第十三話「指輪の術式」
「――ひとまずは、『お疲れ様』だな。ラリカ」
夜、与えられた居室で、人心地ついた様子でほっと息を吐きながらベッドに腰掛けるラリカの膝に飛び乗り、ねぎらいの言葉を贈る。
「そっ――いえ。そんな事はありませんよ。――まだまだ私は頑張れますから」
「こらこら……」
一瞬『そうですね』と相づちを打ちかけたラリカは、何を思ったのか意地を張ったように首を横に振った。
大方、『頑張らないと』という意識が空回りして、『疲れた』などと言っていてはいけないとでも思っているのだろう。
事情が事情だけに、仕方が無いとは思いながらも、苦笑しながら窘めることにする。
「ちゃんと、疲れたときは疲れたと言わなくてはいけないぞ? きっちり疲れたときは休んで、体力と精神力を戻す。それからまた頑張る。――人生なんてそんな繰り返しだ」
「……お前はミルマルでしょう?」
私の言葉に、一瞬図星を疲れたようにぎくっとした表情を浮かべたラリカは、少し頬を膨らましむくれた顔をしながら揚げ足を取った。
――とは言っても、自分でも苦し紛れの余計な言葉だというのは分かっているらしい。
どこか気まずそうに頬を染めながら、もじもじと私が乗っている両足すりあわせるように動かした。
「……なんです?」
可愛らしい反応に、私はくっくと喉の奥を鳴らす私に、ラリカは不服そうに声を漏らした。
「なんでもないとも。――今日の、『死神に魅入られた子』だったか? 無事に治ったようで良かったな」
「……お前、今誤魔化しましたね?」
せっかく私が話を変えてやろうと思ったのに、どうやらラリカは質問への回答をお望みらしい。
「では、細かく何を笑ったのか語った方が良かったか? ――良いだろう。微に入り細に入り語ってやろうではないか」
「――やっぱり良いです」
我ながら意地の悪いと思う声音でラリカに聞くと、やぶ蛇だった事に気がついたらしい。
顔を引き攣らせながらラリカがぎりぎりと首を振った。
「そ、そうですね。――治療が上手くいって、本当に良かったのですよ」
「しかし、本当にあれだけの短時間で術式を改変してみせるとはな。本当に『よくやった』だなラリカ」
「――そんな事はありませんよ。本当に術式の対象指定を変更しただけなのですから」
「それにしてもあの規模の術式なのだ。立派だと思うぞ?」
多層構造術式だの、神炎だのと言った規格外の大物に比べると小規模とはいえ、フィディアが魔法を発動した際の複雑さと規模、それからフィディアが消費していた魔力量を鑑みれば、治療に使った術式が上級魔法に分類されるだろうことは明らかだ。
素直に賞賛の言葉を贈ると、ラリカは薄く笑みを浮かべ、私に頭をわしゃわしゃと撫でた。
「もう、そんなに褒めても何も出せませんよ? ――それに、流石と言うべきなのはフィディア=ヴェニシエスですよ。あれだけの術式をたったあれだけの時間できちんと再現してみせたのですから」
「やはり、そうなのか?」
「はい。私は術式を作ったので内容が分かっていますが、前回はクロエ婆だってなかなか苦労していたのですよ? それをあの短時間で転写用の魔道具も使わずに、魔法陣からきちんと再現したのは、本当にフィディア=ヴェニシエスの素晴らしい修練と技量の賜物ですよ」
やはり、私が思っていたとおり、あの時のフィディアはなかなかの離れ業をこなしていたらしい。
ラリカは本心からフィディアの事を尊敬した調子で手放しに褒め讃えている。
右手を顎の辺りに当て、何かを回想するようにラリカは視線を天井に向けた。
「実は、今回も魔法の発動に関しては、ラクス=ヴェネラにお力添えを乞おうと思ったのですよ。ですが、ラクス=ヴェネラからは『術式を確実に発動させると言うことなら、フィディアの方が優秀よ』と助言を受けたのです」
ラリカはベッドに腰掛けたまま、考え事をするように天を見つめたまま、足をぷらぷらと揺れ動かしている。
そして、ふふっと笑うと、私に言い聞かせるように下を向いた。
「どこぞのポンコツヴェニシエスではないのですから、決してラクス=ヴェネラが、魔法発動が苦手などと言うことは無いはずです。ならば、やはりフィディア=ヴェニシエスはとても優秀な方なのでしょうね……」
なんと、あのミギュルスとの戦いでは熟練した所作で魔法を扱っていたクロエと並ぶ人間が、自分よりも上だと認めるとは……
ならば、あのフィディアという少女は、ラリカの言う通り極めて優秀な人間なのだろう。
――その割には、随分と自信が無さそうだったことと、妙にラリカに敵愾心を持っているように見えたのはなんだったのだろうか?
自分が優秀であるからこそ、他の同格の存在が許せないという所なのだろうか?
「ラリカ。ヴェニシエスというのは、お互いに競い合う間柄なのか?」
「ん? どうしたのです? ――まあ、昔はヴェネラの人数が多かったこともあって、お互いいがみ合った時代もあったようですよ?」
私の突然の問いに、ラリカは不思議そうに首を傾げながらも、特に意識するでもなく当然のことのように答えた。
「いや、なにフィディア=ヴェニシエスと、ウチの主人が仲良くなれるのか不安でな……だが、そうか……『時代もあった』ということは、今はそんな事は無いのか?」
「――その言葉、前半については、どういう意味か気になりますが……まあ、今はお互い争うような事はありませんよ? 幸い、クロエ婆とラクス=ヴェネラはとても仲が良いことで有名ですから。今では各教会同士の争いもほとんどありませんし。あらゆる教会で地位をいただくヴェネラも、今代は出身がユーニラミアとユルキファナミアですし、この二大教会がそれぞれヴェネラを抱え、そのヴェニシエスの私達は幸いにしてヴェネラとは反対の教会ですからね……とてもバランスが良い状態ですよ? ――何を争うことがあるのですか」
……そういえばそうそうなるのだったな。
クロエがユーニラミア教徒でラリカがユルキファナミア教徒。
ラクスがユルキファナミア教徒でフィディアがユーニラミア教徒。
――普通、こういうものは権威保持のためにも、師匠と弟子の関係なら所属する団体も統一しようとするものだと思うが、この世界ではそういったしがらみにはあまりこだわらないのだろうか?
とにかく、ラリカの言葉をまとめると、『今は争う理由など無い』という事か。
しかし、それは、あくまで教会という大きな枠組みでの話だ。
個人個人、それぞれの信条や意思、その思想背景によって対立するという事もあり得る話だ。
あのフィディアの様子を考えれば、何も含むところがないとは思えない。
ならば、あの様子は完全に『フィディア』という少女ひとりに起因する物なのだろう。
――もしも、あのフィディアの態度が、『教会』という大きな組織や『ヴェニシエス』という肩書き自体が対立する性質を孕んでいるのだとすればやっかいだと思ったが、それについては一安心という所か。
なら、私が気をつけなくてはならないことは、フィディアという少女の感情が暴走して、矛先がラリカに向けられないかという一点だな。
そうであるなら――
「――『指輪』はきちんと使えているようだな?」
――ラリカ自身の自衛手段はきちんと確保しておかなくてはなるまい。
以前は神炎という少々高火力に過ぎる手段しか無かったラリカは、いざという時に安全に身を守るための手段が限られていた。
しかし、今のラリカには『指輪』……一人の少女が、ラリカに向かって遺した御守りがあった。
「――ええ。大丈夫ですよ」
急な話題の転換への戸惑いか。それとも、指輪に話が及んだことに対する葛藤か。
一瞬の間を開けてラリカが応えた。
「今日の収納魔法を見る限り、魔法の発動もかなりスムーズだったな。やはり、普通に魔法を発動するより、随分と展開速度が速いようだ」
「王都で練習した時から思っていましたが、やはりそうなのですね。私は、魔法は神炎以外自分で魔法を使ったことはほとんどありませんが、構築の手間も要らない分、随分と早いなと思っていたのですよ。――後、魔法陣が大きく出てこないのも良いですね」
『ほとんど』という言葉を強調しているのは、あれか。おそらく、点火の魔法を使ったときの事を言っているのだろう。
あれは確かに魔力の供給源は私だったが、構築から発動はラリカがしたのだ。
ラリカにとって、初めて使った魔法だ。
こだわって当然というものだろうが、なぜだか久々に子供らしい意地をはる姿を見た気がして微笑ましい。
『指輪』に関しては、やはり術式がすでに書き込まれていて、それを発動させるだけというのは、その分工数が減ることになり、負荷は随分低減するようだ。
先ほどの収納魔法を発動した時を思い返しても、あの展開速度ははっきり言って異常だと言えた。
あんな速度で魔法を発動することは、普通の人間には出来ない。
「その指輪に込められている魔力を使い切れば、再度補充するのに時間がかかる。気をつけるんだぞ?」
「ええ。分かっていますよ」
しかし、この魔道具をつくりだしたフィックの言葉通り、この神器は非常に良質なものだったらしい。
この小さな指輪一つで、上級の魔法でも二、三回は放つことが出来るほどの魔力を貯蓄している。
中級魔法であれば、運用次第では六十回ほどの魔法を放つことが出来るはずだ。
……六十回と聞くと非常に多く感じるが、私がフィックと戦った経験や、先ほどのレシェルの魔法を考えれば、その数は心許ないと言えるだろう。
使い時は誤らないようにしなくてはならないだろう。
一応、術式の書き込める領域を削ることにはなったが、後に必要な術式の構成を入れ替える事が出来るようにフィックが調整してくれているらしい。
一度に書き込める術式の数は七つまでという制約がある中で、どの術式を準備しておくのかという術式の構成についてもじっくり調整を行っていく必要がある。
まあ、多層構造術式自体、図書館でメンテナンスに使用していた術式を流用していたためにフィックの作業がしやすいのが物怪の幸いというところか。
――そうだ。フィックと言えば、レシェルとの不審な会話もあったのだ。
いつか、ラリカに危害が及ぶという事をほぼ確実視しているようだった。
一体何があるのかは分からないが、なんとかしなくてはならないだろう。
『氷槍、雷槍、鋼縛、治癒』この辺りは少なくともどこかで練習しておかなくてはなるまい。
とっさの時に使えなくては危険だ。せっかく準備した意味が無い。
しかし……そう考えると、あまりにも戦闘に関するスキルばかりで、悲しくなってくる。
だが、それが少女の安全のためであるのだから、憎むべきは世の中という訳である。
「……ラリカ。後で治癒魔法だけでも練習しておかないか?」
「――本当に、くろみゃーは心配性ですね。ありがとうございます。でも、怪我をしていないでしょう?」
ラリカが苦笑を浮かべて首を左右に振った。
なんだ、そんな事か。
――そんなもの、あまりたいしたことの無い小傷でも私につけて、それに魔法を使えば良い。
治癒術式として、今はひとまず、私の知ってる中で一番効果の見込まれる、ラリカオリジナルの治癒魔法を放り込んである。
アリンの治療した時を考えれば、その効果は折り紙付きだが、如何せん消費する魔力の量が桁違いだ。
小傷程度の練習に使うにはもったいない気がするが、背に腹は代えられないから仕方ない。
「なに、私に少し傷をつけて――」
「駄目です」
思いついた提案を口にした瞬間、被せ気味にラリカに拒否された。
「そ、そんな大した傷をつけるわけではないぞ?」
あまりに温度の低いラリカの声に、思わず言葉に詰まりながら言い訳をする。
そんな私の眉間の辺りにぴしりとラリカは指を伸ばしてほっそりとした指先を弾いた。
本気で打ったわけでも無いデコピンは、さほど強くも無い衝撃を私の頭に伝えた。
「……必要も無いのに、自分で自分を傷つけるのはいけませんよ? そんな事したら、思いっきり叱りつけてやりますから、覚悟しておきなさい。しばらくご飯はないと思っておくのです」
「あ、ああ……分かった。すまない」
硬くした表情を崩し、優しく、困った子供をあやすようにラリカが笑っているが、笑顔がどこか泣きそうにも見える。
「いえ。こちらこそ、ありがとうございます。今日治療した方も気になりますし、明日、療養所でどなたか怪我をしている方に試させて貰うことにしましょうか」
「そうだな。――すこし、気が急いていたようだ」
「私を心配してくれたのでしょう? ……ありがと。くろみゃー」
「……ああ」
私を抱き上げ、ぎゅっと抱きしめながらお礼を言った少女は、酷く儚く見えて……
ドクドクと優しく伝わってくる心音を聞きながら、ただそう返した。