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Moon Child  作者: かゆき
第五章 夢から醒めた夢
41/89

7

 不安に駆られて走っていった先のナーサリーの寮塔は、ちょっとした騒ぎになっていた。エレベーターが動かなかったからだ。

 動力部のどこかを破損したらしく、自己修復機能も利かないようだ。現在修理の只中にあるらしく、先程朔夜が桜の木に頭を打ちつけた最中に通った生徒もエントランスで足止めを食らっていた。息を切らせてやってきた朔夜を見て、隣の友人に何事かを囁いている。


 朔夜は急いで辺りを見回すと、耐えかねたように歩き始めた集団に混じって非常階段の方へ向かった。


 寮塔の非常階段はその構造上一階分を上がるにも時間がかかる。

 朔夜とともに非常階段になだれ込んだ一群は口々に信じられないなどと文句を云いながら、溜息混じりに階段をあがった。

 女子生徒の割合が多い集団に入ってしまったせいか、随分とやかましい。


 揃いの黒制服に身を包みながらのぼっていく彼女らの脇を通り抜け、朔夜は階段を駆けあがった。



 早く、早く行かないと。



 早くしないとどうなるのか朔夜にもよくわからなかったが、とにかく急がなければならないような気がした。

 緩やかな螺旋階段を一段から二段抜かしで駆けあがりながら、朔夜はひたすら上を目指した。


 一階、二階、三階。


 どこまで行っても階段は続く。同じような景色に同じような階段。それはまるで悪夢を見ているかのようだった。

 早朝特訓で鍛えているとはいえ、十五階の表示が見えるころには朔夜の息はかなりあがっていた。去来する不安が疲労に拍車をかける。


 実際朔夜は自分が階段をあがっている理由が分からなかった。分かっているのは自分が目指すその先にシンがいるということだけだ。


 どうしてシンがそこにいるのか、そしてどうしてそこにいるということを知っているのか、何故ここまで急がなければならないのか、分からないことだらけだったが、本能のままに朔夜は走り続けた。



 そこまで行っていなかったら最悪だな。



 朔夜は自嘲しようとしたが、疲労の募る体でそれは出来なかった。


 汗が全身から吹き出しているのが分かる。脇腹も鈍い痛みを発し始め、幾度となく足を止めたい衝動に駆られた。その度にあと一階あがったら休もうと考えていたのだが、早くしなければという思いが背中を押した。



 どうしてあいつのために走っているのだろう。



 最初は思っていたそれも今では疲労のため、考えられなくなっていた。息はとうの昔に切れていて、口と鼻の呼吸だけでは追いつかなくなっている。走っているはずなのに足の感覚がないほどの疲労感。酸素不足のためか視界は霞み、一面が白くぼやけ始めた。


 ああ、もう駄目かもしてない。


 そう思い始めた朔夜の脳裏にあの日の光景が浮かびあがった。



―――メール、出すから



 ちらちらと雪が降っている。それは水鳥の羽のように柔らかな牡丹雪だ。綿飴のようにふわふわとした雪は何かに触れただけでたやすく溶けてしまい、あとには残らない。空は重く垂れ込めた雲に覆われていて、時折その合間から覗く光で、雪は宝石のように輝いた。



―――絶対出すから



 ほとんどが水に還ってしまう雪だったが、それでも早朝から降り続けた賜物か、庭の植物にはわずかながらも積もっていた。白い綿帽子を被り、静かに鎮座する椿は今年も綺麗な真紅の花を咲かせ、寒さの中でキンとした(いろどり)を発している。



―――僕は……



 雲間から覗いた光がコートの上に撥ねた雪消(ゆきげ)の雫を照らす。水晶のようにきらきら光る露。よそ行きなのだということが一目で分かるコートの表面は雪の結晶が多数付着していたが、少年はそれを気にも留めていなかった。愁いを帯びた緑色の目をうつむけて、何事かを云おうするかのように口元を歪め、そののちにきつく唇を噛む。


 やがて青白かった頬が外気に晒されて赤みを帯びてきた頃、不意に手をつかまれた。氷のように冷たい手だ。


 はっとして顔をあげると、少年の端整な双眸は潤んでいた。



―――朔夜のこと、忘れないから



 エメラルドの目はじょじょに黄みを帯びていき、いつの間にかシンのそれと重なっていた。金色の瞳が優しく微笑む。



―――大丈夫



 考えることが出来ないほど凍りついていた心のうちに暖かな空気が流れる。



―――大丈夫だ



 泣きたくなるほど優しい声。真っ黒く染まっていた内側に光があふれ、全身を覆い隠したそれによって再び視界がくらむ。


 やがて現れた映像はやはり雪だった。


 目も眩むほど白い雪原の上で淡青(みず)色のコートを着た少年がくるくると回っている。金色の髪が棚引き、白い粉雪がパッと散った。天井から注ぐ陽光が世界をまばゆくくきらめかせる。



―――朔夜のこと、知りたいんだ



 琥珀色の目が輝く。猫の目のような大きな瞳。息が触れ合うくらい間近なそれに心臓が跳ねあがった。



―――今おれが朔夜に関わりたいと思っているのは、お前のことが好きなせいだ



 言下に閃光が目を貫いた。

 その一瞬のちに灰色に覆われた空間がじわじわと見え始め、失くしていた感覚が戻ってきた。


 心臓が押しつぶされそうなほどの圧迫感と今すぐ倒れてもおかしくないくらいの疲労感。


 足は紙のようになってしまっていて、走っているのかどうかさえも定かでない。

 視界には意識が遠のく前と同じ薄墨色の壁とどこまでも続く螺旋階段があった。



 ああ、そうだ。



 朔夜は自分がシンを探すために非常階段をのぼっていたことを思い出した。


 どうやら気絶しそうになっていたらしい。それでも着実に上に向かっているということに驚きを禁じえなかったが、それを実感として感じることも出来ないほど朔夜は疲れていた。


 いつの間にか十八階を通り過ぎ、次は十八階に達しようとしている。

 それでも足は止まらず、そればかりか強く屋上を意識し始めていた。

 何故屋上なんだという疑問も湧き起こらないほどの強い念が内で揺らめいている。



 あいつは屋上にいる。



 朔夜は十九階と記された非常扉の前を通り過ぎ、二十階を目指した。目的地の屋上まではまだ先だ。極度の疲労のために地についているという感覚すら覚束無い足を懸命に動かし、緩い階段をあがっていく。


 疲労はピークに達していた。安定をとることすらままならず、時折ふらつく。

 今にも折れそうな膝を庇うように壁に手を当てると、朔夜はその上を滑らせながらキッと上を睨んだ。


 二十一階。


 どこまで行っても螺旋は終わらない。カーブの向こうに見える階段は尽きることを知らず、朔夜の前に立ちはだかり続ける。


 二十二階。


 脳裏にはシンの姿があった。朔夜の声に応えるようにこちらを振り向き、怒ったようにまなじりをつりあげる。



―――ライザーって呼ぶのをやめろ。その呼び方、一族全体を指しているようで嫌なんだ



 何て呼べばいいんだよ



 脳裏に浮かぶ不服そうなシンに対し、記憶の中の自分はそう答えた。


 思い出の中のシンは瞠目したあとににっと笑うと、そのままこぶしを突きあげる。



―――無論……



 その後の台詞はわざわざ思い出さなくても分かる。朔夜は全身の力を込めて最後の階を駆けあがり、自動扉が開くと同時に叫んだ。



「シン!!」



 群青に染まった空間が視界一杯に広がる。


 蓋をしたように青い空と、墨色の空気。黒色の雲が滑るように移動し、空の様相は著しく変わる。氷が混じっているかのように冷たい風。けれどもそれらを認識する前に朔夜の視界は真っ黒に染まった。視覚が奪われたと同時に訪れる突然の脱力感。


 膝がガクンと沈み、朔夜はその場に崩れ落ちた。



「…あ……?」



 何がなんだか分からないうちに朔夜は倒れていた。

 従来なら反射的に出していただろう手も、脳があることを忘れてしまったかのように出てこない。幸いだったのは腕が体の下敷きになったということで、それによって頭にダメージがいくのを免れた。



「朔夜!!」



 悲鳴のような声が聞こえる。あれは誰の声だろうか。

 朔夜は全身で呼吸をしながら遠くの方でそう思った。


 脳に(もや)のようなものがかかっていて上手く考えられない。どこにいるのかも自分が誰なのかも、それこそ何の目的でここに来たのかも、脳にとってそれはさほど重要なことではないらしく、思考することを止めてただ貪欲に酸素のみを欲しがった。


 全身はひきつるほど熱く痛みを発していて、皮膚に触れる冷風さえも温度を感じることは出来ない。青い空間の中で蒸気のように(けぶ)る息を見ながら朔夜は呼吸し続けた。



「朔夜!」



 ふと気がつくと、シンがこちらを覗き込んでいた。金色の髪がやや強めの風に煽られてばたばたと揺れ、シンは何度も髪を後ろにやった。


 無事だったのか。


 一瞬意識を失っていたようだ。先程よりは考えられるようになった脳でぼんやりと思いながら、朔夜は胸を大きく上下させた。


 口から出る息はやはり白く、シンの姿をかなりの頻度で覆い隠す。


 そうして数秒が経過した頃、思い出したように脳裏に刻まれた言葉に朔夜は瞠目した。



―――どうして……



 それは何を忘れてしまっても決して記憶からなくなることのない声だった。


 朔夜は眉根を寄せ、次の瞬間ほとんど反射的に体を起こしていた。

 全身は水に濡れたように重く、力も普段のようには入れられない。


 しかし今の朔夜にはそんなことは関係なかった。


 紺色に染まった視界に佇む少女を呆然と見る。



「ゆ…え……?」



 少女は数メートル離れた屋上の縁からこちらをじっと見つめていた。


 彼女が立っているそこは他の場所よりも一段高くなっていて、上部だけが(かぎ)針のように内側を向いている。不安定なその場所に裸足で立つ少女の顔は、これ以上ないくらいの悲痛に彩られている。


 風が唸り、木がざわめいた。

 腰をすっかり覆うほどに長い髪が、大風に煽られて大きく流れる。


 少女の体を包む皮膜のように薄い燐光が千切れ、粉雪のように散っては溶解した。花びらのような形状のワンピースの裾がひらひらとひるがえり、中空を舞う蝶のように踊っている。全てが夢の中の風景と同じ。

 違うことといえば少女の姿だった。


 夢の中での少女の年齢は朔夜がそうであったように十歳前後であったにもかかわらず、今はまるでこの世界に合わせているかのように成長している。



「ゆえ」



 疲労のため血が吹き出そうなほど熱くなった体を叱咤して、朔夜はゆえに近寄った。



「朔夜……」



 戸惑ったように静止する声が後ろから聞こえる。

 朔夜はそれを耳に入れながらも足を止めようとは思わなかった。


 心臓が太鼓の音のようにバクバクと鳴っている。



 ゆえはこの上なく悲壮な青い目でじっと朔夜を見つめていた。


 真珠色の光がはらはらとこぼれ、闇に溶けていく。


 辺りは暗く、距離もあるというのにどうしてだか朔夜にはその表情が手に取るように分かった。



「ゆえ……」



 脇腹の痛みをこらえながら朔夜はよろよろと歩み寄った。


 膝が笑っていて時折ガクンと体が沈みそうになる。

 シンは側に寄って手を差し伸べようとしたが、朔夜はそれを払いのけた。


 瀕死の人間のようによたよたと右に左に揺れながら、ゆっくりと歩く。

 ゆえはそんな朔夜を黙って見ていた。


 (あおぐろ)い墨のような闇の中で、少女を包む白い燐光がぼおっと浮かんでいる。

 全てが青い空間の中で唯一異なる色を持つ少女。


 それは夢の続きのような光景だったが、朔夜は何故か酷い違和感を覚えた。



「ゆえ……?」



 少女は悲しみに満ちた表情のまま、ゆるくかぶりを振った。白い光が散り、それに連動するように少女の体も薄くなっていく。



「ゆえ!」



 違和感に気がつき、朔夜は駆け寄ろうとした。

 しかし疲労の募った体はそれを許してくれない。数歩も行かぬうちに足がもつれ、無様にも転倒した。



―――朔夜



 そんな彼を見て、ゆえはもう来なくてもいいというように青い目を細めた。あまりにも優しすぎて逆に悲しくなるほどの微笑。


 燐光はその間にもゆるゆると中空に溶けていった。胴体の内側はもうほとんど見えなくなっていて、後方の青がうっすらと透けて見える。



 駄目だ。まだ駄目だ。



 駆け寄ってきたシンの手を再度振り払い、朔夜は這いずるようにして進みながらがむしゃらに腕を伸ばした。

 それは第三者からすればさぞかし滑稽な光景だったに違いないが、朔夜には体勢に構っていられる余裕はなかった。

 心臓が皮膚から突出しそうな勢いで激しく波立っている。


 朔夜は何度か立とうとしてその度に失敗しながら、合間を詰め、消えゆく少女に手を伸ばした。



―――朔夜



 頭の中にゆえの声が響く。


 ゆえの顔は今にも泣き出しそうなほど歪んでいた。悲痛としか云いようのない表情。その顔は大切だったからこそ忘れてしまっていた少年が見せた最後の表情に似ていて、朔夜は軽いフラッシュバックに襲われた。



―――メール、出すから



 脳裏にサーヴァインの弱々しい笑みがあふれる。



―――絶対出すから



 最後に見たのはごめんと謝りながら躊躇ったふうに(きびす)を返したサーヴァインの小さな背中だった。

 つらさのあまりに行けなかった見送り。咽喉元まででかかった言葉も飲み込んでただひたすらに耐えていた。



 もうあんな思いはしたくない。後悔はあのときだけで充分だ。



「待……っ」



 けれどもそんなふうにして伸ばした手をゆえが取ることはなかった。


 朔夜の目の前で(もや)は急激にその濃さを増し、ゆえの全てを覆い隠した。



―――見つけて……



 頭の中にしみこむような声を残し、靄は消えた。


 光の粒が夜陰に散り、石英のごとききらめきを発しながら闇へと還っていく。紺色の大気の中できらきらと輝く真珠の欠片。それは少女が残した最後の光のように思えた。



「あ……」



 朔夜は瞠目したまま、一歩も動けずに止まっていた。


 伸ばした手の向こうには先程まで少女が立っていた、今は誰もいない縁が見えた。凍るように冷たい風が指の合間を吹き抜けていく。



「あっ…あ…あ……」



 痙攣するようにがくがくと震える朔夜の耳にあの音が挿入された。


 音でありながら音ではなく、目で見た文字のように頭に浮かぶ不思議な音。


 それはいつも夢から覚める間際に聴こえる音だった。




 dasha、nava、ashtau、sapta、shat、panca、catvari、trini、dve……eka――




―――あと、一人……


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