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Moon Child  作者: かゆき
第九章 神の都
72/89

6

 シンが最後に実父ヨーウィス・ライザーに会ったのは、もう一年近く前のことだ。その前は一体いつに会ったのか覚えてもいない。


 約一年前ヨーウィスに会ったときはナーサリーの入学についてのことだった。二次試験に合格したのはいいもののどうにも許可が下りず、直談判をしに行ったのだ。


 そのときに覚悟も出来ない者が行くところじゃない、軍隊は遊びで入るものじゃない、などと散々に云われて、生半可な意思で決めたのではないということを示すために髪を切った。

 それでどうこうなるとは思っていなかったが、やはり許可が下りなかったので、もう他に手立てがないと考え、家出をしたのだ。



 今回もあのときと似たような内容だな。



 シンは扉の前でこくんと唾を飲んだ。


 この向こうに約一年ぶりに会う父親がいるのかと思うと、それだけで緊張する。

 父親といっても実際に面と向かって会ったのは数えるほどしかなく、あまり親子らしい会話もしたことがない。

 普段でも会うだけで緊張するのに、家出をしたあととなれば尚更だ。


 シンは大きく深呼吸をして息を整えてから、ドアの中央に嵌まった宝石のような石に口を寄せた。



『シンです。父上。入ってもよろしいでしょうか?』



 認証紋および声紋確認。

 石がきらりと光ってそう答え、言下にドアが両脇と上下に分かれて建具に吸い込まれた。


 現れたのは、重厚な扉の割に意外とすっきりした部屋だった。

 決して広いとは云えないその部屋には、いかにも高価そうなソファと端末テーブル、そして使われているところを見たことがない立体投影装置くらいしか物が置かれていない。


 ヨーウィスはバルハラに帰ってきたときには仕事をする以外では大抵この部屋にいた。


 シンが髪を切り落とす騒ぎを起こしたのもこの部屋だ。



『お久しぶりです。父上』



 いつものようにソファでくつろぎながら端末を操作していた父に、シンは精一杯にこやかな表情で告げた。


 一族の言語であるスライン・ラングも知っている限りの優雅な文法と単語を選び取って、少しでも印象を悪くしないよう努める。

 けれどもそれに対するヨーウィスの反応は冷めたものだった。



『口上は結構。用件は何だ』



『……承諾書の件で参りました』



 とりかかりがこうでは先が思いやられる。

 早くも色よい返事が期待出来ないと踏んだシンは、投げやりな口調で告げた。



『聞いていませんか? 資料を成績表と重ねて送信したはずですが』



『もう済ませた』



「は……?」



 間抜けな声が出たと思い、シンは慌てて口元に手を当てた。

 そして大きく眉間に皺を寄せてもう一度訊いてみた。



『どういうことですか?』



 端末を奏でていた手を置き、ヨーウィスは不快そうに顔を曇らせた。



『アルカスからは何も聞いていないのか? 承諾書の認証は済ませた』



『じゃあ……』



『反対してもお前は出て行くんだろう』



 言葉を理解するよりも先に顔の筋肉が緩んでいく。

 弛緩剤を注入したように緊張感をなくした顔をこれ以上相手に向けることが出来なくて、シンはうつむいて口元に手をあてた。



『ありがとう……ございます、父上』



 ヨーウィスは端末の画面を消すと、シンに向き直った。



『少しは父親らしいことをしなくてはあれに申し訳ないからな』



『あれ……』



『シャナだ』



 その名を口にするとき、ヨーウィスは必ず顔を曇らせる。


 彼女がこの世を去ったのはもう十四年も前の話だというのに、まだその存在は彼の心の中に色濃く残っているようだった。



『シャナの夢は相変わらず見るのか?』



『見ます。けれど、母様というより火星のイメージが強くて……。今は火星の大地を歩いているだけなのですが』



『タスク・シハ・ザーレやローランのことは』



『ザーレのことは出てきません。ローランはまだ遠いと思います』



 そうか、とヨーウィスは疲れたように微笑み、静かにうなずいた。



『――それで、シン』



『はい』



 それまでとは異なる緊張を含んだ声音にシンは、これから本題がくるなと気を引き締めた。承諾書認証も、それを訊くための餌だったのかもしれない。



『ルームメイトに火星人(マーズレイス)だと話したというのは本当なのか』



 その話か。



 シンはその言葉よりも、父が自分の話を記憶していたということの方に驚きを感じた。



 ヨーウィスは普段、冷淡なまでに家のことに関知しない。


 ほとんど家におらず、また帰ってきてもバルハラの内部は細かく分かれていて、親族同士が顔をあわせることなど滅多にない。精神障害を負っている三番目の兄に会う際にも面会手続きが必要なほどだ。


 更にバルハラ内部においてシンの自由はないに等しかったので、向こうが会う意向を示さない限り、実の父親と話す機会はほぼ皆無だった。

 そんな関係だったから、シンは家出した自分の言葉を父親が覚えていたということが奇跡のように感じられた。



『はい。今日、ここに連れてきたのも彼です』



 脳裏にちらと朔夜の姿が浮かび、シンは内心で詫びを入れた。


 このことを話すべきかどうかは最後まで迷ったのだが、やはり何かあった場合、困るのは父であるヨーウィスなので、一応耳に入れておいた方がいいだろうと、もう随分前にDNA暗号で封印したメールを出したのだ。



『不安ですか、父上』



 ヨーウィスは何も答えなかった。


 シンは舌打ちをしたい気分になるのを押さえて、目の前に座る、外見だけはまだ若い男を見た。



『心配はご無用です。わたしは彼を信頼しておりますし、彼自身も父上が危惧なさっているような口の軽い人間ではありません。父上、そしてグループに不利益を及ぼすようなことにはならないでしょう』



 心の内に去来したかすかなむかつきによって完全な無表情にはならなかった。



『シン』



『はい』



 話はもうこれで終わりにして欲しい。



 シンは表情を瞬時に整えて対応しながら、まだ部屋で眠っているだろう朔夜のことを思い浮かべた。先程見た細い涙の筋が脳裏にちらつく。



『どうしてお前を連れ戻さなかったか分かるか?』



『分かりません。わたしのような若輩者には父上の広いお心は計りかねます』



 なかばふてくされたようなその言葉に、ヨーウィスは浅い溜息を吐いた。

 子供じみた反応だと思っているのだろう。

 シン自身もそれは分かっていたが、どうにも止められない。


 ヨーウィスはもう一度嘆息し、それから来いとばかりに手招きをした。



『そこに座りなさい』



 シンは眉根を寄せたものの素直に従った。顔も見ずにソファに腰掛け、静かに机上にせり上がってきた飲み物を横柄な態度で取る。



『――お前には不自由な思いをさせているとは思っている。だが、お前も分かっているだろう。お前を拉致されかけた上アルカスが生死の境をさまよったんだ。あんな事件があった以上、無闇にお前を外に出すわけにはいかない』



『お優しい父上のこと、あの長きに(わた)る軟禁生活に理由があったことくらい承知の上です。そんな当然のことをわざわざ蒸し返してお訊きになるなんて聡明な父上に似つかわしくない』



 ヨーウィスはシンの答えに心の底から疲れた表情をした。



『皮肉はよしなさい』



 額に手を当てて息を吐く父親に、シンは目を見開いてみせた。



『いやみなど! 父上もお人が悪い。普通に話をしているだけではありませんか。それともあまりにも親子間の対話が欠落していて、どう返せば良いか判断しかねますか?』



『シン』



『父上が何と云おうと、わたしは朔夜のことに関してだけは譲りません。父上は外の世界をお知りになられているから分からないと思いますが、彼はライザーと関係ないただひとりの友人です』



『シン』



 むきになったように話す息子にヨーウィスはたしなめるように口を挿んだ。



『人の話は最後まで聞きなさい。お前は少し先を急ぎすぎるきらいがある』



『――申し訳ありません』



 ならばさっさと結論を伝えればいい。



 シンは苛々しながら手元にあったソファの生地を摘んだ。


 ナーサリーにいたときはもっと心広く対応出来ていたはずなのに、ここに来て父親と面会すると、いつもこんなにぎすぎすした雰囲気になってしまう。

 これではアルカのときと同じだ。

 もっと感情を抑えて、いつもどおりに話せたらスムーズに事が運ぶのが分かっているはずなのに、どうしてもそれが実行に移せない。



『だがお前ももう分別がつく年頃だ。そろそろ腹を割って話したほうが良いのかもしれないな』



 ではこれまでの話し合いとは一体なんだったのだろうか。



 ヨーウィスの言葉にいちいち感情が波立つ。シンは手に持ったソファの生地を破りそうになるほど強くひねった。



『お前はどうしてナーサリーに通いたい』



 カランと音を立ててグラスの中の氷が落ちた。



『それは昨年お話した通りです』



『そうか、では火星に行って何がしたいのだ』



『何か……、それはまだ分かりません。でもわたしは火星人(マーズレイス)の血を引いています。人によってだとは思いますが、自分の出自を知りたいというのは一般的な希求ではないでしょうか』



 シンはソファをいじる手を止めて、グラスから覗くストローに手を伸ばした。


 溶けかかった氷を金属の棒を使って沈め、出来るだけ音を立てないようにしながら掻き回す。



『自分が間違いなく火星人(マーズレイス)の血を引いているのだと知って、それからお前はどうする。一族を根絶やしにした憎き地球人(テラリアン)に反旗を翻すか? それとも、素性を明かし、衛星連合の旗印として組するか?』



『そんなことは……っ』



火星人(マーズレイス)は記憶を次世代に伝達する能力があるのだろう』



 グラスの中の氷が、再びカランと音を立てて沈んだ。透明な氷に張りついた無数の泡沫のうちのいくつかが、いやにゆっくりとした動きで水面に上がっていく。



『今はまだ砂漠を歩いているだけかもしれない。けれどいつかは虐殺の瞬間を見ることになるかもしれない。そのとき、お前はどう対処出来る? 感情に動かされることなく、地球で暮らしていけるのか?』



『しかし……っ』



『少なくともシャナは夢を見たあと地球人(テラリアン)を憎悪するようになった。彼女はじょじょに記憶を浸食されていった。当時を知らない彼女が地球人(テラリアン)を憎んでいたようにいつかお前にもその憎しみが伝わるだろう。火星人(マーズレイス)の夢とはつまるところ、そういうことだ』



『……父上の云う通り地球人(テラリアン)を憎悪するようになったとして、それであの軟禁生活が何の意味を持つのですか?』



『外部への被害が最小限で済む』



『……憎悪がイコール虐殺につながるとは限りません』



『確かに。だがそうなる前にシャナは自害した。お前に同じ道を辿らせるわけにはいかない』



『――では逆に何故ナーサリーの入学を許可したのですか?』



『侵食がさほど進んでいないこと、そして我が社の科学力をもってしても、侵食を阻むことが現状難しいと判断したからだ。止めるすべがない以上部屋に閉じ込めるだけでは、外部への被害が少なく済むだけで何の打開策にもならない』



『それで環境を変化させようと?』



『そうだ』



 ヨーウィスの言葉にシンは詰まった。


 何と返せばいいかわからず、ただ唇を噛み締めてうつむく。咽喉(のど)の渇きを強く感じた。



『話を元に戻そう』



 淡いピンク色の液体を口に含みながら、シンはおもむろに面をあげた。

 視界の中央に鎮座するヨーウィスは、何を考えているか全く分からない表情でこちらを見ている。

 

 シンはいたたまれないような気分になってうつむいた。



『どうしてお前はルームメイトに自らの出生を明かした』



『……それは……不可抗力です。云いたくて云ったのではありません』



『そのことで彼が苦しむとは思わなかったのか? お前のやったことはとても卑怯だ。アースグループの名を背後にちらつかせて、交友しようなどと迫り、あまつさえ火星人(マーズレイス)だと告げたのだからな。彼にとっては非常に脅威だっただろう』



『そんなつもりは……』



『私はお前がグループの名を餌に彼を巻き込んだなどとは思っていない。だがお前がどう考えようと、それを受け取るのは相手次第だ。今の地球でライザーの影響力がどれほどあるか、それを身に染みて分かっているはずのお前がとっていい行動だと私は思わない』



 ぴしゃりと云われ、シンは唇を噛んだ。



火星人(マーズレイス)の話を知っている以上私も彼に釘を刺さなければならない。それは彼にとっては脅しと等しいことだ。この事態を全く想定出来なかったのだとしたら浅慮が過ぎるとしか云いようがない』



『しかし……』



『もう遅い。お前は彼に云ってはならないことを云ってしまった。お前は自分と同じ苦しみを彼に負わせたんだ。火星人(マーズレイス)の血を引いているという秘密、そして彼には我が一族のアキレス腱をつかんでしまったという負荷がつく。本名を口にし、行動することが相手にとってどれだけ重責となるのか、そのことを念頭においておきなさい』



『は……い……』



 シンは力なく返事をした。



――-どうして本名を名乗った



 尖った氷のように冷たい目。深い紺色の双眸が、なかば呆れたような色を湛えてこちらを見る。


 朔夜がヤーンスに連れていってくれたときのことが思い出される。

 あれはてっきり『ユエ』の存在があるからだと思っていた。けれどもしかしたら朔夜はただ怖かったのかもしれない。



 もし父の云うとおりならばどうすればいい。

 今、側にいてくれるのも、火星人(マーズレイス)なのだと知ってしまったからだったとしたら。



 心の奥が急速に冷えていくのが分かった。


 風の咆哮が聞こえてくるほどに深い谷底を見下ろしているような不確かで不安にまみれた感覚が足下から込みあげてくる。



『――説教が過ぎたようだな』



 思わず身震いしたシンに、ヨーウィスは重々しく息を吐き、卓に置いてあったグラスを手に取った。


 クリスタルの器の中で微発泡の透明な液体がぱちぱちと音を立てている。

 魂を抜かれたようにぼんやりとそれを見つめるシンに、ヨーウィスは今日一日の予定を訊いてきた。


 出し抜けの質問に、シンはすぐには答えられず、しばし口ごもった。



『――予定がないのなら、今夜、彼をつれてきなさい。久々に夕食をとろう』



 シンはその言葉がすぐには理解出来なかった。

 見知らぬ言語を初めて聞いたように、何も分からなかったのだ。


 ただヨーウィスの云う『彼』が、朔夜であることだけは分かった。



 早く帰らないと。



 まるで別のことが脳内を占拠している。


 シンは自分が混乱しているのだと知って、どうにか平静な状態に戻ろうとし、それが出来ないのでますますわけが分からなくなった。



『シン、どうした?』



 そんな息子の様子にヨーウィスもすぐに気がついた。

 シンは混乱した頭のまま、それでも平静を装うと、深く息を吸い込んで父親の顔を真っ直ぐに見つめた。



『――必ず、参ります』


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