7
目を開けると、そこはシンに案内された客室のベッドだった。
見覚えのない景色に一瞬どこか分からなくなったのだが、寝台の脇で丸くなる巨大な白い狼を見て合点がいった。
起き上がる気にならないまま、シーツに包まり、部屋の中を眺める。
そこは目が覚める前にいた部屋と同じだった。
普通ならばそれが当然と思い、こんなふうにまじまじと見ることもそれについて考えることもなかったのだが、あんな言葉を聞いてしまったために、最早かつてのように振舞うことは出来ない。
―――ずっと眠っていたのよ
病室なのだというその場所で、死んだはずの母は慈しむような笑顔を見せた。
―――望もサヴァもみんな心配していたのよ
訊けば、あの樹海で事故に遭ったのは望ではなく、自分だったのだという。それから何年も眠ったままになっていて、ようやく目覚めたというわけだった。
望が生きていて、サーヴァインがいる世界。あまりにも都合が良すぎて夢としか思えないのだが、やはり心のどこかで信じ切れなかったらしい。
虚ろな目で朔夜はぼんやりと客室を見回した。
視界の端にキラの、白と生成りが混ざった毛並みが見える。
吐息をつくように獣の名を呼ぶと、キラは億劫そうにこうべをあげた。
乗り気がしないのがひしひしと伝わってくるその様子に忍び笑いを漏らしていると、あら、という声が聞こえた。
「お目覚めですか? キサラギさま」
顔をあげると、そこにはジェセルに似た笑みを浮かべる女性が立っていた。
ティアラ・クライン。
ジェセルの実母だという彼女のその腕には何着かの服が下がっている。
シンが着ていた服なのだろう。そのうちのいくつかは見た覚えがあった。
朔夜は焦ったように寝台から抜け出すと、自分の服を見下ろしてさらに動揺した。
着ていた服はそのまま寝入ったために見事に皺だらけになっていたのだ。
よれた服を隠すように忙しなく手アイロンをかけ、その場を取り繕おうとする朔夜に、ティアラはにっこりと微笑むと近寄って手を止めた。
「お着替え、ご用意させていただきますわ」
ふんわりとしたやわらかな表情は記憶の中の母を思い起こさせる。春の陽射しのような優しい微笑み。温かな掌は触れた皮膚にとろけてしまうようだった。
目覚めた自分の額に手を当て、もう少し休んでいなさいと目を細める母。
あれが、もし現実だとしたら。そうしたら。
「キサラギさま?」
口をつぐんだ朔夜にティアラは少し顔を曇らせた。
朔夜ははっとして、それから慌ててかぶりを振る。
「い…いえっ……。何でも、ないです……」
そんな朔夜の様子に、ティアラはいとけない子供を見るように目を細めた。
慈愛が深く窺える空色の双眸はやはり母の面影を感じさせる。
面差しも雰囲気もまるで違うのに、どうしてこんなに思い出すのだろう。
朔夜は胸が熱くなるのを感じながら、それを隠すように口を開いた。
「――あの、シンは……」
話さないとどうかなってしまいそうだった。
向こうには両親や弟、それにサーヴァインだっている。
苦痛しかないこちらが現実だなんて信じたくないし、出来れば夢であって欲しい。
「姫さまはお父さまとお話に。そろそろ帰ってくるころだと」
ひきずられる。
朔夜はティアラの云っていることなど、ろくに聞いていなかった。
乖離する世界に脳が破裂しそうだったのだ。
痛みこそないものの、外皮と脳が離れていくような感覚に捕らわれる。
必死でそれを押し留めようと、こめかみに触れる指に力を入れていると、その動作に不審を抱いたらしいティアラが声をあげた。
「キサラギさま」
その言葉で朔夜は我に返った。
「どうかなさいました? 疲れているのならおやすみになられた方がよろしいかと」
―――少し、眠っていなさい
脳裏に母の声が響く。懐かしいその声音に泣きそうになるのをこらえ、朔夜はかぶりを振った。
「あ、いいえ。別に大丈夫です。それに、あの……、朔夜で、いいです……から……」
口ごもりながら伝えると、ティアラは、あら、という顔をして、それからにっこりと笑った。
「では、サクヤさま。サクヤさまのお時間、お少しいただけますか?」
「え? あ、はい」
突然の申し入れに朔夜は戸惑いをあらわにした。
「姫さまが帰ってらっしゃるまでわたくしとお茶にしませんか?」
「え…あ……」
「ここは少し殺風景ですもの。お庭が一望出来る部屋がございます。そちらに案内しますわ」
「えと……」
「遠慮なさらないで」
ティアラはにこりと微笑むと、朔夜の背に手を乗せた。
ティアラに案内された場所は、庭を眺望出来る階上のサンルームだった。
客室と似たようなデザインに統一されていて、絨毯のような模様をした床のタイルや彫の細かい椅子の背、書棚風の家具など、博物館でしか見たことがない調度品の数々で埋めつくされている。
「どうぞ」
小さな音を立てて置かれたティーカップは艶やかな肌の不透明な容器で、小さく椿の彫り物が施されてあった。
台となっているガラステーブルはティーセットと一揃いになっているのか、足が幹を模した形になっていて、品よく調和がとれている。
「どうも……」
朔夜は緊張しながら、薄青く染まる紅茶に口をつけた。
ハーブティーだということはわかるが、名前までは知らない。
人前で砂糖を大量に入れるのもどうかと思い、そのまま飲んだのだが、やはり美味しくなかった。
心の中で苦いと思いつつ、カップを下ろすと、少女のように微笑むティアラと目が合った。
何歳なんだこの人。
いぶかしんでしまうほど若い子持ちの母親は、朔夜を見て目を細めると、数種の蜜が入った容器を朔夜の方に寄せた。
どうやら苦いと思っていたことがばれていたらしい。
「姫さまは甘いものがあまりお好きでないから、こんなに種類が用意してあってもちっとも減らないの。使っていただけると嬉しいわ」
にっこりと微笑い、蜜入れを差し出すその手を阻むことは出来なかった。
いたたまれないような気分になりながらこうべを垂れ、受け取った容器から琥珀色の蜜を選んで茶の中に入れる。
湯気とともにふわりと香る甘い匂いが渇きを助長させた。
ようやく飲めるまでの甘さに変化した紅茶をすすり、綺麗な器に盛られた菓子を口にする。
キラはその間、特に食べ物をねだるわけでもなく、朔夜の足元に寝そべっていた。
普通の犬とは形状も違うが、中身も異なるらしい。
何がしたいのかと見ていると、睨み返されたので気にしないことにした。
ティアラは朔夜の飲み物や皿の中の菓子に気を配っていて、時折説明してくる他は何も云わなかった。
なので朔夜もだんだん気詰まりに感じてきて、最後の方は機械的に菓子を手にとってはそれを頬張り、ぼんやりと庭を眺めているだけになってしまった。
「サクヤさま」
そんな朔夜の状態を気にしたのか、ティアラは控えめに口を挿んだ。
「夕餉の時間も迫っております。美味しくいただいてほしいですし、そろそろおやめになったほうがよろしいかと」
「あ、すみませんっ」
もういくつ目になるか分からない焼き菓子を口に入れていた朔夜は、その指摘で我に返った。胸元にこぼしたカスを慌てて排除し、謝罪の言葉を連呼する。
「いえ。構いませんよ。姫さまも遅いですし、サクヤさまも退屈なさっていたのでしょう?」
「は……はい」
ころころと微笑うティアラに、朔夜の気詰まりはますます酷くなった。
人の家で物を食べすぎて注意を受けるなんて、こんな恥ずかしいことが他にあるだろうか。あとでシンが聞いたら大笑いするだろう。
穴があったら入りたい。
ティアラの顔を窺ってみたものの、彼女は息子と同じく感情が表に出ない。何を考えているのかはまるでわからなかった。
サンルームから見える庭は色とりどりの花が各所に咲いていて、御伽噺に出てくるように美しかった。
この風景をそのままゆえに見せてあげられたらいいのに。
そんなことを考えながら、そろそろ一人にさせて欲しいと思っていると、ティアラは本当にいなくなった。
けれどもホッとしたのもつかの間。再び戻ってきた彼女は気味が悪いほどにこにこしていた。
「何……ですか?」
退き気味に訊くと、ティアラはうふふと意味深な微笑みを湛えたまま、端末柱を操作した。
「姫さまには秘密にしておいてくださいね」
言下に目の前のガラス壁がスクリーンに変貌する。
ドーム状のガラス壁は瞬時にして不透明になり、つい先程まで見えていた庭を視界から消し去った。
「これ……」
朔夜はスクリーンに映し出されたものを見て、目をしばたたかせた。
「お可愛らしいでしょう? 姫さまの十歳の誕生日ですわ」
「真ん中の――あいつですか?」
「ええ」
自慢げとも思える微笑をたたえながら、ティアラはうなずいた。
朔夜はすっかり冷めた紅茶を一気に飲み干し、もう一度スクリーンを見た。
ティアラがシンだと云ったその子供は高価そうな帽子を被り、同色の長衣を着て、スクリーンの中ではしゃいでいる。
精緻な刺繍が施された濃いターコイズブルーのドレス。ハチミツ色の髪が、さやぐ風に揺れて舞う。
「髪……」
思わず朔夜は口に出してしまった。
たなびくシンの髪は長い。
元々癖がある髪質なので、ストレートとは云い難かったが、それでも艶やかでとても綺麗な髪だった。
「ナーサリーへおいでになる前に髪をお切りになったんです」
「どうして――」
だが、それについてティアラが答える前に、彼女を呼び止める声が聞こえた。
「ティアラ……」
微かに震えるその声は、今まさにスクリーンに映っている人間のものだった。
ぎくりとして振り返ると、そこには思った通りシンがいた。
朔夜が声を上げるより速くティアラに歩み寄り、彼女が操っていた端末を消す。
スクリーンは突然切れ、一瞬のちに庭が現れた。
「あら、姫さま。お早いお帰りで」
ティアラはそこで初めてシンの存在に気付いたかのようなのほほんとした笑みを浮かべた。
「あら、じゃない。何勝手に見せてんだよっ」
柱に手をつきながら、シンは紅潮した頬をさらに染め怒鳴った。
どうやら過去を暴かれるのが恥ずかしかったらしい。それならアルバムを託した自分は何なんだと朔夜は立ち上がった。
「お前だっておれのアルバム見ただろ」
「それとこれとは関係ないっ」
噛みつくような勢いで叫ぶシンに、ティアラはまあ、と大袈裟に顔をそばめた。
「姫さま。サクヤさまの過去もご覧になったのなら、自分のものも見せるのが筋というものですわ」
にこにこと微笑みながら云うティアラに、シンは絶句したように口を閉じたのち、朔夜の方をちらりと見て、それから怒鳴った。
「うるさい!!」




