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Moon Child  作者: かゆき
第七章 不滅の青
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14

 目を開けると、部屋の中は暗かった。


 まだ起きるのには早かったかもしれない。


 そうぼんやりと思いながらも一応時間を確認しようと首を傾けた朔夜は、そこに時計がないことを知って驚愕した。


 ごしごしと目を擦り、夢ではないことを確認しながら、色々な場所に手を伸ばした。端末は枕元にあったが、ヤーンスでも見たことがないほど古い型だった。


 博物館の端末コーナーに鎮座されていそうなそれを見て、朔夜はますますわけが分からなくなる。



 何だこれ。



 ボタンをいじると、端末は素直な反応を見せた。



 古い型だが、壊れてはいない。



 古い型に見せた新型なのかもしれない。眠る前はいつもの型だった気がしたが、シンがやってきて勝手に変えていったのだろうか。


 朔夜は混乱しながらも、隣室にいるはずのシンに連絡を取ろうと、ナンバーを押した。けれども聞こえてくるのは、その番号は存在しませんという無機質な合成音と、ぷつっと切れたあとに続く騒がしいノイズだけだ。


 混線しているのかと、何度も呼び出してみるものの結果は同じ。


 思うとおりに運ばない状況に苛々しながら、こうなったら直に呼びに行こうと寝台から降りた朔夜はそこで初めて異変に気がついた。



「……?」



 目の前に広がっているのはいつもの部屋ではなかった。


 それは眠っている間に誰かが配置換えをしていったというこじつけが出来ないほど違っていて、ありていに云うと見たことがない部屋だった。


 朔夜は夢を見ているのかとばかりに頬をつねってみた。


 痛みはあった。けれどそれが夢ではないという証明にはならない。


 何しろいつも見ているあの青い夢は、夢でありながら痛いと感じたり、寒いと感じたり、他にも日常に起こる自然な感覚を味わうことが出来るのだ。そこには自我も存在しており、現実との区別はつかないといってもいい。


 そればかりか証明するものが互いにないのだから、朔夜にとっては現実と夢の両方ともが夢であり、同時に現実だった。


 枕元の端末を操作して明かりをつけると、天井のライトがじわじわと光の強さを増し、辺りの様子をより明確にした。最も目に負担をかけない速度に設定されているという、普段の明かりのつき方に比べるとやや速いが、それでも一瞬目がくらむ程度ですんだ。


 まばたきをし、クリアになった部屋をまじまじと見回す。


 そこは明らかに普段、朔夜が現実世界と思っている場所とは異なっていた。


 だが単に知らない場所であるなら夢だと思えるのだからまだよかった。けれども気味が悪いことに知らないわけではないのだ。

 というより、明かりをつけた途端安堵してしまったくらいだった。


 一度も見たことがない部屋だというのは分かっている。


 映画の中でも家族旅行をした際に泊まったホテルでもないことも分かっている。

 にもかかわらず知っているのだ。この部屋にいて、朝起きたときは何をするのかとか、隣の部屋には誰がいるとか、枕元の端末のどれを押せば飲み物が出てくるとか、そういう細かいところまで知っている。


 それは朝起きたときに欠伸をしながら、トレーニングウェアがかけてあるクローゼットに向かうときの感覚に似ていて、意識せずとも脳が記憶している日常の動作だった。



 何だよ、これ。



 朔夜は無意識のうちに端末を開こうとしている自分におののいた。


 朝に情報をチェックにして、それから下の食堂で仲間とともに食事をして実験室に向かう。知らない人間の行動がまるでいつも自分がしているような感覚でもって脳内を(うごめ)く、それが気持ち悪くてたまらない。


 朔夜は乱暴な所作で端末を切った。


 見知らぬ場所であるはずなのに、脳内にしっかりと書き込まれた地図に恐怖しながら駆け出そうとした瞬間、朔夜は今までに感じたことのない感覚を首筋に感じた。


 思わず立ち止まり、背中を探った朔夜は一瞬心臓が止まったのかと思ったほどの衝撃を覚えた。



 見下ろした指には沢山の長い髪が絡まっていたのだ。



 髪?



 抜けたように白いその髪はホラー映画のワンシーンのようにしっかりと指に絡んでいた。


 確実に自分のものではないそれに、朔夜は悲鳴すらあげることも出来ずに顔を引きつらせた。

 髪はスパゲティを絡ませたフォークのように、ぐるぐると手に巻きついている。


 朔夜はパニックのあまり、息をすることもままならない状態に陥った。

 恐怖から逃れようと、髪が絡みついたままの手をぎゅっと握り込み、そのまま走り出す。


 一度も入ったことのない家なのに、まるで自宅にいるかのような自然な動作で探せるところが余計に怖ろしい。


 下半身に力が入らず、逆に上半身が重い。いつもとまるで勝手が違う体のせいで、朔夜は幾度となく足を滑らせた。

 それでも洗面所に駆け込み、姿見にへばりつくようにしながらうつむいた。


 疲れてもいないのに脈打つ心臓に翻弄されながら、恐る恐る顔をあげる。



「……っ」



 鏡に映った自身の姿を見た途端、心臓が大きく鼓動を打った。

 その衝撃で息が止まりそうになり、必死に呼吸を整えながら、朔夜は絶望的な面持ちで目の前の鏡を見つめた。


 鏡の中からこちらを見つめるのは、普段そこにいるはずの人物ではなかった。


 微かに色付いた長い垂れ髪に、サファイアのごとき青の双眸。唇を引き結んだまま、大きな目を見開いている。


 シフォンのように柔らかそうな素材で出来たネグリジェの上を髪が一房流れ、それが手に向かって続いている。手はしっかりと握り込まれ、そこには自身の髪が絡まっていた。



「…え……」



 朔夜は体が自然に震えるのを止めることが出来なかった。



「ゆ……え……?」



 朔夜の声に合わせ、鏡の中の少女の口も動く。


 それは他人が自分とちょうど同じ動きになったと思えるような違和感をともなっていて、とてつもなく気持ちが悪かった。


 髪を振りほどいて口元を押さえると、鏡の中の少女も同じ動きをした。



 何だよ。



 朔夜は恐怖に彩られた顔で、頬に首に腕に手をやった。



 何なんだよ。



 鏡の中の少女の動きは完全に朔夜と同じだった。


 身じろぎするたびに長い髪がさらさら揺れ、衣擦れが聞こえる。蒼白な顔、折れそうなほど細い首や腕。

 大きく開いた胸元の合間から覗くゆるやかな尾根に朔夜はぎょっとして腕でそこを隠した。


 脱力したようにその場に座り込み、体を抱き締めたまま、震える。



 どうして。



 脳内には別の人間の記憶が蔓延している。


 母親に親友、沢山の『おば』に『姉』。女のみで構成された街アルティオの記憶が、朔夜という人物の記憶の中にあふれている。


 それは授業中に見た望の幻影と同じで、二つの世界が重なってぶれ、どちらにも異様なほど現実感があった。


 自分が如月朔夜なのかルナレア・アルトなのか、判別がつかない。

 その存在感はこれまで如月朔夜として生きてきたのは夢で、本当はルナレアだったと云われても納得するほどだった。


 身が千切れそうなほどの孤独と悲しみ。

 ルナレア・アルトの心の中には、ようやくそれとわかるほどの暗い感情が満ちあふれている。



 朔夜は体の中に蔓延するそれがたまらなく嫌で、どうにかして如月朔夜としての自分を取り戻そうとした。

 つとめてナーサリーでのことや昔のことを思い出そうする。


 けれどもそれに被さるようにしてルナレアの記憶が流れ込んでくる。


 それは、輪唱の途中で自分が歌っている箇所がわからなくなるような、そんな感覚に似ていて、少しでも気をゆるめると、ルナレアになってしまいそうな気がした。


 誰もいない街。


 絶望的な感情とともに脳裏に浮かんだ街の映像に重なるようにして、広々としたリビングルームが現れる。

 大理石を模した床、目の前に立ちはだかるようにしてそびえる二本の柱、ゆるやかなカーブを描いて一階と二階を結ぶ階段。

 脳内に染み入るようにして現れたその絵はヤーンスの実家だった。


 ひとけのないがらんとしたリビングルーム。一つ一つに思い出が染み込んだその場所には、今は誰もいない。



「う…あ……」



 急に真に迫るものを感じて朔夜は耳を塞いだ。



―――どんなに行っても人なんていない。ペルセもアイグレも死んだ。残るはわたしひとり



「ルナ…レ…ア……」



 頭を抱えながら、それでもどうにか顔をあげた朔夜は、そこで鏡に映った己の姿が普段見慣れた自分のものに戻っていることに気がついた。


 辺りの景色はいまだにルナレア側のものなのに、自分の姿は慣れ親しんだ十歳の如月朔夜に戻っている。

 髪も短く、着ているものもいつもの夢の中と同じだ。


 姿だけでも戻ったことに安堵し、溜息をついて鏡を見ると、そこには再びあの少女が映っていた。けれども今度は自分の体までは変化していない。


 そっと手を寄せると、鏡の中の少女も同じ動きをした。


 反射する面を点に、指が重なり合い、冷たい鏡面を這う。



 あなたは誰?



 鏡の中の少女はそんなふうに唇を動かした。



 おれは、



 朔夜は口を動かそうとして、それが出来ないことに気がついた。



 おれは、



―――朔夜、だよ



 幻覚の弟が告げたその言葉が脳裏を過ぎる。



 違う。おれが朔夜だ。



 心の中に湧きあがったそれをそのまま否定しようとして、朔夜はそれが出来ないことに愕然とした。


 どこからが自分でどこからが弟なのか、わからないのだ。あんなに仲が悪かったはずなのに、思い出として蘇るのは良いものばかり。

 同じ顔と同じ姿の弟との記憶。相手が朔夜で、実は自分が望だったとしてもおかしくはないのだ。


 混乱する朔夜に、鏡の中の少女は無表情のまま告げた。



 わたしはルナレア・アルト。



 声とともに鏡に波紋が広がる。


 二重、三重と広がる輪に溶けるようにして少女の姿は掻き消え、代わってそこには幼い自分の姿が映った。弟、望と寸分たりとも違わない姿で。


 呆然として鏡を見る朔夜の耳にゆえの声が響いた。



―――見つけて……



 鏡の向こうに映る景色はヤーンスの自宅のものだった。




 dasha、nava、ashtau、sapta、shat、panca、catvari、trini、dve、eka……



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