プロローグ
窓の外を緑色の川が流れている。
これだけでは語弊があるかもしれないが、しかし目に映る風景をそのまま形容した結果、その様な非現実的な言葉に終息するのも仕方ないことではある。
ここで補足するならば、僕は電車に乗っている。
つまり窓の外とは車窓であり、緑色の川は列車移動した結果、見えた田畑の連なりなのである。ここまで話せば分かって頂けるだろう。そう、僕はコンクリートジャングルを抜けて田舎道をひた走っていた。しかも、その緑の川も時間を増す毎に奥行きを増していっている気がしてならない。
そんな風景を延々と見せられていると、ここが本当に先進国日本であるのか疑問に思えてくる。いつの間にこの国は緑豊な土地を取り返したのだろう。それに加え、二両編成という恐ろしくローカルな車両でかれこれニ時間以上も揺られ続けていると、どうしたって気が滅入るものだ。
急激な眠気が襲い、欠伸を噛み殺そうとしてその必要が無いことに気付く。驚くなかれ、この車両には僕以外の客の姿が見当たらないのだ。つまり、何の気兼ねもなく大口を開いて欠伸をしても誰にも恥じることはないということだ。
東京駅から二時間半、乗り変えに継ぐ乗り変えでこんなにも辺境の地にやって来てしまった。電車を乗り換えるにつれ、徐々に乗客数が減っていることには気付いていたが、まさか最後の乗り変えを済ませると、一人で一車両を占拠するという無意味な贅沢を味わえるとは思ってもみなかった。僕がどれだけ辺境の地に向かおうとしているのか、聡明な方々には理解して貰えたと思う。
――そう、それは魔境に近い。
僕のような没個性を体現した人間には不釣り合いな状況。まさかこんな大胆な行動に出てしまうとは驚きだ。
ポケットに入った茶封筒を取り出し、再びその中身を確認する。一カ月前に突然送られてきた手紙。送り主にも宛名にも見覚えのない不気味な手紙だ。
それは、今住んでいる部屋の前住人が〝失踪した〟ことと、大きく関わるのだろうか。
大学生になり一人暮らしを決めた新居は、昭和を彷彿とさせる赴きのある建物だった。言葉を変えればボロアパート。風呂なし、トイレ共同、セキュリティーの甘さ(鍵がどの部屋でも開いてしまう)という悪環境だった。
およそ現代人が住むに適さないその環境に、僕は身を投じることになった。大変ではあったが、そもそもトイレや風呂に関しての問題はない。僕はどちらも共同(、、)生活(、、)に慣れていた。それに、家賃の安さが何よりの決めてとなった。他の部屋と比べて、その部屋は格段に家賃が安かった。曰く付きとしか思えないその安さは、やはり不穏な何かを隠しているようだった。
あまりの安さに即決でその部屋に決めると、大家さんが突然物々しい雰囲気で書類を引っ張り出してきた。
首を傾げると、無言でその書類を呈して来るのだ。訝しく思いながらも書類に目を通し、そして中身を確認すると―――背筋に寒いものを感じた。書類の中には、こんなことが書かれていた。
「以下の取り決めに従わぬ場合は、即刻退去を命じる」
・押入れの中の物には一切手を触れない。
・身に覚えのない郵便物は開かない。
・前の住人のことを詮索するような真似はしない。
・勝手に行方をくらませることをしない。
※その他、不明な点はその都度大家まで問い合わせ願う。
ゴクリと喉が鳴った。何だこの書類は。どう考えてもおかしい。
おかし過ぎて―――不覚にも興味が湧いてしまった。
僕はその書類にサインし、部屋の契約を済ませた。サインを書かせているはずの大家ですら、僕の神経を疑っているような白んだ目を向けてくる。まったく理不尽だ。
部屋に入り、僕は契約とは裏腹に部屋の中の物を片っ端から開いてみた。押し入れの中には、書類に書いてあったように様々な荷物が仕舞われていた。
――あの書類から、次のような予想が立った。
まず間違いなく、前の住人は行方不明となっている。それは書類の最後の一文に目を通せば明らかだ。あんな注意を促す時点で、過去に前例があったことを物語っている。同時に、前の住人について詮索するなと警告するのは、何か事件に巻き込まれたという明白な証明なのではないだろうか。
僕は大いに興味をそそられた。どんよりと沈んだ室内が、まるで肝試しをしている時のようにチクチクと肌に心地よい。転居当時、春先にも関わらず、僕の背中は汗でぐっしょりだった。
そんなある日、部屋に郵便物が届いた。僕は少しの迷いもなく封筒を開いた。中には手紙が入っていた。
長々と挨拶文が連なっていて、正直読むのも面倒なので省略。達筆な文字と難しい文体のせいで意味は殆ど分からないが、何やら時候の挨拶をくどくどと並べ立てているようだ。
大切なのは手紙の最後の一文と、封筒に記された宛名。
兄様、早々なる帰省を心より願っております
多々良あぶみ
手紙はそう締め括られていた。封筒の宛名には《多々良 一成様》と達筆な文字で記されている。どうやら筆、もしくはそれに類する何かで書かれているようだ。
その時の驚きを思い出しながら、また手紙を開いている。電車の揺れで文字酔いし、僕は丁寧に折り畳んで封筒に戻した。
そう。この手紙を受けて好奇心に火が付いた。目的地にはきっと大きな秘密が隠されているはずだ。