表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Moon Child  作者: かゆき
第六章 千年の孤独
44/89

3

 『暗澹の五百年の始まりは急性伝染病、通称OZ(オズ)によるものである。OSVに寄生されたイネ科植物の胚を食することで感染するこの病は、平均致死率七十七パーセントを誇り、若年層と老齢層ではその割合は八十五パーセントにも跳ねあがる。初めの発見から一月も経たないうちに総人口の約二割の命を奪ったこの病気は、当時の政府に地球からの離脱を決断させ、暗澹の五百年を到来させた』



 授業で習った暗澹の五百年についての文面が頭の中でつづられては消えていく。シンは端末のスクリーンをスライドさせながら、溜息混じりに画面を見つめた。



 『地球から離脱した人々は、観光地として建設されたばかりのサテライトの他、月と火星に分かれて住むこととなった。その後それぞれの地域で病が発生し、月の住民は絶滅。火星に住んでいた者は星を捨て、木星軌道以外の衛星に移っていった。これが現在の衛星連合の始まりであり、土星人(サタンレイス)と呼ばれる民族の起こりである。今現在火星人(マーズレイス)という名称で呼ばれているのは、現土星人(サタンレイス)が創造した生体マシンで厳密に云うところの人ではない。三つの移住先でそれぞれ流行った病は月のものだけは別種だが、コロニーと火星のものはどちらもOSVが進化したものである。その中でもコロニーで猛威を振るった感染症は多くの人々の命を奪った。閉塞空間だったことが、その原因だと云われている。この病で全住民の約六割以上が死亡した。アースグループの創設者であるアルデラート・ライザーはこのとき――』



 パチンと電源を落とし、シンは大きく息を吐いた。


 どんなに調べてもこの基本的な情報以上に詳しいのは医学的な方面だけで、今知りたいことではない。しかも火星で流行したOSVの変異型がどのようなもので、それが何故火星人(マーズレイス)には発症しなかったのかについては言及されていなかった。地球にとって大事なのは火星人(マーズレイス)が同胞を殺したということであり、それまでの経緯はあまり関係ないらしいのだ。


 土星人(サタンレイス)たちが星を捨て、衛星連合を築かなければならなくなった理由など、取るに足らない出来事とばかりに取りあげられていない。


 暗澹初期に火星からの緊急通信が入ったという公式記録以降のデータがほとんどないのも、地上で調べていたときと同じだ。



「ここに来れば、もっと詳しく分かると思ったのにな……」



 深呼吸でもするように深々と溜息をつき、シンは両手で顔を覆った。



「アルカにも会えないし、帰った方がいいのかな……」



 出て行くときに追っ手がかからなかったのも、ナーサリー最終試験中に圧力がかからなかったのも、このことを予測していたのかもしれない。


 シンは仕事に忙殺されて会うこともほとんどない父親と、珍しく何も云ってこない甥の姿を順次思い浮かべた。


 そもそも父親が口うるさいのも、外に出ることにすらいい顔をしないのも、全ては自分が火星人(マーズレイス)であるが故だ。

 自分の息子がこの世から抹消された存在である火星人(マーズレイス)の血を引いているということが、世間に暴露されるのが怖いのだ。確かに火星の存在は地球にとって害悪に等しいし、地球人(テラリアン)は幼いころからの偏見に満ちた教育で、知りもしない火星人(マーズレイス)のことを恨んでいる。


 影の支配者とまで云われているアースグループ総帥の息子が、存在しないはずの火星人(マーズレイス)の女を妻にしたことがばれればどうなるかということくらい想像するにたやすいことだ。たった十四年しか生きていない自分にも分かることなのだから、父親が知らぬはずはない。リスクは承知だったはずだ。それなのにどうしてばれることを怖れるのだろうか。外に出すことすら躊躇してしまうほど怖いのだったら、最初から子供など作らなければよかったのだ。



 そのときインターホンが鳴った。



「はい」



『医局精神科のアスラリエ・ファサーン・ジグラだ。君か? 私にサクヤ・キサラギを看るよう伝言を残したのは』



 かなり低音な声が端末から聞こえる。聞きづらくさえあるその声に、シンはあわててドアを開けた。



「免礼」



 反射的に敬礼をするシンに、ジグラは呟くように告げると、その脇を通り抜けて朔夜のコンパートメントに入った。


 寝台に横たわる朔夜は先程と同じく死んだように眠り続けている。


 ジグラは微かに顔を曇らせると、朔夜の枕元まで歩いていき、携帯用の機材を取り出して調べはじめた。



「いつから、この状態だ」



「八日前です」



「そうか……」



 振り返りもせずに答え、ジグラはそのまま検査を続けた。



「倒れる前、何か異変は?」



「特にありません」



 端末を装着した腕を朔夜の体の上でかざし、ジグラは顔をあげた。



「確かに異常はないみたいだな。念のため検査だけはするが」



「このまま目を覚まさなかったら……」



「あの薬の効力は持って一日だ。二日も寝ているんだったら、もうすぐ目が覚める」



「良かった……」



 ほっと胸をなでおろす。



「ところで何故君はわざわざ私を呼んだ」



「え?」



「明日になればルオウ少尉が総合内科の軍医を呼んだだろう。なぜそれを待たなかった?」



 ジグラは云いながら鞄から機材を取り出して組み立てていった。


 シンはその様子を眺めながら、意を決して口を開いた。



「――あなたが朔夜の実の叔父だからです、ジグラ軍医」



 ジグラは振り返りもしなかった。先程と同じスピードで機材を組み立てながら、そうか、と小さくつぶやいただけだった。




 ◇




 すうっと息を吸い、おもむろに目を開けた朔夜の視界に飛び込んできたのは先程と変わらぬ光景だった。


 青い空気と黒い空。目の前に広がる道路もその周りに集まる民家も皆、空気を含んだように青くて、そこには黄色や赤といった暖色系の色が入る余地はない。


 肌をかすめる風は氷の粒が混じったかのように冷たくて、朔夜はもうずっとここにいるというのに今さらながらに身をすくませた。


 脳の神経までも焼切ってしまいそうなほどの沈黙。空気は思わず叫びだしたくなるくらいに張り詰めていて、ゆえを捜すという目的がなければ一分一秒たりともいたくない場所だった。

 少女の名を呼びすぎたせいで()れた咽喉(のど)は焼けた鉄がつかえたようで、とんでもない痛みを発している。


 朔夜は咽喉(のど)元を押さえ、薄っぺらな紙のようになった頬を爪で掻いた。乾燥し切った肌は思いのほか痛む。


 朔夜は顔をしかめると、深呼吸をしてから何かを追い出すようにぎゅっと目をつむった。



 残るはあそこしかない。



 朔夜は恐る恐る振り向いた。


 朔夜の後方には前方と同じく道路が続いていて、その最奥にはこの街のシンボルとも云うべき存在である塔があった。

 ひたすら真っ直ぐに伸びた道は何か巨大な力に吸引されるようにその塔へと集まり、一つの大きな点になっている。きつい圧迫感を放出するそこに、朔夜はこれまで近寄ったことがなかった。



―――あそこは駄目



 まだ出会ったばかりのころ、あの建物は何、と訊いた朔夜に対し、ゆえはそう云った。

 そのときの表情があまりにも悲痛で必死だったので、朔夜はそれ以後塔の話題を持ち出すことを避けていた。


 彼女が側にいたころから塔は空恐ろしい雰囲気を醸し出していたし、誤って近寄ったときの圧迫感はまるで針の雨にさらされたようだった。



 街の中心部は朔夜としても極力避けたい場所だったが、調べていない場所がそれ以外残っていない以上、そこに望みを託すしかない。


 朔夜はしばらくうつむいていたが、ついに決意を固めた。

 唇を噛み、前方を見据えて地面を蹴る。



―――行かないで



 その言葉を聞いたのは夏季休暇のあたりだっただろうか。ゆえがいなくなる夢を見たあとのことだ。



―――あそこは怖いから、だから行かないで。



 ゆえの様子はあの塔に関するときだけ少し変だった。けれども彼女の云う通り、塔は確かに異様な雰囲気を放っていたし、正直云って近寄りたくもなかったから、それ以上訊こうとは思わなかった。



―――お願い……



 ゆえとの約束を破るのは気が引けたが、いないからといって引き下がれるほど諦めが早いわけではない。

 捜している相手はなんといってもそのゆえなのだ。家族を亡くしてひとりきりになった朔夜を励まし、生きる希望を与えてくれた少女。

 朔夜にとって彼女は家族にも等しい存在だったから、その喪失は何よりもこたえた。彼女なしには普通に生活していくことも難しい。

 朔夜にとっては学業などよりもよほど優先すべき出来事だった。


 朔夜は民家の屋根を一蹴りした。


 体がふわりと中空に浮き、ゆるやかに地面から遠ざかっていく。全身を包むぼんやりとした不確かな感覚。それは海の中を泳いでいるときに似ている。青が体中に染みわたり、全ての感覚が海に溶解したような奇妙な一体感。


 けれどもそんな感覚を楽しんでいられたのはごくわずかなときだけだった。やがて民家の連なる様子が足の下に見えてきたころになると、全身を包んだのは息が出来ぬほどの酷い圧迫感だった。


 息苦しさとそこから来る吐き気で朔夜はたちまちくじけそうになったが、ここで頓挫してしまっては何のためにこんなに捜していたのか分からない。


 少しでも内部を覗いて、それでいなかったら諦めればいい。


 そう自身に云い聞かせ、朔夜は先を進んだ。



 しかしいざ塔を目の前にすると、内部に入るという気さえ萎えてしまって、早くこの場から立ち去りたい、そんな気持ちだけが脳内を支配した。圧迫感と不安感が交錯する表現しがたいくらいの威圧感。立っていることすらままならないそこで、朔夜は突如として訪れた違和感に胸を押さえて座り込んだ。



 発作だ。



 そう思ったときにはすでに遅かった。

 体の内部から噴き出してきた衝撃が咳を誘発し、またたく間に呼吸困難におちいる。


 朔夜は体を二つに折り曲げて吐くように咳をし、すこしでも多く酸素を得るためにがむしゃらに呼吸を繰り返した。声の出しすぎで()れていた咽喉(のど)はその咳と呼吸でさらにざらつきを増し、まるで傷口にやすりをかけたような痛みを発していた。


 痛みと苦しさで呻く朔夜を、発作は容赦なく襲う。一度の咳で訪れる心臓の痛みは切っ先鋭いナイフが何度も突いたようだ。その上に紐で縛りあげたようなきりきりとした痛みが重なる。


 朔夜はいつもの通りに服の隠しを漁ろうと咳と咳の合間を見計らって手を伸ばし、そこにそれが存在しないことに気がついた。



 まずい。



 体内温度が一気に十度は下がった気がした。

 隠しもなければ勿論そこに入れているはずのピルケースもない。一気にパニック状態に陥り、朔夜は藁をもつかむ思いで塔に駆け寄った。


 中に入ったからといってどうにかなるわけでもないが、ただ単にじっとしていられなかったのだ。


 開くのか開かないのかも分からないほどぴったりと閉じられた扉に縋りつくようにして駆け寄り、反動で浮いた体のまま、こぶしを振りあげる。けれどもその手が扉に触れることはなかった。


 打ちつける瞬間に言語とも判別しがたい声が、脳髄を深くえぐり、続けてものすごい音が響きわたったのだ。


 一瞬鼓膜が破れたのかと思ったほどの音量。


 脳内を殴りつけるその音は弦が切れそうなくらいに弾いたヴァイオリンの音にそっくりで、聴きようによっては人の悲鳴のようにも聞こえた。


 耳の奥でぐわんぐわんと響くそれのせいで、最早耳は他の音を全く受けつけない。

 脳内一杯に響く音は視覚すら危うくし、時折稲妻が走るように目の前がスパークした。



―――……ます…か……



 音が大き過ぎたせいか、耳が少々おかしくなったようだ。

 それまで悲鳴のような音しかとらえなかったはずの聴覚が別の音を捕捉した。それは受信状態が極めて悪い放送のような音で、話し声なのかそれとも聴覚異常なのかよくわからない。わかるのはそれが自分の発した声ではないということだけだ。



―――ち…は……い……じょ……ます……



 朔夜は耳に手を押しつけたまま、その場に崩れ落ちた。


 雪が降るようにしんしんと音が落ちてくる。重さと痛みをともなった見えない雪片。体の奥から光があふれ、それもまた音に変わった。



―――…め…んね……



 キンキンと音を立てて頭痛を触発させる泣き声の向こうで音が聞こえる。暴風が吹き荒れる嵐の海のような激しいざわめき。

 けれども聴こうと耳をそばだてる、そのすぐ側から張りつめた音がそれを打ち消してしまって、結局は何も聞こえなかった。その間にも音はじょじょに凄みを増していき、音だけで脳が破裂してしまいそうなほど激しくなった。


 極限まで高まった音はまるで鋭い針のようで、圧縮された先端が耳を貫く。そしてどこかで何かが壊れるような音がした。


 鼓膜が破れた。


 そう思った瞬間、言葉では表せない激痛が全身を駆け巡り、朔夜はその痛みに思わず叫び声をあげた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ