浮かぶ。



 その姿に安堵した途端、急速に暗闇が浸潤してきた。



 

 朔夜はいつの間にか気を失っていた。

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