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眠る朔夜のまなじりに光るものがある。
ジグラに頼まれ、心拍や血圧などの簡単な測定を行っていたシンははっとして作業をしていた手を止めると、おもむろに寝台に近付き、そこに眠る少年を覗き込んだ。
目尻に溜まった涙はつうっと流れ、頬を伝って顎門へ下り、ぽつんと零れ落ちる。
「朔夜……」
シンは零れた涙をそっと拭うと、いまだ目を覚まさないルームメイトの髪を撫でた。先日洗ったばかりなので多少の癖がある朔夜の髪はふんわりといい香りがする。
朔夜の実の叔父であるジグラによると、彼のこの不思議な色の髪は遺伝子操作によるものらしい。
どこにいても分かる目印になるようにと受精卵の段階から母親が入れたもので、朔夜とその双子の弟である望のみが持つ色なのだという。
「なあ、お前今、どこにいるんだ?」
両親の忘れ形見とも云うべき朔夜の銀髪を撫ぜ、シンはひとりごちた。
それに対する答えは勿論なく、予想していたとはいえやはり心苦しいものがあった。
シンはきゅっと唇を噛み締め、それでもひるまずに続けた。
「『ユエ』とは会えたのか? もし会えたんだったら訊いておけよ。どうしておれを狙ったのかって」
何だか昏睡状態になってあとは死を待つだけの患者に話しかけているようだ。
「そういえばさ、さっきウェーバー、カダフィ、ダウムの三人組が来たんだぞ。シアクがどうしてもって行けっていうから来たんだって、ぶつぶつ云ってたけど、あいつって人に云われたから来るなんてたまじゃないよな。お前のことが心配で来たわけじゃないって何度も云うんだぞ。誰も訊いてないのにおかしいよな。あいつ、落ち着いてるってイメージあったけど、何かああいうところ見てるとちょっとお前に似てるって気がしてくるな」
見舞い品を持ってやってきたときのウェーバーの姿を思い起こし、シンはまた微かに笑みを零した。けれども何だか独りで笑うのもむなしくて、笑顔はすぐにしぼんでしまった。
ほうっと息を吐き、シーツの上に投げ出された朔夜の手を取る。
脈拍は落ち着いているし、血色もいい。いくら点滴をしているとはいえ、もう二週間近くも眠ったままになっているとは思えないほどだ。
しかもその顔は起きているときよりも安らかに見えて、もしかすると朔夜にとっては家族を失った現実世界より夢の中のほうがいいのかもしれないとも思ってしまう。何しろ朔夜はそのときに受けた衝撃のため、今でも唯一の親戚である叔父の存在さえも思い出せないのだ。
もしかしたら、夢が深すぎて帰ってこられないのかもしれない。
シンは安らかな寝息を立てて眠る朔夜の手をそっと握り締めた。ぐにゃりと曲がった手首はまるで死んでしまったかのように重たく、力がない。それを支えるようにして両手で包み、シンは目をつむった。
「朔夜……」
目覚めたとき、朔夜は何と云うだろう。どうしてこっちに引き戻したんだと憤るかもしれない、それとも悲嘆にくれて無言になるだろうか。
なまじっか、朔夜がこの世界に帰りたがらないわけを知っているために、シンの想像はいつでもマイナス方面に傾いてしまう。
朔夜にとっての現実はこちら側ではないのかもしれないとか、起こしても再び元の場所に戻っていってしまうのではないかとか、一度想像しはじめると、スロープを下るボールのように止まらず、しかも加速度的にマイナス思考に陥っていく。
それでもシンが虚脱感に襲われることなく、諦めずにいられるのは、ヤーンスで朔夜が貸してくれたあのアルバムの存在があったからだった。
―――これ……
蚊が泣くような小さな声とともに渡されたチップ。それは朔夜が喪失した親友、サーヴァイン・ルパスクの姿がある唯一の記録だ。
生後まもなくから十歳まである、やたらと細かくて長いムービー。
朔夜はそれを自分のことが知りたいからと云って、シンに託した。
それは夢の世界という現実逃避場所があってこその行動だったのかもしれないが、彼にとって苦痛の塊であるはずのここを現実と認め、それに向き合おうとしていたのは事実だ。
朔夜は必ず帰ってくる。
自分に出来るのはそのことを信じて、彼を現実世界に呼び戻すことだけだ。
シンは両手に包み込んだ朔夜の手をきゅっと握り締めると、それを自らの額にかざすようにして、彼の名前を呼んだ。
◇
「……ママ…?」
誰かに呼ばれたような気がして目を開けたルナは、隣にいるはずの母親の姿がないことに気がついた。
部屋は暗かったが、カーテンの隙間から漏れる色はうっすらと青く、夜明けがもう間近であることを教えてくれた。
トイレにでもいったのかな。
ぼんやりとそう思い、再び枕に頬を押しつけたが、変なふうに目が冴えてしまってどうにも眠れない。
不安感なのか恐怖感なのか、よくわからないざわついた感情が体の内側をくすぐり、それによって睡魔が逃げてしまったのだ。
体はまだ寝たりないと抗議しているが、脳は完全に目が覚めてしまっていて、二度寝など到底出来そうにない。
それでもルナはしばらくシーツの中に包まってどうにか寝ようとしていたのだが、いつまで経っても帰ってこない母親が気になり、とうとう寝台から降りた。
ついたときにちょっとだけ冷たいと思った床はすぐに足の下で溶け、体温と一体になる。
「ママ?」
足の裏が床に吸いついてペタペタと音を立てた。人の存在を感じてじんわり明るくなっていく廊下が、何だかいつもより恐ろしげに感じる。
「ママ……」
トイレのランプは青になっていて、母親はいないようだった。
次に自分の部屋に行ってみるが、やはりいない。ぞくっとした感覚が体の奥から込みあげてきて、ルナはごくりと唾を飲んだ。
何だかおかしい。
得体の知れぬ恐怖感に襲われるようにして、ルナは階段を駆け下りた。
「ママ?」
そっと呼んでみるが、人の気配がないだけあってやはり返事はない。
「ママ!」
声を荒げて呼んでみたもののやはり同じで、そればかりか声を出したことで沈黙が余計に際立った。
疲れてもいないのに心拍が早くなっていく。
荒くなる呼吸が、母親がこの家にはいないということを知らせているような気がしてルナはじょじょに追い詰められていった。
「ママ!!」
その声は悲鳴に近かった。
つんとした痛みが咽喉の裏側に広がる。ルナはけほけほと咳をしたのち、じっとしているのが耐えられなくなって駆け出した。
眠る前までは人での気配であふれていたリビングを見回し、浴室を開け、再び二階にあがって母親の姿を捜す。
自動ドアが開くたびにそこに母親がいることを期待しては、じわじわと明るくなるそこに誰もいないことを知り、ショックを受けた。
「ママ!」
この家にはいない。
そうわかっているはずなのにそのことがどうしても認められない。
ルナははあはあと荒く呼気を吐き出しながら、煌々(こうこう)と明かりがともる部屋を見回した。
すっかり明るくなった部屋はガランとしていて暗いときよりも一層の孤独感を感じさせる。心臓がどくどくと鼓動を打ち鳴らし、呼吸するのも苦しくなった。
全身を使ってわざと大きく呼吸し、逃げるように家の外に飛び出す。
「アイラ……っ」
いつもは透明なはずの空気がうっすらと青く色付いている。
その青は雨の日の午後のように曇った色をしていて、それだけでいつも見ているはずの風景が違ったように見えた。朝靄なのか、ただ青いだけではなく何だか煙が棚引いているようにも見える。
ルナは普段とは異なる感覚に戸惑いを覚えながらも、早く知っている人間に会いたくて幼馴染みの家へと走った。
アイラがこんな時間から起きているとは思えないが、彼女の母親ならきっと起きてきてくれる。そうして息せき切って走ってきた自分をぽかんとした表情で見下ろし、エラなら今日は仕事が急に入ったから塔に行ってるわよ、と答えてくれる。
アイラはきっと、朝っぱらからなんだったのよと、自分が応対したわけでもないくせに色々と云ってくるだろう。けれどもそんなことはどうだっていい。今必要なのは母親がどこに行ったのかという明確な説明だけだ。今、安心出来れば学校でアイラに散々文句を云われようと構わない。
帰ってきたら沢山文句を云ってやろう。
ルナは置手紙一つ残さないで仕事に行ってしまった母親をなじりながら、友人の家の呼び鈴を鳴らした。
まだ寝ているはずの時間帯なので、すぐには出てこないだろうと二、三度続けて鳴らす。
「まだかな……」
肌寒い空気は先程まで焦りで熱くなっていた体を急速に冷やしていく。
ルナは呼気を掌に当てながら、その場で何度も足踏みし、また二回、三回と立て続けに鳴らした。
初めのうちこそまだそうして待つことが出来たが、五分六分と時間が経つごとに不安感はじょじょに膨れあがっていった。
こんなに待つはずがない。
動悸がまた激しくなっていく。体中が心臓になってしまったかのようなその圧迫感で、ルナはまた呼吸困難に陥った。
いやだ。
眠りが深いのだと、チャイムでは起きないから出てこないのだと、そう思いたいのに鼓動が収まってくれない。
ルナはじょじょに働かなくなっていく理性の中、インターホンを連打した。
一回、二回、三回、四回。
けれども家の中に明かりがともることなく、死んでしまったような沈黙だけが肌を震わせる。
痛いくらいに張った静寂。それはもう何十年も人が入ったことのないような、そんな類のもので、明かりのつかない家は廃墟のようだった。
いやだ。
「テイアおばさん、開けて!」
ルナは大声で叫びながら狂ったように扉を叩いた。
インターホンを押し、庭を回ってマジックミラーが張られた窓を覗き込む。
「起きて!」
近所迷惑だとかそんなことはもう構っていられなかった。
見知らぬ他人でも何でもこの際出てきて、うるさいと一言云って欲しい。
「アイラ! アイラ!」
咽喉が嗄れるほど叫んでも誰も出てくる様子はない。
「アイラっ!!」
文句を云って。うるさいと云って。
腕を振り下ろすたびに、その一瞬前に込めた願いが砕かれる。
腕はもう真っ赤になっていて、痛みよりも打ちつけた衝撃による麻痺でもうこれ以上動きそうになかった。
「や……」
ルナは首を振った。
こんなこと信じない。これは夢だ、夢。いつもみたいに起きて、真正面で眉をしかめるアイラの顔を見て、それからほっとしたい。
ルナはちぎれそうなくらい頭を振り、すぐ隣の民家のインターホンを同じように押した。
「誰かっ、お願い!」
張りあげた声も耳が痛くなるほどの沈黙の中に吸い込まれていく。氷のように冷たくて硬い空気。
ルナはそれを意識するたびに感電したような衝撃を受けた。
「い…や……」
これが夢なら誰か起こして。お願い。
ルナは涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭いもせずに、家から家へインターホンを押して回った。けれどもそこから誰一人として出てくることはなかった。
物音一つしない家、固く閉ざされた真っ暗な窓。かわたれ時の薄ぼんやりとした空気が孤独感を倍増する。
誰もいない。ママもアイラも、おばさんも先生も、誰も。
何かが切れたような気がした。
ルナは微かに首を振ると、何かに操られたようにのろのろと歩き出し、すぐに崩れ落ちた。
「…やだ……」
ルナは頭を抱えて絶叫した。
「いやぁ!!」




