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シンが去ってしばらくすると、部屋の中の空気は少しずつ溶解していき、凝っていた気配もじょじょに希薄になっていった。
朔夜はゆるくなった空気を大きく吸い込み、ベッドの上に仰向けに寝転んだまま、窓の外を眺めた。
―――朔夜はテレパシストだと思う
望んだわけではないのに、脳裏にそのときのシンの姿が挿し込まれる。
泣きそうな顔。怒りと悲しみを綯い交ぜにしたそれは、感情を必死に押さえ込もうとした結果現れた表情で、何とも表現しがたいものだった。
脳裏からその映像を剥がそうと、両手を顔面に押しつける。
振動が脳を震わせ、一瞬シンの姿は消え去ったが、それは本当にその瞬間だけだった。真っ暗になった視界の中にその姿は再び刻まれた。
「くそっ」
朔夜は苛立ったように髪を掻き混ぜると、体を反転させて枕に顔を押しつけた。
落ち着かない。
自動冷却設定にしてある枕は、普段眠るときには気持ちがいいと思えるほど冷たいのに、こうもまんじりともしない状態が続くと、その冷え具合が逆に神経を尖らせてしまって駄目だった。
どんなに忘れようとしても、その忘れようと意識する行為が脳を活性化させてさらに精細な記憶を蘇らせる。
まるで頭の中に再生装置が組み込まれているかのようだった。シンの発した台詞やそのときの表情が、数秒前に起こった出来事のようにまざまざと脳に浮かぶ。
―――どっちかって云うと、お前の方が超能力者だぞ
それを云ったときのシンの表情はまだからかいも混じっていた。けれどもその後すぐにその目は真剣になり、決して戯言を述べているわけではないことが分かった。
「おれは」
朔夜は顔を枕に押しつけたまま、頭を抱えた。
「おれは……」
呼気が枕を熱くさせ、冷却装置がそれを冷やす。
冷たいはずなのに熱い、よくわからない曖昧な温度があの日の出来事を思い出させた。
夢の中の街のような真っ青な空気。走りすぎて体温が上昇した皮膚にキリリと冷えた風が吹きつける。
―――じゃあ、どうしておれが屋上にいたこと、分かったんだ?
そんなことは知らない。ただ気がついたら屋上に向かって走り出していたのだ。そのあとのことは無我夢中でよく覚えていない。
青い風、青い空の下、青い空気の中、ナーサリーの寮へ向かった。
止まっていたエレベーターを見て、何も考えずに非常階段へ向かった。
どうしてあのとき、シンが部屋に帰っているとは思わなかったのだろう。
そんな考えがあったら、他の生徒たちと同じく非常階段で自室まで戻るか、エレベーターの修復が終わるのを待っていたに違いない。
―――朔夜は
脳裏にシンの姿が映る。
震える長い睫毛、琥珀色の大きな目、意志の強さが込められた眉。
朔夜はそれらの映像を払拭しようと、腕を大きく振りあげ、ベッドに叩きつけた。
寝台が大きく揺れ、体がわずかに揺れる。
「おれは超能力者なんかじゃない」
頭の中で弾ける光の粒。幾度となく脳裏に挿入されたその感覚が、シンによってもたらされるものであることを朔夜はもう随分前から知っていた。
それは経験によって培われたものではなく、初めから当然のことのように朔夜の頭の中に刻まれていた。
―――朔夜はおれの声が聞こえる
その言葉はそれが普通の人間には聞こえないものであることを示していた。
普通の人間には聞こえない声。ならばそれが聴こえてしまった自分は何なのだろうか。
「おれは違う」
枕に頭を押しつけるようにして、朔夜は呟いた。
―――そうだろ?
違う。
朔夜は吐き出すようにして叫んだ。
「おれは、違う!」
◇
目を開けると軽い耳鳴りとともに二重か三重にぶれた真っ白な世界が現れた。
脳を揺さぶられるような重たい感覚が頭の中に響く。
頭を両手で抱えると、軽い眩暈に襲われて、もう一度世界がシェイクされた。痛くないのに痛いという表現が合う、不思議な感覚が全身に蔓延している。耳元で鐘がつかれているような鳴動。
耐え切れなくなったように起き上がると、頭をぶつけた。
「ルナ、何やってんの」
ベッドに内蔵されている端末のスピーカーから幼馴染みの声がした。
こめかみと額を片手で押さえたままあたりを見回すと、隣のカプセルベッドで横になる幼馴染みと目がかちあった。
「アイ…ラ……」
呟いたルナを一瞥し、アイラはまた眉間にしわを寄せながらシーツの上に広がった髪の枝毛を探しはじめた。
何やら機嫌が悪いらしい。
そういえば横になっているときの彼女の表情は大抵そうだったと思い起こして、ルナははっとした。
「ここ……」
「病院よ」
毛先をいじりながら間髪入れずに答え、アイラは黙々と指を動かした。
「病院……」
「そう。ルナ、あんた、またぼうっとしてるわけ?」
その問いにルナは無言で答えた。
いまだぼんやりとした頭を回して天井を仰ぎ、ゆるいドーム状になったそれを見つめる。
目の端に横になったままの不自由な姿勢で肩をすくめるアイラの姿が映っていた。
首を傾けて幼馴染みを見ると、それに気がついたらしいアイラは顔をしかめた。
「何見てんのよ」
その表情にくすぐったいような気分になって笑みを零し、ルナはまた天井を見た。
真っ白なそこにはみみずばれのように盛りあがった白い筋がいくつも入っていて、よくよく見ると、それが植物であることがわかる。
見ているだけで眩暈がするほど精緻な彫り物は院内の特別室天井に必ず描かれているもので、部屋によってその図は全て異なっていた。
ああ、ここは地下のあそこか。
頭の中で院内の地図が一気に作成され、それと同時に記憶も蘇ってくる。
一月に一度必ずある定期健診という名の細胞提供に出かけたこと。そのあとに通されたここですっかり眠ってしまったこと。
今の今まで寝ていたということが信じられないが、寝台の時計を信じればそういうことらしい。検診終了時刻が三時間もあとのアイラが隣で休んでいるというのも、時間が正確であることを証明している。
どうせだからもうちょっと休んでいこう。
本来ならそんなことは思わず焦って家に帰るはずだったが、夢見が悪かったのが影響してか、そういう気にはなれなかった。
寝たというのに回復しないばかりか、さらに募った疲労感に戸惑いながらカプセルベッドの設定を変えた。
どうせ寝るのならよく眠れる方がいい。
最上階のコクーンに行って夢も設定してしまおうかと思ったが、全てが記録されてしまうのだということを思い出してやめた。
十歳の誕生日会のときはあまりに最高だったから記録ついでにアイラと昼寝をしに出かけたが、そのときはあまりに良い夢すぎて起きられなくなってしまったのだ。
今日はここで我慢しよう。
枕に顔を埋めたところで、ルナは唐突に耳鳴りに襲われた。
「い……った」
微かに声を漏らし、ルナは耳を塞いだ。
細い針を差し込んだような、鋭い痛み。空気を裂くその鋭い振動は、遠く近く、波のように揺動し、脳に揺さぶりをかける。
ルナは早く鳴り止まないかと、耳を叩いたり、引っ張ったりしていたが、そんなものでどうにかなるはずもなく、キンとした音はそれ以後も鳴り続けた。
耳鳴りってこんなに長く続くものだったっけ。
枕に頭を乗せたまま、不審に顔を曇らせていると、不意に耳の奥がガサガサしはじめた。耳鳴りが続きすぎて、内耳の辺りがおかしくなってしまったのかもしれない。
抗うように耳殻を擦っていると、耳鳴りが続く音の向こうから何か声のようなものが聞こえた。
何?
顔を側めてその音に意識を集中させると、今度ははっきりと聞こえた。
―――ルナ、ごめんね
その声を聞いてルナは反射的にアイラの方を見た。
隣のカプセルでアイラはまだせわしなく手を動かしている。
そんな幼馴染みの姿に、ルナは安堵の息を吐いた。
幻聴だと思ったが、どうやらアイラが云った言葉だったらしい。
混線しているか、機械の不具合でよく聞こえなかったのだろう。
忙しそうに手を動かすアイラにそういったそぶりは見られないが、それはきっと独り言だったせいに違いない。音が小さすぎて声が拾えなかったためによく聞こえなかったのだ。
ルナは警戒してしまった自分に苦笑いして、身じろぎした。
温くなった場所から逃れるように頭を移動させ、うなじから髪を掻きあげる。そしてゆっくりと目を閉じ、訪れた眠気に触発されたように欠伸をしていると、また声が聞こえた。
―――ずっと一緒って約束したのに
「アイラ?」
不穏な空気に満ちたその言葉にルナは思わず目を開いて、隣のカプセルを見た。
アイラはまだ毛先をまさぐっていて、ルナが見ていることなど気がついてもいない様子だ。
先程は無理やり独り言だということで片付けたが、今回はそう思い込むことも難しかった。
顔を曇らせて隣のカプセルを見、思い切って声をあげる。
「ねえ」
言下に天蓋カバーを二枚隔てた向こうにいるアイラが、細い肩をピクンと揺らすのが見えた。髪をいじる手を止めて、ゆっくりとした動作でこちらを見る。
「今、何か云わなかった?」
「云ってないけど?」
マイクから聞こえるアイラの声は少しくぐもっている。
「そう……」
確かに聞こえたはずなんだけど。
そう思いアイラの表情を窺ったが、彼女は本当に何のことかわからないようだった。
幻聴?
反射的に耳を押さえ、ルナは耳鳴りがいつの間にか収まっていることに気がついた。
遠くで風が吹いているようなそんな音が、掌で作り出された生温かい空気とともに耳の周りで凝っている。
―――今年も成功しなかったって。あたしたちよりも小さな子、もう生まれないかもしれない
それは確かにアイラの声だったが、目の前にいる彼女の口は微かにも動いていなかった。
ひやりとした空気が体の下から上に向かって突き抜け、体に震えが走った。
「……っ」
―――ごめんね
脳裏に母が現れる。
揺籃の中の子供をあやすように手を伸ばす母の表情は、今にも泣き出しそうなくらい歪んでいて、ルナは予期せず浮かんだその映像に戸惑った。
―――ママを恨んでいいから
あたたかい掌の感触、母が身につけた染み一つない綺麗な作業衣、つんとする薬品の匂い。
映像が連鎖的に五感に反応しはじめ、情景が広がっていく。
それはまるで夢の中で自分が知らない人物になったときのような感覚で、それまでなかった記憶が、さも当然のように付け加えられていた。
―――ごめんね、ルナレア……
違う、夢なのに、あれは夢なのに。
振り払おうとしてもフラッシュバックのように何度も同じ映像が挿入されて消えてくれない。
ルナはなかばパニックに襲われながら、記憶を取り除こうとするかのように頭を振った。
ざわざわとした音がまた耳の奥でしはじめ、消えていた耳鳴りがまた首をもたげる。
「ルナ?」
目の前でアイラが眉根を寄せた。マイクからの声も随分と心配そうな色をしている。
「ルナ、ちょっと、あんた大丈夫なの?」
「あ……」
耳鳴りが一気にひどくなった。
キンという鋭い音が耳を貫き、脳内に広がる。
ルナは息を乱しながら、その音から頭を守るように両手で抱え、うずくまった。
「どうしたのよ、ルナ?!」
コクーン型のベッドの中でアイラが何かを叫んでいる。驚愕に彩られたその顔が白くぼやけ、そこに重なるようにして白いカプセルが脳裏をかすめた。葬儀に使う、一点の曇りすらない真っ白なカプセル。
―――フラグメント解析の結果はどう?
―――一昨日のは駄目。昨日見つかったノイズを解析してるところだけど、今回も多分難しいって。解析が終わってもほとんどは使い物にならないようなものばかりだし
―――出てくるかわからないようなものに頼ってる時間がもうない。せめて政府がDNAサンプルをいくつかくれたら
どこかで誰かの声がする。その声に重なるようにして知らない映像が次々と浮かび上がる。
廃棄処分になった沢山の食料、防護服をつけた塔の科学者、山のようなカプセル。
―――ごめんね
言下に腕に注射装置の感覚がした。
嫌だ、それは嫌。
「やめてぇ!」
頭の中で次々と展開される、知らないはずなのに知っている情景の連続にルナは絶叫した。
「ルナ! ルナ!!」
シュンと音がしてシールドが開かれる。揺さぶりながら名前を呼ぶ幼馴染みに、ルナは耳を押さえたまま泣きそうな顔をした。
「ア…アイラ…ちゃ……」
「あんたはじっとしてて! お医者様、呼ばなきゃ」
云いながらコールボタンを押すアイラの横顔に重なるようにして、またしても声が響く。
―――アイラはもういないのよ、ルナ……
ドクンと心臓が大きく鳴った。
―――お別れを云って
心配そうに顔をしかめたアイラと重なるようにして、横たわる親友の姿が映った。
血の気のない真っ青な顔。死装束を着てカプセルに横たわっている。その周りに立ち並ぶ沢山の大人たち。
「ルナ!?」
世界が一瞬にして遠くなるのをルナは感じた。
悲しみも苦しみも全て真っ暗などこかで混ざりあい、溶けていく。
けれどその中でも耳鳴りは壊れた目覚ましのように鳴り続けた。潮騒のようにざわめく音。意識を傾けるとその音はこんなふうに聞こえた。
dasha、nava、ashtau、sapta、shat、panca、catvari、trini、dve、eka……




