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Moon Child  作者: かゆき
第二章 禁断の秘密
16/89

8

 朔夜はその夜、眠りにつくことが出来なかった。目をつむると、ゆえの残したあの言葉が耳について、開眼せずにはいられなかったのだ。


 それでも無理に目を閉じていたが、眠りたいのに眠れないという焦燥感が膨らみ、ついに起きあがることとなった。


 こごった熱を発散させるようにシーツを剥がすと、エアーコンディショナーで冷やされた夜気が身に染みた。心地のよいその温度に朔夜は安堵したように息をつき、寝台から降りる。


 無理やりにでも目をつむっていたおかげか、部屋の中は転ばないまでに物を見通すことが出来た。涙の溜まった目尻を拭い、薄墨色の闇を掻き分けて窓辺に寄る。


 眠れない夜、朔夜はいつもこうして窓の外の情景を眺めていた。

 壁の三分の二以上を占める窓には真っ黒な丘と森、そして紺色の空が映し出されている。


 それは故郷で見るものと大差ない光景だったが、ナーサリーの寮の窓の向こうに見えるのは、本物の景色ではなく、映像である。

 部屋の中に窓もないのでは圧迫感を感じるだろうと、研究棟を寮にするときに急拵(きゅうごしら)えしたもので、数十ある映像ソースの中から好きなものを選び取って投影するつくりになっていた。


 朔夜が映しているのは基本の映像で、現在の第九エリアのものだった。

 けれども何から何まで完璧なわけではなく、夜空の星までは映し出されていない。味気のない真っ暗な空が一面を覆っているのみである。


 そういえば夢の中の空もこんな色だった。


 青い夢を思い出そうとした朔夜だったが、実際に思い出したのはヤーンスの空だった。



 こぼれてきそうなくらいに空を覆う星を見に、弟と出かけた夜の公園。

 肌を撫ぜる微温(ぬる)い風と冷たい草地の感触は今も覚えている。寝そべりながら星を見ていると自分がその中の一つになったみたいな感覚になって、朔夜はその瞬間が一等好きだった。


 隣で横になった弟の小さな指が無数の星の一つを指し示す。



―――わかる? 朔。あれが真夏の夜の大三角形



 かぶりを振ると、(のぞむ)は自分が知っている限りの語彙(ごい)をつくしてそれを教えてくれた。

 望が中空に描いたつたない三角形の残像はいまだに脳裏に残っている。



―――琴座のベガ、白鳥座のデネブ……



「……鷲座のアルタイル」



 朔夜は混乱しながら呟いた。確かにはっきりと記憶に残っているのに、そのこと自体を覚えていなかったからだ。



 望とは仲が良くなかったはずなのに。



 朔夜はすがるように空を仰いだ。地上では存在しているはずの星座はそこにはなく、天井を彩るのは光源の消えた暗がりのみである。

 あまりにも深い闇。朔夜はかつてもそれをどこかで見たことがあった。

 息が出来ないほどの圧迫感と叫びだしたいくらいの孤独。木立のざわめきに闇夜に浮かびあがる朽ちかけた塔。



「あ……」



 突然胸に押し迫るものを感じて朔夜は口元に手を当てた。

 体の周りに生暖かい空気が逆流しているような、そんなぼんやりとした感覚。吐き気にも似た気分の悪さを感じて朔夜はその場に座り込んだ。


 寒いような熱いような曖昧な温度は、いまだ皮膚の周りに移ろっている。


 熱でも出たか、そう思い体を震わせたとき、遠くの方で何かが割れたような軽い音が聞こえた。



「……何だ……?」



 続けて、かしゃんともう一度音がした。それはやはり遠かったが、音源が隣であることは知れた。



「……ライザー?」



 無視しようとも思ったが朝のこともあるため、朔夜は不承不承ながらも様子を見に行くことにした。


 藍色の部屋の中に所々浮かびあがる真っ黒な物体を避け、ベッドに向かい枕元のスイッチを押す。

 じわじわと明るくなっていく室内。しかし暗闇に慣れていた目はそれでも順応出来なかったらしい。

 まぶしさのあまりに痛みを発する目をこすりながら、朔夜は共用部の自動ドアをくぐった。


 洗面所や浴室、玄関に繋がる道は人が入ると自動的に明かりがつく。ようやく慣れてきた目で進行方向を見ていると、シンの部屋から再び物音が聞こえた。今度は先程とは違った軽い音だった。しかし朔夜の足は自然と速まっていた。



 心配なわけじゃない。断じて心配なわけじゃない。不審な物音がしたから気になっただけ。好奇心だ。



 朔夜は自らに云い聞かせるように何度も思った。


 それと同時にまたしても苛立ちが心を支配し始める。



 隣室で物音がしたからといって、どうして様子を見に行かなくてはならないのか。

 ルームメイトがあのオレンジ色の髪の人間だったら行かないに違いない。関係ない。放っておけばいい。



 けれどもそんな心情とは裏腹に、朔夜の足は一向に減速する気配を見せなかった。そして気がついたときにはシンの部屋の前にたどりついていた。



「……」



 朔夜は無言で扉を見つめた。


 ここまでやってきたのはいいが、何と云って入ればいいのかわからなかったのだ。


 寮の個人部屋はプライバシーの保護ということで軽い認証システムが内蔵されている。部屋の主の合意を得たものだけが入ることが出来るというそのシステムを、朔夜は大いに歓迎し、これまで入室出来る人間を誰一人として登録せずにきた。

 しかしそれは今、弊害でしかない。新しく入ろうとする人間は、扉越しに会話を交わし、部屋の主から許可を貰わなくてはならないのだ。


 つまり朔夜がシンの部屋に入室するためには、まず彼と話をしなくてはならない。怪しい物音がしたと云えば済むことだと、はじめはそう思っていたはずなのに、ここまで来るとその決意も薄れる。


 所詮は他人事だという思いが強くなってしまったのだ。それにどんな言葉を口にしたとしても、相手が心配して来てくれたと勘違いしてしまえばおしまいではないか。その後もそんな思いを抱かれながら生活するとなるとぞっとする。



 やはり帰ろう。



 しばらく考えた挙句、朔夜はきびすを返した。が、その行動は後方から吹いた風により中途で阻害された。

 嫌な予感がしてふりかえると、やはり予感は的中していた。扉が開いている。



 どうして開くんだ。



 突然開いたドアに軽い恐怖を感じながらも、朔夜は仕方ないとばかりに開扉された部屋に足を踏み入れた。



「ライザー?」



 扉の形に切り取られた光が暗闇の中に浮かんでいる。

 闇は光に慣れてしまったせいか、いやに暗く感じられた。ひっそりとした空気がその闇に拍車をかける。



 いないのか?



 警戒しながらもさらに足を踏み入れようとすると、それを押し留めるかのように声が飛んできた。



「来るな!」



 それは聞いたことのないような切羽詰った怒声だった。


 朔夜は内心、来たくてやって来たんじゃない、と云い訳じみたように考えながら、その場にたたずんでいた。


 せっかくここまで来てやってきたのに何て云い草だ、と一言吐き捨てて帰るくらいの憤りも一瞬感じたのだが、場に蔓延する空気とシンの普通ではない態度に不審を覚え、とどまることにした。


 ふと足元に目をやると、闇に伸びた光の奥に何かがきらきらと光っていた。何だ、と思いながら膝をつき、目を凝らす。それは強化ガラスの破片だった。首を傾けると部屋のあちこちに散らばっている。



 音の正体はこれか。



 朔夜はふっと息をつき、立ちあがった。


 シンが何故ガラスを割る経緯に至ったのか、それはわからない。しかしルームメイトとして真夜中に器物を破損するような行ためは見逃すわけにはいかない。

 

 朔夜はルームメイトへの厳重注意を大義名分に、さらに室内に踏み入った。



「来ないでくれ!」



 静まり返った部屋にそれはキンと響いた。かすかに震える声。


 大義名分をふりかざして入ってきた朔夜でさえ躊躇してしまうほど、その声は真に迫るものだった。

 朝の危機的な状況でさえ、冷静に対処することが出来た彼が、あれから二十四時間も経たないうちにこんなふうになってしまうとは誰が想像出来ただろうか。



 朔夜は、彼にとっては本当に珍しいことだが、罪悪感を覚えた。


 室内に立ち入ったことの理由として、あのライザー財閥総帥の嫡孫が執拗に隠す秘密を暴いてやろうという底意地の悪い気持ちがあったことも確かだったからだ。


 殊勝な気分をひきずったまま、詫びの一つでも入れようかと暗闇の奥底でうずくまるシンの方に目を向ける。

 しかし朔夜はそれを最後まで遂行することが出来なかった。無様に口を開けたまま、暗がりの中の一点を見つめる。



 暗闇の中に浮かびあがる青白い光。それは枕元の時計の表示部に塗られた夜光塗料の緑の光と、色こそ違えどよく似ていた。


 シンは手か何かでその部位を押さえていたらしく、光は所々見えなかった。しかし、それでも指の隙間から漏れる光は鮮烈で、全貌は見えずともそれが異常であることはよくわかった。



「あんた……?」



「帰れよ!」



 言下に風が吹くような音があがった。

 闇の中で一際暗い影が動いたので、朔夜はシンが寝具をかぶったのだと知った。朔夜の気を引いたものはそれで見えなくなったが、脳裏にはいつまでも残っていた。



「何だよ……それ……」



 朔夜は意図して出したわけではなかったのだが、掠れたような声にシンはショックを受けたようだった。

 合間の空気が瞬間、強度を増したのを朔夜は感じた。

 そして



「帰れって云ってるだろ!」



「ライ……」



「早く!!」



 最後の方はほとんど悲鳴だった。


 朔夜はその声に押されるようにして部屋を出た。後方でもう二度と来るなというように扉が閉まる。

 いつもの朔夜ならこちらから願い下げだ、と激憤に駆られていること間違いなしだったが、この日はそんな気分にはならなかった。



 自室に戻り、ベッドに横たわる。電気を消しても、先程の光景が脳裏に焼きついてしばらくは寝つけなかったが、気がついたときは眠っていた。



 その日、朔夜はあの青い夢を見なかった。

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