12
翌日、シンは軍の医療部に足を運んだ。
「君が来たということは朔夜に何かあったんだな」
精神科主幹軍医はリクライニングチェアに腰を下ろしたまま、シンに席に着くよう促した。
「朔夜と望について教えていただきたいんです」
シンは着席するや否や本題を切り出した。
「つまり?」
「朔夜は自分が望なのではないかと疑っています」
ジグラは目に見えて表情を変えた。
「……どういうことだ?」
「先日の授業の折、朔夜は望の幻覚を見たことで教室を飛び出したんです。廊下で捕まえた朔夜は何かにひどく怯えていました。正気に戻るのにもしばらくかかったほどです。朔夜によると、その原因は望の幻覚を見たからということでしたが、自分にはそれが理解出来ませんでした。幻覚と分かっているものをどうしてそこまで怖がるのかということが、です。朔夜の怖がり方はそれほど尋常ではありませんでした。それで、軍医殿に朔夜と望の二人について訊こうと思ったんです。何かご存知ありませんか?」
ジグラはシンの話を聞き終わると、何かを書きつけていたらしい端末から視線を外した。
ゆっくりとこちらを向き、無精ひげの生えた顎をそっと撫でさする。
「幻覚というものは、全てがそうでないにしろ、たいていは不快な方面に働くものだ。アルコールの過剰摂取でも幻聴を聞いたり、幻覚を見たりすることはある。あの子は、幻視内容を云っていたか?」
「望が見ているということしか……。無闇に聞いて傷を広げると大変ですから、それ以上は訊きませんでした」
ジグラは再び端末にメモをした。
「それで大丈夫だ。だが話を聞く限り、幻覚症状はだんだんひどくなっているようだな。以前はここまでではなかったはずだ。最近何か起こったりしたか? 何かきっかけのようなものが教えてほしい」
シンの脳裏に浮かんだのはゆえだった。
しかしジグラにそれを伝えるわけにもいかず、また望との関連もわからない。
「……ついこの間、朔夜はサーヴァイン・ルパスクという少年が自分の友達だったということを思い出しました」
「思い出した? あの子が?」
突然ジグラは思いつめたような表情をした。
「それは少しまずいな……」
「まずいって?」
ジグラは少し考え込むようなそぶりを見せたあと、じっとシンを見つめた。
「シン・ゼン、君は朔夜のトラウマを顕在化させたとして、そののち起きるだろうフラッシュバックがあの子を襲ってもそばにいてくれるか?」
「もちろん! ですがトラウマの顕在化というのは……それは非常に危険なことなのでは? 精神科の世界では禁忌扱いされていると聞いたことがありますが……」
「その通りだ。しかし話を聞くかぎり、幻覚症状は非常に危険な段階に入っているようだ。サーヴァインの記憶を取り戻しているのであればなおのこと……」
ジグラが出来れば顕在化を選択したくないというのは態度から伝わってきた。
過去には廃人化の事例もある。甥にそのような真似はしたくないというジグラの気持ちはシンにも理解できた。
「朔夜が過去を取り戻したいと自発的に告げるようなことがあればすぐにでも処置にとりかかりたいと思う。だが私も出来ればその処置はしたくはない。幻視がこれ以上進行しなければいいが……。――もしこれ以上幻視がひどくなるようであれば、そのときは君が判断し、私のもとに連れてきてくれ」
「……わかりました」
ほかに方法は思い浮かばなかった。
シンは立ち上がって帰路につこうとしたが、途中でそれを思い直した。
「あの……朔夜の過去に一体何があったんです? 差支えなければ教えてほしいです。その何かあったときのために対処できる確率があがると思うので」
戻ってきたシンを見て、ジグラはうなずいた。
「そうだな君には手伝ってもらっている。話しておいた方がいいな」
再びジグラに座るよう促され、シンはもといた椅子に座りなおした。
「朔夜の家族が事故で死んでいるのは知っているな?」
シンは首肯した。
「――交通事故で死んだのは姉夫婦だけだ」
たった一言だったが、そこに含まれた重さは計り知れないものがあった。ずしりとした感覚が体全体にのしかかり、思わず顔を曇らせる。
「どういう……ことですか?」
「望はそのときにはいなかった」
その台詞を云うころには、ジグラの顔は真っ青になっていた。
思い出すたびに酷い苦痛に襲われるのか、時折眉相を摘み、固く目を閉じる。
「ヤーンスに樹海があっただろう。あの子はそこで行方不明になった」
シンの脳裏に、朔夜と一緒に上った雪の丘が浮かんだ。
目が眩むほどに目映い白の世界。遠目に見えた蓬色の林冠には真綿のような白い雪が被さっていて、何かのはずみでゆらりと崩れる。音も立てずにゆっくりと落ちていくその光景は不思議としか表現出来ぬほど、奇妙な違和感をともなっていた。
その奥には陽炎のように揺らぐ十二神の塔。塔を支えるために建てられた高層ビルがいくつも見えている。
「朔夜は保護されたときには、何も覚えていなかった。朔夜の着ていた服は望も持っていたし、それに朔夜が出て行ったときに着ていたとみられるコートをその子は身につけていなかった。それに口を開けば朔、朔、とくりかえして、それしか云わなかった。姉夫婦も、生きていたのは望の方だと信じて疑わなかったんだ」
「どうしてその子が朔夜だって分かったんです?」
無意識のうちに声が出ていた。ジグラが発する雰囲気が凍りついたのを感じたが、それでも何でもないとは云えなくて黙って返事を待った。
ピカピカと光る小川で父親とともにはしゃぐ双子の姿がぼんやり浮かぶ。指摘されても違いが分からぬほどに似た朔夜と望。異なる服でも着ていない限り二人の見分けはつきそうになく、況して自分のあだなをくりかえすことなどそうはない。
ジグラの話が本当だとすれば、生きていたその子は望である可能性が高く、朔夜だとみなした理由が分からなかった。
「――脳内検索をかけたんだ。望と朔夜の記憶の中で決定的に違うのはサーヴァイン・ルパスクの存在だけだ。彼の出現頻度が識別を決定した」
「それだけですか?」
「それだけだ。それしか朔夜と特定する術がなかった。あの子達は遊びでよく互いになりすましていた。もしかしたら人格の転移が起きていた可能性もある」
「ではもし、もっと前に記憶の混乱が起きていたらどうするんです」
「つまり?」
「つまり、サーヴァインの親友が朔夜ではなく、望だったら、ということです。軍医殿は先程、人格転移の可能性を述べられました。それがもっと前に起きていた場合、すなわち周囲が思っていた朔夜と望も実は反対だったら、どうなりますか」
一卵性双生児の結びつきの深さは随分昔から云われてきたことだ。テレパシーも元々はそこから研究が始まり、世間にも認められるようになった。
「そうなっていたとしても時期が遅すぎる。打つ手立てはない。君はもしあの子が望だったならばどうする?」
「わたしは彼が朔夜だろうと望だろうと構いません。わたしにとって彼は彼だけです。必要なのは名ではなく、彼そのものでしょう?」
はっきりと口にすると、ジグラは疲れたように首を振り、うつむいた。
「――ああ、そうだな」
「私は出来れば顕在化はしたくはない。幻覚症状さえ治まってくれれば……」
「……はい」
本当に顕在化以外に方法しかないのだろうか。
シンはジグラから顔を逸らした。




