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Moon Child  作者: かゆき
第五章 夢から醒めた夢
40/89

6

 芝生の上から顔を起こしたとき、辺りはすっかり青一色だった。

 空はまだ先程と同じような色をしているのに草地はすっかり濃緑に染まっていて、黒ずんでさえいる。さわさわと頬を撫ぜる暗風は思わず首をすくめるほど冷たくて、氷の粒が混じっているのではないかと思うほどだった。このままここにじっとしていれば間違いなく凍死だろう。

 朔夜は体を起こすと、一抹の期待を寄せて待ち合わせ場所だったあずまやに目をやった。しかしそこには思った通りとはいえシンの姿はない。


 やはり戻ったのだ。


 そう思うと先程のように途方もない憤りが胸の内を支配した。



「裏切り者……」



 シンの名のない履歴を見た瞬間に脳裏に浮かんだ一言をつぶやき、朔夜はとぼとぼと歩き始めた。



「何で裏切り者なんだ?」



 自分が自分でわからない。わかるのは自分の感情があまりにも激しすぎるということだけだ。理性さえ吹き飛んでしまうような強い情動。自分が自分でなくなるその瞬間が朔夜は吐き気がするくらい嫌だった。暴力的な感情が胸中に渦巻き、体が勝手に動き始める。

 どうやったらこの感情が抑えられるのかと考えたことはあったが、今以て答えは出ていない。



「嘘つき……」



 朔夜は大きく息を吐き出すようにして呟いた。


 何が嘘つきなのかよく分からない。


 裏切り者と嘘つき。


 朔夜は一瞬そう思う理由について理解しかけた気がしたのだが、叫んだことで解消されてしまったようでその内容はよく思い出せなかった。こういうことは昔からよくあることだったからあまり気にしていないが、自分で自分の感情が理解出来ないというのはすこし嫌だった。分かればまだ対処法もあるだろうに、どうすることも出来ない。



「あ……」



 寮への道のりをとぼとぼと歩いていた朔夜は、道からすこし外れたところに人影があるのを認めて、声をあげた。

 朔夜が歩いている道は発光剤が含まれているため、いつの間にか物の判別がしにくくなるくらいに暗くなった視界でも容易に歩くことが出来る。しかしその人影がいる場所は道から外れていたために、すっかり暗がりに溶け込んでいた。気がついたのは本当に偶然だった。


 何でこんなところに人が寝ているんだと眉根を寄せて覗いた朔夜は、その人影の顔を見てもう一度息を呑んだ。


 藍色に染まった闇の中で寝転がる少年はあのウェーバーだった。


 ルオウとシアクが名前を連呼していたので顔も名前もはっきりと覚えている。

 あれほど侮辱されたにもかかわらず、怒りや憎しみといった負の感情どころか何も感じなかった。


 けれど何か云われたり絡まれたりしては面倒だという思いはあったため、この場は早めに去ろうと朔夜は見なかったふりをして(きびす)を返した。



「お前……」



 振り返るとそこには体を起こしたウェーバーの姿があった。


 青い靄に覆われてよく見えなかったが、表情は多分曇っているだろうことは推測出来た。そのまま立ち去ってしまえばよかったのだが、何となく出来なくてその場に立ちつくす。ピリピリとした空気が流れている。


 立ち去る隙を失ったとはいえ、朔夜は一刻も早くこの空間から抜け出したかった。


 そわそわと辺りを見回し、意を決したように足を踏み出す。



「――ライザーなら寮の方へ歩いていった」



 歩き始めた朔夜の背にウェーバーの声が突き刺さる。

 

 朔夜は彼の言葉に驚いて振り返った。



「捜してんだろ?」



 大気はますます青みを帯びていく。空はすでに真っ青で、空気も藍というよりは紺といった方が近くなっていた。発光しているような空の青さが目に染みる。



「様子が変だったぞ。早く行けよ」



 予想外の台詞に朔夜が戸惑っていると、ウェーバーは(あおぐろ)い闇の中でもわかるくらい大げさに手を振った。



「俺はお前が嫌いなんだよ。そのツラも見たくない。とっとと行けよ」



 しつこい蚊か何かを追い払うような仕草でウェーバーは邪険に手を振るう。吐き出すような物云いはやはりあのときのウェーバーと同じだったが、何となく違うふうな気がした。


 朔夜は眉間に皺を寄せて、暗闇の中にいるウェーバーを凝視すると、すこし躊躇ってから声を出した。



「ありがとう」



 言下に空気が固くなった。


 朔夜はその変化を敏感に感じ取り、やはり云わなければよかったと後悔した。



「おい!」



 脱兎のごとく駆け出した朔夜の後ろで怒鳴るような声が聞こえて、またしても立ち止まった。


 振り返るとウェーバーは道の上に立っていた。


 白い光が黒で身を固めた少年の足元に(こご)り、ドライアイスの煙のように揺らいでいる。


 寝転がっていたにもかかわらずわざわざ立ち上がってきたことに、すこし警戒しながら顔を曇らせると、ウェーバーはわずかに云い淀んだのち、疲れたように嘆息して再び手を振った。



「……いや、なんでもない。さっさと行けよ」



 朔夜は無言でウェーバーを見つめたあと、さっと身をひるがえし寮へと走っていった。



「アル! ここにいたんだ、良かった!」



 途中ウェーバーを探しに来たらしい二人組とすれ違った。



 ◇



 風が吹いている。

 吐く息は白く、黒雲のただよう群青色の空を一瞬だけ覆い隠す。


 一定以上と以下の温度しか感知出来ないシンに、零度をわずかに下回るくらいの気温は感じられないはずだったが、それでも震えがおさまらなかった。


 指先はぶるぶると震え、目線は定まらない。鼓動だけが太鼓の音のように高々と鳴り響き、シンにはそれが死へのカウントダウンのように聞こえた。


 (あおぐろ)い視界の中には真っ白な光に包まれた少女が一人立っていて、シンの方をじっと見つめている。


 静謐な色を湛えたその青い目は見ている方つらくなるくらいの悲しみを秘めていて、それに見つめられるとまるで引き寄せられでもするかのように足が勝手に動き出した。


 じりじりとすこしずつ、しかし確実に少女との間合いをつめていく足をシンは必死で止めようとした。

 はるか下方の地上では木々が不穏なほどざわめいていて、天では流れるような速さで雲が移動している。

 シンの鼓動は少女の元へ一歩一歩近付くごとに大きく速くなっていった。



 こんなところで死にたくない。まだ目的を果たしていない。死ぬのは嫌だ。



 そう思っても足は云うことを聞いてくれない。

 シンはじょじょに近付いてくる屋上の縁を視界に置くと、ぎゅっと目を閉じた。


 父や甥、映像でしか見たことのない母、世話をしてもらっているクライン一家、ナーサリーの友人たち――十四年の人生で出会った数少ない人々が次々と浮かんでは消える。


 走馬灯を見るにはまだ早い。あきらめるな。


 シンは窮地から脱する方法を必死に考えた。

 能力はすでに使おうと試みたが体に力が入らず、全く発動しない。



 最後の賭けだ。これに負ければ死ぬ。



 シンは目の前の少女を睨むように見据え、頭の中にひとりの少年を思い描いた。



 朔夜



 自由の利かない体のまま込められる全てを使い、心の中で叫んだ。



 朔夜!!



 ◇



 朔夜はそのとき、寮に向かいながらウェーバーが語ったシンの様子について考えていた。

 辺りはすっかり暗くなり、森は漆黒に染まっている。丘も木々も全てが黒いせいか、空の青さが際立って見えた。まるで発光でもしているかのような冴え冴えとした青。


 朔夜はあまりにも青いその空の色に寒気にも似た感情を覚えた。ぶるりと体を震わせる。


 そのときだった。鈍い衝撃が走った。


 何か巨大で重いものに頭を殴られたような激しい衝撃。


 気付くと朔夜は倒れていた。自分に何が起きたのかわからず、混乱しながら後頭部をさする。



 何だ?



 微塵も状況が理解できないまま、朔夜はすぐ側にあった桜の大木に手をついて起き上がった。

 辺りを見回し、空を見上げる。瞬間朔夜は全身を緊張させた。


 澄み渡る深海のような青い空。その上を通る不吉な黒雲。それら目に見える光景に重なるようにして別の景色が恐ろしいスピードで朔夜の頭の中に入り込んでくる。


 巨大な宇宙船、景色の異なる場所にあるいくつもの塔、機械の体を持つ虫たち、地球をまるごと包み込むような閃光。


 それは見たことのない景色ばかりだった。何を意味しているのか朔夜には分からなかったが、情報量が限界点を超えたのだけは分かった。


 音が急激に高まり、それと同時につんざくような痛みが頭部に走る。一瞬のちに膨張したそれは白い閃光とともに音を立てて壊れ、はじけた光が脳内全土に冷たい痛みを広げた。


 痛みは光の拡散とともにじょじょにやわらいでいき、視界もそれにともなってすこしずつ黄みがかっていく。


 それは不思議な感覚だった。とろけるような淡い光の中で体の感覚も頭の痛みも全てが混ぜあって溶けていく。



 ―――……や



 ビーズのような泡がぱちぱちとはじけた。炭酸水のような気泡。それはどこからともなく現れては空間を満たした。



 ―――…さくや



 光がまたはじける。


 朔夜は水の中にいるようなそんな感覚の中で声を聞いた。




 朔夜



 はっきりと聞こえた声にはっとして振りあおぐと、そこには怒ったような顔をした母親がいた。


 けたたましいくらいの蝉の鳴き声が聞こえて、驚きに目を見開く。母親は何でぼんやりしてるの、と目線で叱責し、仮面を変えるような素早さで今度は笑顔になった。



 お隣に越してらしたルパスクさんですって、挨拶なさい



 うながされるように云われて前を見ると、知らない女性と子供がいた。


 知らない人というのが何だか怖くて母親の影に隠れると、女性はすこし困ったような顔をしたあとに優しげに微笑んだ。

 頬を掠める艶やかなブルネットを首筋から掻きあげるようにして指ですくう。折れそうなほどの細指には桜貝のような色をした爪がつやつやと光っていた。

 温かな雰囲気にすこしだけ安心してうつむけていた顔をあげると、その女性の隣にいた子供と目が合った。

 女性に似た端麗な顔立ちと洗練された服装。

 急に自分の恰好が気になり始め、居辛くなって更に母の影に隠れる。


 シャワシャワと蝉が鳴いている。石畳が魚の鱗のようにピカピカと光り、その反射だけで汗が出そうだった。


 眩しさといたたまれなさで目線を落とす朔夜の前にすっと掌が出される。


 ビクリとして顔をあげると深い緑の目とかち合った。知的そうな目が柔らかく細められる。



 サクヤっていうの?



 優しげなその笑顔が警戒を解いた。なおも母親の影に隠れながらおずおずと頷くと、子供はにっこりと微笑み、差し出したままの掌を更に前に出した。



 サーヴァイン・ルパスクです、よろしく



 刹那、映像が破裂した。


 再び閃光が目を貫き、視覚を奪う。しかしそれは一瞬の出来事だった。


 霞む視界の向こうに青が現れたと思ったその一刹那後には見慣れた桜並木の道が目の前に出現していた。


 学生たちが急に立ち止まった朔夜に不審の目を向けながら寮へ帰っていく。


 ぼんやりと光る石畳にその光に照らされた冬枯れの木立。それは朔夜が目にする当たり前の光景だった。しかし朔夜の脳にはそれまではなかった当たり前でない記憶が埋め込まれていた。



「サヴァ……」



 冷たい風が首筋を撫ぜていく。

 朔夜は軽く首筋をすくめると泣きそうに顔を歪めながら、体を抱き締めた。



「どうして」



 爪が衣服を通して皮膚に食い込む。



「どうして……っ」



 体のうちにあふれた感情に懐かしさはほとんどなかった。

 感傷という言葉でも甘過ぎるような痛み。それが心の臓を貫いた。暗い絶望にも似た感情。

 朔夜は顔を歪ませたまま、操られでもしたように叫んでいた。



「どうして連絡くれなかったんだよ!!」



 それ以上は云えなかった。

 

 血が出るほど唇をきつく噛み締めながら、朔夜は遠い昔に忘れてしまった記憶に耐えた。


 心臓が破裂しそうなくらい痛く、声も満足出せない。


 朔夜はこれ以上ないくらいに顔を歪ませると、そのまま桜の幹に額を打ちつけた。



「嘘つき!」



 掠れた声が外に出た。つんとした痛みが口うちに蔓延し、咽喉や食道を焼く。


 朔夜はずるずると木の根元に座り込むと引き()ったような痛みを発する咽喉を押さえた。


 そんな朔夜の姿をちらちらと見ながら学生たちが通り過ぎていく。ひそひそと話す声も聞こえたが、今の朔夜にはそんなことはどうでもよかった。


 ジンジンと響く痛みと幹のひやりとした感触が額の辺りで蠢いている。



 ◇



 サーヴァイン・ルパスクは喘息で満足に外に出ることの出来なかった朔夜にとってほとんど唯一にも等しい友達だった。

 朔夜が六歳の年に空き家だった隣の家に引っ越してきて、九歳の時に来たときと同じように突発的に去っていった。

 六歳にしてすでに高等過程までを終了していたサーヴァインは朔夜とはまた別の理由で学校には行かず、通信教育で勉強していた。そのため、近隣の子供たちが学校へ行っている間、二人は自然と一緒にいることが多くなり、気がついたときには日がな一日、ともに過ごすまでの間柄になっていた。



―――ごめん、朔夜



 その台詞を云ったときのサーヴァインの顔を朔夜は覚えていない。


 しかしこの上なくすまなそうな顔であるか、さもなければ己の不甲斐なさを憎むようなそんな苦しそうな表情をしていただろうことは判別がつく。彼はいつもそうだったからだ。


 喘息で学校へも満足に行けない子供を哀れんでいたのかもしれないが、仮にそうだったとしても彼は朔夜にとってこの世で初めて出来た、友達と呼べる存在だった。



―――ごめん



 何度も何度も謝る少年を前に朔夜は嘘つきと思った。


 ずっと一緒にいるって云ったのに。何度も約束したのに。


 心の中で何度もサーヴァインのことをなじりながら朔夜は、自分が当り散らしているだけだということをどこかで分かっていた。


 一緒にいると云ったにもかかわらず、引っ越していってしまったサーヴァイン。


 けれどもそれは決して彼のせいではない。あの日、サーヴァインがこの街を去るのだと告げに来たときからそれは分かっていた。


 でも。



「……?」



 突然掠めた妙な気配に朔夜は顔をあげた。


 頭の奥に何かがちらちらとまたたいては消えていく。鱗粉のような、それでいて多彩な色の輝きを持つ何か。


 朔夜は目尻に溜まった涙を拳で拭うと、早くも頭の中に蔓延した色の羽ばたきに耳をふさいだ。


 色であるはずなのに何故かうるさく感じるのだ。それはまるで誰かが耳元で叫んでいるようで、言葉であるようにも思えたが、そうでもないようにも聴こえた。


 オーロラの断片のようなその欠片を見ているうちに朔夜は不意にシンのことを思い出した。途端に心臓が跳ねあがり、とんでもない音の鼓動を全身に響かせる。



 何だ、これ。



 脳裏にはいまだ鱗粉が散っている。虹色の光を発し、様々に変化するそれは、頭の中なのか、目に映っているものなのかよくわからなかった。オパールの輝きを持ちながら脳の奥深いところへ溶け込んでいく。



「ライザー?」



 色がきらきらと光を発して砕けていく。

 その度に言葉には表せない何かが急速に頭の中で絡み合っていき、それとともに不安感も増した。


 それはちょうど、相手から云われた言葉を理解した瞬間の感覚に似ていて、同時に明らかに他人と分かる誰かの感情が自分の中に存在していた。


 困惑しながらも立ちあがり、きょろきょろと辺りを見回す。


 色がはじけて頭の中に光があふれる。その光は恐怖にも似た感覚を体のうちに置いていった。


 不安から逃げるようにぎゅっと肩を抱き締め、朔夜は何かにとりつかれでもしたように突然虚空を見上げた。



「ライザー?」



 朔夜の目の前には寮塔があった。

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