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Moon Child  作者: かゆき
第七章 不滅の青
57/89

8

 翌日、朔夜はいつものように図書館に行き、夢で見たことをシンに話した。

 ゆえへの復讐を固く誓うシンには特に実にもならない情報だとは思ったのだが、彼は嫌がりもせずに素直に聞いていた。



「じゃあ、この塔の中のエントランスがあって、その奥の庭の噴水にしかけがあるってわけだな。非常階段につながっていて、その先には研究所、と」



 シンは朔夜から聞いた情報を熱心に書き込んでいく。


 朔夜がそれを覗こうとすると、大仰に手を振られて妨害された。

 書き終わると、朔夜に色々と質問し、ちょっと待ったと云っては、うつむいて手を動かした。


 最初こそ何とも思わなかった朔夜だったが、待たされる時間が増えれば増えるほど、気になる比率は高くなっていく。



「なあ」



 遂に耐えかねて、朔夜は声をあげた。



「あんた、さっきから何やってんの?」



 その問いにシンは答えなかった。ちょっと待ってろ、と片腕をあげて手を動かし続ける。



「出来た!」



 勢いよく手を止め、要塞のように固めていた両腕を解くと、シンは朔夜の前にホログラフィースクリーンを広げた。

 自信満々な雰囲気全開で見せてきたそれに、朔夜は思いっきり眉根を寄せた。



「…何、これ……?」



「塔内部の図だ」



 自慢げに云うシンに、朔夜はもう一度スクリーンを凝視した。

 シンが図だと云い張るそれは、図というよりも子供が描いた落書きのようで、上手い下手のレベルにも達していない。

 朔夜はそれを自慢げに見せる少年に視線を移し、憐憫にも似た眼差しを投げた。



「何だ?」



「あんたって……」



 アーモンドのような目を大きくして返事を期待するシンに、朔夜は大きく溜息をついた。



「あんたって、絵、すごい下手だね……」



 言下にシンはパシパシと目をしばたたかせ、それから顔を赤らめた。端末の電源を切り、スクリーンを消すと手近にあった本を投げつけてきた。





「顔にあざが出来たらあんたのせいだからな」



 本は合計三つもヒットした。

 そのうち二つが顔面に当たり、今も痛みがひかない。暴力行為にもほどがあると、朔夜は当たった部位をこれみよがしに掌で押さえながら、シンを睨みつけた。


 けれどもシンは全く悪いとは思っていないらしく、そんな朔夜の視線には動じない。そればかりか人に罪を着せてきた。



「はあ? 何だって?」



「二度も同じことを云わせるな。人が熱心に制作したものを下手の一言で片付けるお前が悪いと云っているんだ。それに顔が資本の職についているわけでもあるまいし、あざが出来たから何だというんだ」



 いちいち云うことが癇に障る。人を苛つかせないための語彙と云い回しをもっと学ぶべきだと思いながら、朔夜は腹立たしげにエントランスの靴拭きをにじった。



「本当に下手なんだから仕方ないだろ。下手以外に表現の仕様がなかったんだ。褒められたいんだったらもっと努力するべきじゃない?」



「あれは図なんだ。理解出来ればいい。絵心など必要ない」



「じゃあ、物投げるほど怒らなければいいだろ。あんた、云ってることとやってることが一致しないんだよね。大体下手なものを下手と云って何が悪いんだよ。本当のことなんだから仕方ないだろ。ライザーの人間にへつらわなきゃいけない法律でも出来たら、そのときは涙を飲んで上手いって云ってやるよ」



「ちょっと自分に絵心があるからと……」



「そもそも自分が反対の立場になってたら、あんた絶対大騒ぎするよ。あざがついた、どうしてくれるんだってさ」



 この上なく意地悪い口調で云うと、シンはごそごそと手を動かしながら、自分は云わないと断言した。



「あざなどすぐに治る。たかが内出血ごときでがたがたぬかすのはお前くらいだ」



「偉そうに。もっとあんたは自分を客観視すべきだと思う」



「その台詞はお前だけには云われたくない」



 図書館からの帰路をほとんど口喧嘩に費やし、ようやく戻ってこられたと、安堵しながら十八階で降りる。


 シンはついてこなかった。


 不審に顔を曇らせ振り返ると、シンは瞠目していた。

 つい数分前まであれだけ偉そうに語っていたのに、そのときの面影すらない。



「シン?」



 朔夜はいよいよ顔を曇らせ、シンが見つめる視線の先を辿った。


 自分たちの部屋の前で腕を組みながら立っている人間がいる。浅黒い肌と漆黒の制服。射抜くような冷たい目が印象的なその人物は、入学当初に部屋の前で見た、あの青年に間違いなかった。


 警戒する朔夜の背後でシンの声が聞こえた。



『アル…カ……』



 その声はかなり震えていた。

 発音も聞いたことのないもので、普段話している言葉ではないことがわかる。シンは歓喜か恐怖か、判別出来ない微妙な表情をしていた。

 あまり見たことのない種の表情に、朔夜は眉根を寄せた。



「朔夜」



 呼ばれて振り向くと、シンはのろのろと歩いてくるところだった。仕草さえも平素と異なり、覚束無い。



「……悪い」



 シンは双眸を震わせて、朔夜を見た。


 戯言の延長線上とはいえ、それまであんなに偉そうに語っていたシンの双眸は、今は不安に揺らめいている。



「先に行っててくれ」



 絞り出すようなその声を前にして、文句を云うことなど出来そうになかった。



 ◇



 音を立てて扉が開く。

 朔夜が部屋に入り、扉が完全に閉まるのを見届けてから、シンはゆっくりと正面に向き直った。


 廊下は先程と同じく、黄色ともクリーム色ともつかない明るい光で満たされている。大気に散らばる粒子が光をはじき、玻璃の欠片のようにちらちらと輝く。

 シンは明るい空間の中で切り取られたように黒い青年を見つめた。



『アルカ』



 鼓動が激しすぎて、心臓が痛い。


 再会の喜びを告げるために前々から用意していた言葉もこんなときに限って口から出て行かず、苦しいほどの熱をもって咽喉の奥に引っかかっている。


 ようやく出た名前もかすれてしまって、ずっと前から脳内で計画していた再会場面の万分の一も果たすことが出来なかった。


 アルカスはというと、ナーサリーに入る前に会ってから一年半以上もの月日が経っているというのに、冷たすぎるのではないかと思うほど反応がない。

 壁に背をもたせかけたまま、にこりともせずにこちらを凝視している。


 見ているだけで切られそうなほどの鋭い眼光が少しもゆるまないのは、今回ここまで来た用件がどれだけ彼の気にそぐわないものであったかを如実に物語っている。

 実際、アルカスが今回の件を許したとは思えない。

 黙って試験を受けたこともそうだが、家出をしたということが、だ。


 それでも。



『アルカ……』



 久々に使う一族の言語をもう一度口にし、シンはのろのろと足を動かした。


 懐かしい姿がゆっくりと近付いてくる。浅黒い肌、鋭い目、艶やかな黒髪。目の前にいる青年が、そのまま幼くなり、かつて見せていた表情と声音でもって自分の名を呼ぶ。



―――シン



 初めて会ったときは少し緊張気味に、けれどもまぶしいくらいの笑顔を向けてくれた。三番目の兄よりも甥のアルカスの方が年齢が近かったから、遊び相手として紹介されたのだ。いつも一緒に遊んでいた。


 あの拉致未遂事件が起きるまでは。



 事件後の変わりようを思い出して、シンの足はいつの間にか止まっていた。透明な壁でもあるかのようにそれ以上進むことが出来ない。


 これか限界なのかと、唇を噛み締めてうつむいていると、廊下を進む甲高い靴音がした。顔を上げるとアルカスはもう目の前にいて、威圧するような目つきで見下ろしていた。


 どきりとして思わず後込(しりご)むと、アルカスはちょっと眉根を寄せて、それからおもむろに手を伸ばしてきた。



『髪、切ったのか?』



 ()かしても癖が取れない跳ねた毛先に浅黒い指が触れる。躊躇なく触れてくる指先と、それが発する温度に反応して、心臓がバクンと跳ねあがった。

 その反応の顕著さに恐ろしくなり、慌てて指を振り払う。



『何だよ』



 震える声と精一杯の虚勢で、幼馴染みを睨みつけながら、シンは頬に手をやった。

 指先の熱がまだ頬に凝っている。



『何するんだよ』



 視界は潤んでいた。何故涙が出てくるのか分からない。まなじりを邪険に擦り、シンは噛みつかんばかりの勢いでアルカスを睨めつけた。


 青年は何も云わず、ただ静かにシンを見下ろした。


 最後に会ったときよりも身長が伸びている。そんな馬鹿げたこと自然に思う自分が嫌になりながらもなおも睨んでいるとにいると、機械のように冷静な声が上から降ってきた。



『――今月末にヨーウィス様がアスガードにご帰還なさる。それまでに本邸に帰ってくるよう、ご要望だ』



 一切の無駄と感情を省いた伝言を云い終えると、アルカスはさっさときびすを返した。


 シンはこのまま帰ってしまうのかもしれないとの焦りに駆られて、思わず声を上げた。



『ひ……ひとりでか?!』



『俺は暇じゃない』



 アルカスは振り向きもしなかった。


 近付いてきたときと同じく、音を立てながら去っていくその後姿を見て、泣きたいような気分になる。


 どうして素直になれないのか分からなかった。朔夜相手ではあんなにものが云えるのに、アルカスを前にするといつも何を喋ろうかとそんなことをうだうだ考えてしまって、結局ろくなことが云えない。

 今だってそうだ。一年半ぶりに会えて嬉しいと、もっと話したいと云えれば、もしかしたらこんな冷め切った関係から脱却出来るかもしれないのに、その一言がどうしても云えない。



 行ってしまう、行ってしまう。



 混乱したような感覚と微かに残った意地が咽喉を詰まらせる。それでも次はいつ会えるか分からないという漠然とした不安感に耐え切れなくて、シンはついに声を上げた。



『アルカ!』



 遠ざかっていく一方だった足音が止まる。


 たったそれだけでシンは気が遠くなりそうなほど嬉しくなった。



 今度はもっとちゃんとしたことを云って、楽しくすごせるようにしよう。



 どうすればそうなるのかはよくわからなかったが、クラスメイトと話しているときのような自然な雰囲気を出せるように努めればいい。

 心の中で深呼吸して、気を取り直したように顔を上げたシンだったが、アルカスの視線は冷ややかだった。



『アル……』



『気安くその名を呼ぶな。誰が聞いているか分からないだろう』



 言下に作りかけた笑顔が張りついたのを感じた。



『次からはセシェンと呼べ』



「な……」



『ダーク・ルード・セシェン。軍での俺の名だ』



 云うなりアルカスは顔を逸らした。たったそれだけで目の前が真っ暗になったような気がした。鋭利な刃物でばっさりと切られたように、体が痺れたような痛みを発している。



『何だよ』



 シンは傷ついたことを悟られないよう、虚勢を張った。嗤笑(ししょう)するように口元を歪め、吐き出すようにしてもう一度云い捨てた。



『何だよ、そのおかしな名前』



『おかしいのはお前の方だ。どういうつもりで本名を名乗った』



 アルカスはシンの様子になど全く気にかけないふうに冷然と云い放った。押しつけられるような重圧が体にのしかかる。



 どうしてそんなふうに云うのか。そこまで嫌われているのか。



 焦りにも似た思いがぐるぐると回り、いたたまれなくなる。もっと話したいのに、もっと見ていたいのに、空間を共有していることがこの上なくつらくて、苦しい。


 シンは心臓部に当てた手を固く握り込むと、ぎりりと唇を噛んだ。



『――シン・ゼンはわたしの本名だ。実の名を名乗って何の問題がある』



『お前が軽はずみな行動をとったせいでヨーウィスさまは大層苦労なさっている』



 アルカスはシンを見ようともしなかった。その態度だけで泣きそうなほどの苦しみを味わったが、ここで退けばきっとなめられる。シンは動揺を悟られないように努めて冷静な声を出した。



『苦労? 苦労するならすればいい。外にも出せないような子供を作った父上の責任だ』



 酷い緊張感だった。冷や汗が体の内側を伝い、寒暖の境がつかなくなる。熱いのか寒いのか、それすらもわからぬ空気が体の周りを覆い、(はだえ)が粟立つ。

 朔夜に火星人(マーズレイス)であることを明かしたときだってこれほどまでに緊張することはなかった。



『……ジェセル・クラインから報告が上がっている。お前ヤーンスとサテライトで負傷したらしいな』



『あれは事故だ。外に出たせいじゃない』



『だがクラインは守りきれなかった』



『ただのクラスメイトとして入っているんだ。ジェシーとずっと一緒にいること自体おかしい』



『本名で入っているにもかかわらず、そこは気にするのか?』



『それは……』



『お前が怪我をするだけでクライン家の立場が悪くなったとしても、お前は自分が良ければそれでいいのか。軽はずみな行動というのはそういうことも入るんだ。少しは自分の立場をわきまえろ』



 早鐘を鳴らす心臓を服ごと押さえうつむいていると、許さないからなと、低い声で囁かれた。

 はっとして顔を上げると、アルカはまるで表情の見えない能面のような顔でもう一度告げた。



『ヨーウィスさまが何を云おうと、俺は許さない』



 紺色の目は冷え切っていた。



 怒っている。



 居た堪れなくなりながらも、それでもこの場を離れようとは思わなかった。



『許さない? それであの軟禁生活を続けろと?』



 シンの問いにアルカスは答えなかった。表情も変えないその冷徹さに悲しみはさらに募り、云いようのない感情の塊に姿を変える。シンは虚しさのあまり怒鳴る気さえ失せ、顔を曇らせながら歪んだ笑みを浮かべた。



『わたしはお前にとって何だ?』



 声は無様なほど震えていた。眉一つ動かさず涼しい顔をしてこちらを見つめる甥に、シンは今まで溜めていたものが溢れ出すのを感じた。堰切ったように込みあげる感情にシンは押し流された。



『お前にとってのわたしは何だ?』



 アルカスが顔色を変えたのが分かったが、もう止められなかった。



『お前にとって、わたしは都合のいい飼い犬か?! どうしていつもいつも我慢しなくてはならない。監視するならわたしではなく、お前の父親をすればいいだろ! あいつのせいであんな生活をしなければならなかったのに、我慢するのはわたしだけか? 今もあいつは大手を振って歩いている。どこへ行くのも自由だ。外に出て本名も名乗ることが出来て、社員として働いてすらいる。あまつさえあいつの息子がわざわざやってきて、こうして家に帰れと云っている』



『シ……』



「おれはもう嫌だっ」



 一方的に怒鳴ると、シンはこれ以上出来ないほどに顔を歪めた。



「もううんざりなんだよ!」



『シン!!』



 アルカスの声が全身に深く食い込んだ。


 あんなに云いたい放題云われたはずなのに、ただ呼ばれただけで泣きたくなるほど嬉しくなる。全て許したくなってしまう。そんな自分が途方もないくらい嫌だった。


 シンはアルカスから視線を逸らしたままきびすを返し、逃げるように部屋に駆け込んだ。


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