第十二話「憑き物落とし」
「――とはいえ。時間が無いのは確かです……くろみゃー、見えますか?」
フィディアに聞こえないように、口だけを微かに動かしながらラリカが聞いてきた。
――大丈夫だ。すでに、部屋に入ったときから青年の容態はよく見えている。
「ああ。右手と――左足首だ」
青年の内部で生み出された魔力が、ゆったりと全身を血液のように循環している。
しかし、一見淀みなく巡っているように見える魔力の流れが、ところどころ局所的に渦巻き、ぼろぼろと崩れさっているのが見てとれた。
フィディアに聞こえないよう、なるべく小さな声でラリカの耳元で囁くと、ラリカの肩を飛び降り、青年の魔力が渦巻く箇所を前足で示していく。
その位置を確かめるように、ラリカは青年に触れると、私に向かって小さく頷いた。
「――くろみゃー、今から私が針を刺ますから、魔力の流れに変化があったらゆっくり二回瞬きしてください。駄目なら一回」
早口の小声でラリカが私にやるべき事をしめした。
――は、針?
ラリカの言葉に戸惑いながらも、思い浮かぶのはリベスの町でアリンの治療をするときに使っていた針だ。
「――ラリカ=ヴェニシエス。治療は、どうなりそうかしら?」
「あと、少しだけ待ってください。部位をもう少し詳細に確定します」
後ろから心配そうに声を掛けてくるフィディアに向かって、答えながら右手に収納魔法を発動させ小さな木製の小箱と筒をとりだした。
あまりにも一瞬でコマ落としのように展開された収納魔法は、まるではじめから手に持っていたかのような自然さだ。
魔法陣も展開されない魔法は、よっぽど注視していなければ気がつかないだろう。
――しかし、流石はヴェニシエスというべきなのだろうか?
フィディアは目聡く、それが収納魔法によるものだと気がついたらしい。
両目をこぼれ落ちそうなほどに見開きながら、驚愕の視線をラリカに向けている。
だが、集中しているらしいラリカはそれに気がつかず、小箱から長い針を取り出すと、筒の中に入っている液体をほんの少しだけ垂らした。
そして、その液体がしたたる針を、青年の右手の指摘した辺りに遠慮無く突き刺した。
僅かな流れの変化も見逃さないように、私もフィディアから視線を外し、真剣にラリカが突き刺した針の行方を見守る。
――すると、ズルリとなにかが這いずり回るように、僅かに魔力の流れが変化した。
思わず、ラリカの方を跳ね上げるように見つめると、ラリカは頷く。
私はゆっくりと二回瞬きを返した。
それを見て、ラリカは立ち位置を僅かに変え、今度は左足の足首に向かって針を刺す。
一秒、二秒……
――だが、今回は待ってみても魔力の流れには変化が見られない。
どうやら、僅かに位置が違ったようだ。
ゆっくりと一度だけ瞬きをする。
ラリカはそれをみて、もう一度足首の辺りに軽く触れると、もう一度針を突き刺した。
――ズルリと魔力が蠢動した。
大きく、瞬きを二度返すと、ラリカはふぅと大きく息を吐き出し、ぎゅっと目をつぶり、目頭を押さえるとフィディアの方を振り返った。
「フィディア=ヴェニシエス。――これで術式を作れそうです」
「そ、そう……でも、術式をこれから作るなんて……い、急がないと、い、一応ここに貴女が作った魔方陣は書き写してあるけど……」
フィディアが、服の内ポケットらしき場所から紙片を取り出した。
折りたたまれたその紙片は、何度も何度も見返されたのだろう。
すり切れて、シワがよってしまっているところもある。
「――ああ、イリオス=シスの治療をした際の魔方陣ですね。大丈夫です。ちゃんと覚えていますから」
「……お、覚えてるってこれを!? こんな複雑な!?」
「ええ……私が作ったんですから……覚えていますよ――」
ラリカが小さく続けた、『作っただけですけど……』という言葉は、誰かに聞かせる物でもない、紛れもない自嘲だった。
おろおろと狼狽えながら紙片を差し出した手を、空中に彷徨わせているフィディアを他所に、ラリカは一瞬自分の指にはめられた指輪を見つめた。
――そして、ゆったりと腰につり下げた袋から紙とペンを取り出した。
……なにかメモでも取るのだろうか?
そう思う間に、今度は収納魔法を使って、小さな杯や細長い匙、彫り細工が施された緑色の容器などを取り出していく。
これには、私も見覚えがあった。
確か、王都ではじめに立ち寄った喫茶店で、ルルムの洗礼を執り行ったときに用いたはずだ。
きょろきょろと赤い瞳を彷徨わせ、何かを探すように周囲に視線を向けたラリカは、ベッド横の戸棚に置かれた陶器で出来た吸い飲みに手を伸ばした。
「フィディア=ヴェニシエス。こちらを少しいただきますね」
「え、ええ」
フィディアが、目を見開きながらも喉から絞り出すように声を出した。
ラリカはその吸い飲みから少しだけ水を杯に移すと、緑色の容器に収められた粉末をほんの少し。
ごま粒ほどだけ杯に移した。
「――ミア」
かき混ぜながら、小声で祈るようにラリカが神への祈りを口にすると、杯の水が仄かに光を放った。
匙で軽く水気を払うように水面を撫で、自分が意図した物ができあがったのを確認したらしいラリカは、取り出したペンを水につけた。
そのまま、『頭の中身が抜けてしまう前に書き付けてやる』とでもいうように、猛然とベッドの横に備え付けられている戸棚の上で手を動かしていく。
ちらりとフィディアを振り返ってみれば、目を見開き、口を半開きにして、呆けたようにラリカの書き付ける魔法陣を見つめている。
「すごい……」
恐らく無意識なのだろう。小さな声で、フィディアがぽつりと呟いた。
どうやら、彼女の目から見ても、やはりラリカのこの魔法陣構築の速度は異様らしい。
『ラリカちゃんは、普通の人じゃないから』レシェルに会う前にフィックが口にしていた忠告が脳裏をよぎった。
――ん? だが、待てよ?
ふと、黒髪の少女の姿を思い出した。
『ヴェニシエス』という位を与えられる人間が驚愕する能力を持つラリカ。
そのラリカになんだかんだ言いながらもついてこれていたリクリスは……
やはり、中々に得ることが出来ないほど優秀な人材だったのだろう。
分かったようなつもりにはなっていたが、つくづく自分の常識のなさを痛感させられる話だ。
「――出来ました!」
ペンを置いたラリカが、瞳をきらりと煌めかせながら両手で確認するように紙片を持ち上げた。
確認を終えたラリカは、フィディアに向かって紙片を突き出す。
「――も、もう術式が出来たって言うの!?」
「ええ。既存の術式を、さっき私が打ち込んだペシェナを基点にするように改変しただけですから」
「改変しただけって……むちゃくちゃよっ!?」
わき上がる激情に、もはや、ラリカに向かって発する言葉さえ覚束ないのか、フィディアは唇をわなわなと震わせている。
「そ、それで? 早くその術式を使って治療すれば良いじゃない!」
「あ――ああ……済みません。それは出来ないのです」
震えた声で、ラリカに治療を促すフィディアに、ラリカは気まずそうに視線を逸らしながら頭を下げた。
「出来ない?」
聞き返すフィディアの表情は不審げだ。
まさか、治療するつもりがないのかという怒りさえ微かに感じる。
「それはフィディア=ヴェニシエスに使っていただきたいのです。ラクス=ヴェネラからもフィディア=ヴェニシエスにお願いすると良いと伺っているのですよ」
「――私に!?」
ラクスからフィディアに頼むように言われているという予想外の申し出に、フィディアは緊張したように口の端を引き攣らせた。
「フィディア=ヴェニシエスなら魔法陣を渡せば、魔法を使うことが出来ると。なので、あくまで私が出来るのは此処までなのです」
「お師匠様が……? ――そう、そういうこと」
説得するように続けたラリカの言葉に、呆けた顔をしていたフィディアは段々と理解の色を浮かべていく。
――それに伴って、くしゃりと悔しそうに顔を歪めた。
なんとなく、微かに先ほどまでとは違う涙も浮かんでいるようにも見える。
フィディアは顔を伏せると、真っ白に震える手を伸ばして、ラリカから紙片をひったくった。
「――ちょっとだけ……少しだけ、時間をいただけるかしら? ――せっかく貰ったお情けだもの。ちゃんと、成功させるわ……」
――そう返したフィディアの声は、小さく、苦しそうで。
――抑えきれない感情の激流を示すかのように揺れ動いていた。
***
「――ラリカ=ヴェニシエス。随分お待たせしたかしら?」
「――もう大丈夫なのですかっ!? 流石はフィディア=ヴェニシエスですね!」
結局、フィディアがラリカの渡した紙片を見つめていた時間は、ほんの数分ほどの事だった。
どうやら、本当に『ちょっとだけ』時間が欲しかったらしい。
先ほどの悲壮な断りの入れ方を考えて、もっと時間がかかるものと踏んでいた私は内心拍子抜けしていた。
「ええ。一応、魔法を発動する位なら……問題ないわ」
「そうですか! ――では、早速お願いします」
「……ええ」
どこか自信がなさそうにも聞こえるフィディアの『大丈夫』という言葉も、ラリカはまったく疑っている様子はない。
安心した様子で、フィディアと立ち位置を入れ替えるように自分はドアの近くへと移動し、フィディアの背中をベッドに横たわる青年の横へと押していく。
フィディアは、観念したように魔法陣の描かれた紙を青年の上に置くと、流れるような動作で収納魔法を展開し、以前リクリスと戦った修道女が使っていたのと同型らしい携帯型の杖と碁石ほどの大きさのセレガに似た鉱物を取り出した。
右手に杖を持ち、左手にぎゅっと鉱石を握り締めると、集中するようにアメジストのような澄んだ紫の瞳を閉じる。
「――我が大いなる神。赤き神、猛き神ユーニラミア。その灯明は無明を照らす光にして、邪なるもの、悪しきものを滅する炎である。ああ、その神威により焼き払われた悪徳は、いずれは灰にそして土に、やがては我々の糧へと変わるだろう。――どうかその灯明の火で力なき私を照らして下さい。私はヴェニシエス。すべての神に仕えるもの――ミア……」
「――おおっ! ……まさしく神術ですね……!」
聞き慣れない詠唱を行うフィディアを尊敬の眼差しでラリカが見つめている。
神術――確か、以前ラリカが魔法を使おうという時に言っていたな。
教会の人間が使う魔法の事を神術と呼ぶのだったか。
頭の中に、今まで出会った教会関係者の姿を思い浮かべる。
――この世界にきてから、随分とその筋に人間には会ってきているはずだが、中々使っている所を見た覚えがない。
よほど信心深い人間か昔気質の人間が使う言葉という事なのだろうか?
思う間にも、フィディアの詠唱に導かれるように術式が展開され、フィディアの中にある魔力がぞわりと俄に動き出し、術式へと流れ込んでいく。
方向性を与えられた術式が力を持ち、ラリカが描き出した魔法陣と同じ紋様が宙に展開されていった。
――おお、きちんと同じものになっている。
瞳の力でその術式の構成を盗み見ながら、心の中で必死の表情で魔法を発動する少女に喝采を送った。
自信がなさそうな様子で魔法を使うので、本当に大丈夫かと心配だったが、どうやらそれは|杞憂《》に終わったようだ。
――しかし、それなら先ほど握り締めた鉱石は何だったのだろうか?
フィディアが先ほど魔法を発動する前に握り締めていた鉱物を思い出し、ふと不思議に思った。
なにか魔道具の類いかと思ったが、特に魔力が流れ込んでいたようには見えなかったが……
とにもかくにも、過不足無く良い具合に魔力を注ぎ込まれた魔法は、その定められた規則に従って世界の理を変容させていく。
そして発動した魔法は、静かにベッドの上に横たわる青年へと至ると、ラリカの刺した針に導かれるように青年の体内へと侵入していく。
一瞬、青年の魔力が体内で侵入者を拒むように衝突したが、フィディアの発動した魔法が寄り添い、ゆったりと導くように魔力の流れを整えていった。
流れを変えた魔力は、やがてある一定の軌跡を描くように安定していく。
目的を果たした魔法は、じわじわと潮が引くように離れていき……
――消えた。
「――どうかしら?」
魔法が役目を終えて消えたにもかかわらず、両手を強く握り締めたまま、フィディアは不安そうにラリカに問い掛けた。
「ええ――確認させていただきますよ」
ラリカは、私を肩に乗せたまま、フィディアの横をすり抜けて患者に近づいていく。
じっくりと間近で魔力の流れを改めて確認するが、どうやら無事に治療は成功したようだ。
極めて順調に魔力は体内を循環している。
あれほど苦しそうにしていた呼吸もじわじわと落ち着いていき、今はこの僅かな間にも目に見えて顔色が良くなっている。
「――大丈夫そうですね……くろみゃー?」
小声で問い掛けるラリカに、ゆっくりと二回瞬きを返して見せた。
『うん』と優しくラリカは頷いて、私を褒めるように撫で回した。
「大丈夫です。治療は成功ですよ」
ラリカの言葉に、フィディアは軽く汗ばんでいた額を拭い、詰めていた息をふーっと大きく息を吐き出した。
「そう――良かったわ」
――そう掠れる声で呟いたフィディアの、疲れ果て果てたような声。
そしてその表情が。
――私には、非道くなにかに怯えているように見えた。