12
意識が戻るのと、目を開けるのはほとんど同時だった。あまりにも差がなかったため、朔夜は目を開いたまま、気を失っていたのかと思ったくらいだった。
ぼんやりと天井を見つめ、それからゆっくりと首を横に動かす。隣の寝台には猫のように丸くなって眠るシンとキラの姿があった。
長い睫毛が揺れ、固く閉じた瞼が時折震える。薄く開いた花唇から静かな息が漏れるのを聞いて、朔夜は涙が出そうになった。
唇を噛み締め、顔を歪め、きつく瞼を閉じる。
もう、あそこには戻れない。
優しく微笑む母親と、鏡を見ているようにそっくりな弟の顔を順次思い出し、朔夜は目頭が熱くなるのを感じた。
ここを現実、向こうを夢と決めてしまったんだから、もう戻れない。きっとあの夢ももう見られない。
朔夜は目元を指先で拭い、寝返りを打つと、枕元に設置してある端末の電源を入れた。
「……精神科医、アリ・キサラギに関する記述を」
言下に端末が音声を認識し、了解という文字がスクリーンに点灯した。
父の来歴が簡単に記された文が現れる。そしてその一番下には妻マリアムとともに星都アスガードにて事故死、との記述があった。
「事故…、死……」
端的なその言葉が、酷く重い。部屋全体が高重力空間になったみたいな異様な重さが全身に圧しかかり、体を寝台に貼りつける。
朔夜は息をするのもままならず、咽喉を押さえて倒れ込んだ。
―――大丈夫なの?
玄関で振り向く母の顔は心配そうに曇っている。
―――ちゃんと、薬を飲むんだぞ
母の背に手を乗せ、目で行こうと促す父のその言葉が両親に関する最後の記憶だ。
「父さん……母さん……っ」
玄関で見た二人の姿はもう目にすることは出来ない。あの声も、あの温もりも、全て。
「さく…や……?」
出来る限り声を出さぬよう努めていたのだが、キラが起きた振動で目が覚めてしまったのだろう。
眠そうに目を擦りながら起き上がるシンがいた。
「シン……」
目元に溜まった涙を気付かれぬように拭い、朔夜は顔を上げた。
不思議なことに先程まで感じていた、体を押しつぶさんばかりの重圧は消えていた。
朔夜は肩を撫で、咽喉に指を当て、それからシンを見つめた。
「……どう…したんだ…?」
ヤーンスで目撃した寝起きの悪さは健在なようだ。
半分舟を漕ぎながら、それでもどうにか現実に居座ろうとして無理やり声をあげている。不自然に揺れる首が、とれる寸前の人形の頭のようで何だか少し怖い。
キラはシンがすぐに目を覚ますことがないのを知っているようで、すでに体を丸めて目を閉じていた。
こんな状態の奴に話していいものか、と思いつつ、朔夜は溜息を吐きながら告げた。
「今日、ちょっと出かけてくる」
◇
シンはやはり脳が覚醒していなかったらしく、朝のことを何も覚えていなかった。
朝食後、行ってくると告げた朔夜に、何だそれ、とテーブルを叩きながら立ち上がり、ティアラから射抜くようにきつい視線を浴びせられていた。
その後も聞いていないぞ、と連呼しながらまとわりついてくるシンをどうにか引きはがし、朔夜は社外への脱出を成功させた。
アースグループ本社ビル前で、朔夜は地図を開いた。
拡大ホログラフィースクリーンに映し出された立体図はごちゃごちゃしていて見てもよく分からない。
何しろあたりにはこれまでに見たどの大木よりも巨大で太いビルが林立しているのだ。
そして頭上には海面付近を行く魚の群れを見ているような、そんな気にさせる浮遊車の黒い筋が、いくつも重なって流れている。
本当に魚影だと思いながら、朔夜は通りかかった警備マシンに道を聞き、詳しいマップと説明を貰った。
そして首都を徘徊すること一時間、朔夜はタクシーに乗ってようやく目的の場所に辿り着いた。
「見つけた……」
減速すると同時に、無人タクシーの端末画面に事故ポイントと簡単な文面でつづられた情報が映し出される。
それを自分の端末に転送し、朔夜は外部映像を映した車内を見回した。
交通事故の現場には十年という限られた期間、ブイのような形をした機械が浮いている。それが発生させる特殊な電波は、通りかかる車全てに有効であり、タクシーでなくても減速を強いられる。
端末のデータには事故原因について、タクシーが緊急停止したために後続の車の安全装置の作動が間に合わず激突したと書かれていた。
滅多に起こらない事故のため、現在も捜査中だとも表示されている。
やはり死んだんだなと、どこか遠いところで思いながら、朔夜は無言で端末のスクリーンを消した。
そのまま何故か動けなくなってしまい、タクシーの車内で、ぼんやりと虚空を見つめていた。
ここでいいと云ってしまったため、人工知能が先程から料金を払うよう催促している。
それしか言葉を知らない九官鳥のように騒ぎ立てるその音は酷く不快だったが、どうしてだか足に力が入らず、動くことが出来なかった。
どうしたんだろうと思いながら、どうにかして腕を動かし、クレジットスティックを取り出す。
そしてそれを差し込むと、それまで払えと連呼していた音声が止まり、ありがとうございました、またのご利用を、という音に変わった。
催促していたときと違い、声まで明るくなっている。猫なで声のそれが、大層気持ち悪くて、朔夜ははなはだしく気分を害した。
さっさと出ようと腰を動かしたのだが、どうしてだか上手く動かすことが出来ずにシートの上で転んでしまった。
何でこんなところで転ぶんだよ。
恥ずかしすぎると思いながら身を起こし、立ち上がると、目の前にはシンがいた。
「大丈夫か?」
逆光のせいでよく見えないが、姿かたち、そして何よりも声がシンだ。
何故こんなところにいるのかということよりも、見られたということがあまりにも恥ずかしくて、うつむき加減に外に出る。
後方でドアが閉まった。
タクシーはルーフとドアが一体になった、いわゆるカプセル型をしているので、閉まるのも速い。
あっという間に行ってしまったタクシーを見送り、朔夜はシンに視線を移した。
「――で、何であんたはここにいるわけ?」
「朔夜のいる場所なら、何となくわかる」
「何それ、もしかして追跡装置でもつけてたわけ?」
「馬鹿か。そんなことしてどうする。お前のいる場所は何となくわかるんだ。お前がおれのいた場所を判別出来たようにな」
「……ストーカーみたいだね、あんた……」
「ストーカー? 相も変わらず失礼千万なやつだな。本当は見知らぬ街で迷っていたのを助けてもらえてありがたく思っているんだろう? 別に謝礼なんて要求しないから、嬉しく思っているんだったら、はっきりとそう云ったらどうだ?」
そんなことは一言も云っていないと思ったが、これ以上話をしていても不毛なだけなので、止めておいた。
シンは様々な色の刺繍が施された白のマントを着ていた。
鮮やかなミントグリーンの裏地が顔を覗かせている。マントは艶のある生地のせいか、ドームから注ぐ光に照らされてきらきら光っていた。
フードを被っていることから、これでも変装をしているつもりなのだろう。
出てきて大丈夫なのか、とあたりを見回してから、再びシンに視線を注いだ朔夜はそこで、その髪の色が普段と違うことに気がついた。
「その髪……」
朔夜の指摘に、シンはこれか、と云いながら毛先を摘んで見せた。
琥珀色だった短髪はすっかり漆黒に染まっている。
「コーティング染色だ。すぐにとれる。どうだ? 似合うだろ」
「そういうことは普通自分では云わないんだよ」
フードを取ろうとしたシンの手を慌てて止め、朔夜は大きく息を吐いた。
「? 何だ? 心配してるのか? 大丈夫だぞ。ちゃんとガードマシンもついてきている。案ずるな」
朔夜は口を開けたが、呆れすぎて声は出ず、小言の代わりに溜息が出た。
「どうしたんだ?」
「何でもない……」
無邪気に問いかけてくるシンに、朔夜はもう一度溜息を吐くと、おもむろに歩き出した。
「来ちゃ……、まずかったか?」
少し後ろからためらいがちに声をかけられ、朔夜は速度をゆるめずにちらりと隣を見た。シンは朔夜が何も云わないので怒っているのかと思っているようだった。
いつもは人が怒っていようがいまいがおかまいなしに偉そうな態度を取るくせに、一応反省しているらしい。
やけに神妙な顔つきでこちらを見上げてくるシンに、朔夜はわざと重々しく息をついてみせた。
「ちょっとな」
「……何だよそれ」
シンは自分で云ったにもかかわらず、怒りをあらわにした。けれども状況がまずいと思ったのか、慌てて普段の表情に戻す。
隣接する道路に車が物凄い勢いで走り抜けていく。二人は何も口にしないまま、歩道を歩いた。
「朔夜……」
ぼそっとした声で呼ばれて朔夜は眉根を寄せた。
「その、何だ……」
うつむいているせいでシンの表情は見えない。
深々と被った白いフードの下から覗く黒い髪を見下ろしながら、朔夜は手持ち無沙汰になったように髪を掻いた。
「悪い……」
「何が」
「だって、現場を見に行くなんて知らなかったんだ。街を見物に行ったのかと思って、だったら案内しようかと……」
「外に出たことないのに?」
「少しはある」
「方向音痴なのに?」
「云うなっ」
シンは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「それほど心配したんだ」
歯軋りせんばかりの勢いで云うシンに、朔夜はこそばゆいような気分になった。
くすぐったさから逃れるように髪を掻き、またしても黙る。
朔夜はこういうとき何と云っていいか分からなかった。
嫌なわけではないことは分かるのだが、嬉しいというのにも少し違うような気がする。
恥ずかしいというのが一番それに近かったが、ここで慌てた様子を見せれば照れていると思われるに違いない。
「……なあ」
無言のまま歩いているのが心苦しくて、朔夜は声をかけた。
「このあたりに旨いラーメンの店ってあるの?」
シンは突然の言葉に目をしばたたかせた。
よく分かっていないようなその様子に、朔夜は苛立ったようにマントの端をつかむ。
「せっかく外に出たんだし、その……一緒に行ってやってもいいかな……とか……」
言下にシンはまたしてもまばたきし、それからようやく理解出来たようにぱあっと顔を綻ばせた。
頭の隅か、とても奥深いところでビーズのような色とりどりの光がはじけ、きらきら光りながら霧散していった。
花火のように割れて、細かくなっていく光の粒。
その音と色は聞いたことがないくらいうっとりするような感覚をしていて、朔夜は軽く胸が締めつけられるような思いをした。
「あのな、あそこがいい!」
放心したような朔夜の腕を取って、シンは歩き始める。
「あそこじゃ分からない」
頭の中でまた光が散った。
「だから今から案内するんだろ」
「方向音痴なのに? 辿り着くの、それ」
「うるさい!」
噛みつかんばかりの勢いで叫ぶシンを見ているうちに朔夜は、何だか悩んでいたことが馬鹿みたいに思えてきて大きく嘆息した。
頭の隅でまた光がはじけ、きらきら光りながら溶けていく。
その感覚はとても温かくて気持ちが良かった。




