11
「朔夜!」
シンはすぐにそのあとを追おうとしたが、それ制するようにルオウが声を張り上げた。
「ゼン!」
シンは一瞬視線を教壇に走らせ、それから一気に出入り口まで駆け上がった。
「キサラギを医局に連れて行きます!」
咎めるようなルオウの声が聞こえたが、シンはそれを無視した。
◇
朔夜はチューブにいた。
低重力空間で朔夜を追い、捕まえるのは至難の業だ。何しろ彼は、無重力実技検定でクラス一をとった実力の持ち主である。
担当教官も舌を巻くほどのその素早さはパニック状態においてもなお健在で、そればかりかいつもよりも速いような気がした。けれど感嘆している場合ではない。
朔夜は何かに追われているかのように何度も振り返って移動しているのだが、いくらスピードが落ちても全く追いつかないのだ。これでは教室を出て行く際に叫んだ言葉が遂行出来ない。
シンはカーブの向こうにいる朔夜の背中を見て、軽く舌打ちすると、思い切ってわき道に逸れた。
今の朔夜は錯乱状態にある。目的地を定めずただがむしゃらに走っているのは、それを追いかけているシンからすれば一目瞭然だった。
考えがなければ慣れ親しんだ場所に向かうというのが人というもの。朔夜は多分図書館か、シャトル発着場のどちらかに向かうはずだ。
シンのその予測と勘は的中した。
近道は成功し、シンは飛びつくような形で朔夜を止めた。慣性が働き、そのままの勢いでチューブに叩きつけられる。
「く……っ」
二人分の重みにシンは思わず声を漏らした。
びりびりとした衝撃が体全体に行き渡り、痺れにも似た感触を残す。
けれどもそんなものにいつまでも意識を奪われているわけにはいかない。
シンは背中の痛みに顔を歪めながらも、朔夜の顔を自分の方に向かせた。
「朔夜!」
朔夜の目はシンを映していなかった。紫がかった茶色の双眸は恐怖に彩られていて、シンの後ろに迫る見えない何かに怯えている。
何なんだ?
シンは背後を一瞥し、眉根を寄せた。後ろには勿論人影などないし、何かの気配もしない。
それでも朔夜はその何かに兢兢とし、逃げようとしている。
これは一旦落ち着かせないと駄目だと判断し、シンは朔夜の肩をやや乱暴に揺さぶった。
「朔夜、しっかりしろ!」
ぐらぐらと体が揺れ、その反動でチューブの壁に体が打ちつけられる。
惰性であちこちに移動するため、地上で行える全ての挙止が上手くいかない。
シンはここでは訊きたいこともきちんと問いただせないと、早々に詰問を切り上げ、この場から離れることにした。
背後に回り、朔夜を抱え込むようにしてチューブ内を移動する。
どこへ行こうかと様々な場所を思い描いたが、どこも話をするに適切な場所ではなかったので、一旦寮に帰ることにした。
巡回シャトルがある空間は低重力というほどでもないが、地上よりもやや軽い重力設定になっている。
廃人のようになっている朔夜の手を引き、シンはやってきたシャトルに乗った。
昼を少し回ったところで、一人の人間も乗っていない。軍人もこの時間帯は訓練の最中なのだ。
シートに座ったシンは、朔夜が多量の汗を掻いていることに気がついた。
一面の砂漠地帯である火星に適応した火星人は、出来るだけ水分を体外へ排出しないような体構造になっているため、その血を受け継いだシンも汗を掻くことなどそうはない。けれど朔夜は地球人だ。あれだけのスピードで飛ばしていたら汗を掻くのも当然というものだ。
「……朔夜?」
朔夜の額に浮いた汗を拭っていたシンは途中ではたと手を止めた。
震えている。
肌に触れた掌は熱に混じって、微かな振動を伝えてきた。それがあまりにも微弱なものだったので、シンは最初の方、それがシャトルの振動によるものかと思っていた。
「朔夜」
朔夜はがたがたと震えながら、自分の身を抱き締めるように胸前で腕を交差した。
その所作でシンは朔夜が正気に戻ったのかと思ったが、その双眸はいまだ鏡のように凍りついていて元に戻ったとは云い難い。
「朔夜……」
そっと呼んでみたが、やはり朔夜からは反応はなかった。
カタカタ震えたまま、身を縮めている。巡回シャトル専用の暗い空間にともる光が、丸めた背の上をなめるように滑り、消えていく。
フラッシュのような光が連続して続く空間は悪夢にも似ていて、シンはこんなふうな夢をずっと見ているのだろうかと、眉根を寄せた。
やがてシャトルは停車場に着いた。
第九エリアの門を開けると、 一瞬くらんだような痛みを目に感じる。思わず目を閉じ、すぐに開眼する。けれども奪われた視界はすぐには戻らない。
目の周りがつんとしたような痛みを発していて、視神経が焼き尽くされてしまったかのようだ。けれどもそれは一瞬の出来事で、すぐに視界は晴れてきた。
「あっ」
視界は真っ白だった。
厳密に云えば、白ではない色も多数存在していたが、それらはシンの注意を引くものではなかった。
「雪……」
上空から静かに降ってくる白い粉に手をかざし、つぶやいた。
掌に落ちた雪片はすぐに溶解し、皮膚の上には冷たい水滴だけが残っている。
シンは呆然としたように上空を振り仰いだ。灰色の空から遅くもなく速くもないスピードで落ちてくる雪は、見ていると下に落ちているのか上にあがっているのかわからなくさせる。そしてそのうちに奇妙な浮遊感にとりつかれ、意識が吸い込まれるような感覚に陥るのだ。
シンは空を見上げたままぼんやりと虚空に視線をやっていたのだが、突然はっとしたように瞠目すると、朔夜を見た。
意識はまだ正常には戻っていないようで、雪が降っていることに関しても特に何の反応も示さなかった。
痛々しいその様にシンは顔を曇らせたが、すぐに思い直したように笑顔になり、大きな声で云った。
「な! 朔夜! 雪が降ってるぞ。ほら雪!」
シンは空いた方の手を虚空に投げ、大仰な動作で雪の存在をアピールした。
「凄いな。気象管理局がこんなことするとは思わなかった。今日あたり軍人が大挙して見に来るかもしれないぞ。ヤーンスでも雪はたくさん降っていたが、大雪過ぎて最初くらいしか外には出なかったもんな」
シンは相変わらず反応のない朔夜に向かって微笑みかけると、枯れた芝生の上にうっすらと積もった雪を踏んだ。不思議な音が靴の下からして、いつもとは違うその音が心地よい。
たたらを踏むように雪で遊んでいるうちに、ヤーンスに行ったときのことを思い出して嬉しいような悲しいようななんとも云えない気分を味わった。
朔夜にも雪を間近で見せようと、屈み込んだシンの上からかすれたような声が降ってきた。
「雪……」
その声はたいそう小さかったが、シンの心臓は止まるかもしれないと思うほど大きく波打った。
「朔夜?」
こちらを見下ろす朔夜の目は先程と違い、確実にこちらを捉えていた。
正気に戻ったのかと立ち上がると、朔夜はぼんやりしたような表情を浮かべながら、目を細めて天を仰いだ。
「雪……なんて、降るんだな」
まぶしそうなその面からは、恐怖や苦痛といった色は窺えない。シンは唇を噛んで顔を歪めると、朔夜が見あげる空を同じように仰いだ。
「ああ! 綺麗だよなっ」
◇
「砂糖とクリームは多めだろ」
そう云って手から放たれた球体容器は、ゆるい弧線を描いて朔夜の両手の中に吸い込まれた。
耐熱性になっている容器からはわずかな熱も感じ取れないが、シールは内部が高温であることを示している。
朔夜はフタ部分についているボタンを押してストローを出しながら、苦々しい顔つきでシンを見た。
「悪いかよ」
「何がだ? おれは別に何も云ってないぞ。朔夜は砂糖とクリームをものすごく増量しないと飲めないんだったよな、という事実確認をしただけだ」
云いながらシンは朔夜の隣に腰をおろした。
ベッドが沈み、シーツに深い皺が刻まれる。くぼみに溜まった黒い影は、背後の窓からあふれる白い光とは対照的で、微妙な違和感を覚える。
朔夜はいやみな台詞を吐いたシンを睨めつけると、背後にある窓にちろりと視線を向けた。
シンの部屋の窓は大抵外の様子をそのまま投影している。雪はいまだ降り続けているようだった。
朔夜は窓に視線を傾けたまま、ストローを口にくわえて無言で中身のココアをすすった。
熱い液体が口内を満たし、そのあとからなんとも云えないとろりとした甘さが広がる。
じわじわと伝わる熱に反応するように脳裏に母の笑顔が零れた。
―――ほら、こうすると綺麗でしょ? 雪がいっぱい積もってるみたい
ふんわりとした黄色のスポンジの上に、さらさら音を立てながら振るわれるのは、純白のパウダーシュガーだ。何のケーキだったか、何のために作られたものなのか、それは定かではない。
けれども、脳裏にはいい匂いのするエプロンを身につけて菓子を作る母の姿が残っていて、ちょっとした暇を見つけては、自分たち兄弟のためにその白い指を動かすその姿を朔夜は今でも鮮明に見ることが出来る。
―――……望、駄目よ。生地はもっと力を込めて練らないと。朔夜はぼうっとしてないで、こっちを手伝って
歌うような調子で云われる小言は、鳥の囀りのようでちっとも耳障りではなかった。
きっと云われたときにはへそを曲げたに違いないが、今となってはそんな感情など湧き起こりはしない。去来するのは、甘い笑顔や何かの調べのように美しい声で自分や弟を呼ぶ姿だけで、それ以外のことは思い出せなかった。
彼女が欠点など一つもないような慈愛の聖母ではなく、ただの主婦であることは知っている。
覚えていないだけで喧嘩も日常茶飯事だっただろう。けれども思い出の中の母はいつも、怒ることなど知らないような優しい笑顔でこちらを見ていた。
「朔夜?」
シンは無言でストローに食いついている朔夜に不審を抱いたらしい。顔の前で盛んに手を振りながら、意識が飛んでいないか確認してくる。
朔夜は顔を曇らせながらそれをどかすと、まだ不審そうな顔をしているシンをじっと見た。
「あんた…前に……」
「前に?」
「アルバムのことで話があるって云ってたよな。――あれって結局どんな話だったんだ?」
「それ……は」
突然の問いかけにシンは口ごもった。
落ち着かない様子で視線をさまよわせ、幾度かためらいがちに口を開いては閉じる。明らかに何かを隠しているその様子に、朔夜は苛立ちを感じた。
こういうこと以外にはうるさいくらいによく話すというのに、いざ口を割って欲しいときには不器用なほど躊躇し、なかなか切り出さない。
朔夜は苛立ちを抑えるように深く息を吸い込むと、大きくそれを吐き出した。
「望のことだろ」
「……」
シンはうつむいたまま、何も云わなかった。黙って下唇を噛み、朔夜のかたわらに腰かける。
「云えよ。何か分かったら教えろって云っただろ」
横で項垂れるシンに、朔夜はざわざわするような感覚を味わいながら、それでもむきになったように云った。
シンが話したがらないそぶりを見せている以上、無理に聞き出しても、そこから得られる情報はかなり悪いものであることは分かっていたが、それでも訊かずにはいられなかった。
何故いつもあんな気色悪い幻覚を見なくてはならないのか、どうして幻覚はいつも望なのか、尋常ではないあの恐怖は何なのか。
今回、沢山の人間がいる教室でそれを見たことで、朔夜の精神は限界に達していた。
あんなものに何度も襲われてそのたびに逃げ出していればテレパシスト云々とかそういう問題以前に退学だろう。
朔夜にとって、退学だけは絶対に避けなければならない事態だった。就職を円滑にするための学歴取り目的で入ったというのに、中退では意味がない。
何度も急かしていると、シンは諦めたように腰を上げ、暗い面持ちで腕の携帯端末を操作した。
こちらに転送でもしてくるのかと思っているとそうではなく、送信先は自身の端末のようだった。机上のコンピュータが勝手に起動しはじめ、中空にホログラフィースクリーンを出現させる。
スクリーンに浮かんでいるのは幼い子供が遊ぶ姿だった。
同じ顔、同じ背丈、同じ服の子供がきゃあきゃあ笑いながら、小さな画面の中を元気いっぱいに走り回っている。自分と望の幼いころの姿。同じ恰好をしていると、すぐにはどちらがどちらだか判別がつかない。それでもどうにか自分と望の区別がついたそのとき、画面が切り替わった。
思わず隣に座るシンを見、朔夜は再び画面に目をやった。
そこに映っていたのは生前の両親と自分だった。場所は不明だが、旅行をしているのだろう。おどおどしたような目をこちらに向ける自分の姿がある。
「この年から一人だけなんだ」
シンは呟くように云った。画面には指摘の通り子供はひとりしかいなかった。
「望かお前かはわからない。でも、ここからはひとりしか映ってないんだ」
云いながら、次々に画面を変えてみせる。
シンの云った通り、次の映像にもそのまた次の映像にも双子のはずの子供はひとりきりしか映っていない。家族全員が映っているその瞬間にも子供は自分らしいそのひとりしかいなかった。まるで昔からこうだったとでもいうように微笑む三人。
いくら切り替わってもいるはずの残りひとりが出てこないことに、朔夜は血の気が引いていくのを感じた。
ひどく冷えた空気が足の下からふうっとあがってきて、感電するような速さで鳥肌が全身に行きわたる。
―――朔夜は死んだんだ
かつて見た夢の中の父の言葉が脳裏に過ぎる。
「理由は分からない。だから……」
―――朔夜、だよ
いびつな笑顔が波紋を描くように広がる。朔夜は吐くほどの気分の悪さを感じて、その場にしゃがみこんだ。
「朔夜!」
声と同時にかたわらにシンが座り込む。温かい気配を感じつつもあまりの気分の悪さに顔も上げられない。
朔夜は口元を覆ったまま、異様な吐き気が治まるのを待った。
心臓の鼓動がいやに近くに聞こえる。震えがはしるくらい寒いというのに、体の奥はじっとりと熱くて、その曖昧さがさらに気持ちを悪くする。
「朔夜っ、大丈夫か?! おい!」
その声はいやに遠くに感じられた。
朔夜は目を細めてシンを見た。視界にあるルームメイトの姿はひどくぼやけている。
感覚もどこか曖昧で、全てが遠く感じる。
「朔夜!」
真っ暗な空間の、とても遠い場所で望の声が聞こえたような気がした。




