第二話「水の都の恐怖体験」
城門から聖国内に入って、はじめに抱いた印象は『水の都』だった。
漆喰のような白壁で造られた建物が並び、その間を縫うように複雑に水路が張り巡らされている。
大通りは存在するようだが、細い路地が多く、荷車の類いはあまり行き来がないようだった。
時々、水路を行く細長いゴンドラの姿が見えることから、ちょうどヴェネツィアのように運河による交通が発達しているのだろう。
「これが、噂に聞く聖国大水路ですか……」
扉が開くに合わせて目を見開き、きょろきょろと周囲を見回していたラリカが、感心したようにつぶやいた。
「そうっ! これが、『神は道を示された。だが、我が国に道はなかった』で有名な聖国名物の大水路ッ! どーかなっ? この白壁と、水路の碧にユーニラミアの赤い屋根! 綺麗でしょ? もー、二人とも、じっくり見てってくっださい、目に焼き付けちゃってくださいっ! そして、その案内は聖国の裏道、下道、道なき道とあらゆる場所に行って食べてを知り尽くしたこのフィックさんにまっかせちゃってください。 あ、因みに聖国では、道を歩くよりも舟に乗った方がはやいことがけーっこうあるから、私が居なくてもし急いでるときは、トロア達に相談してみてくーださい!」
フィックが、何処の胡散臭いガイドだというようなテンションで口元を笑みにゆがませながら、聖国の風景を自信満々に紹介してみせる。
その姿は、王都でルルム=モンティオを紹介して見せた時を彷彿とさせた。
だが、なぜこうも道案内するときの彼女は無駄に自慢げなのだろうか?
――ああ、そういえば日本でも居たな自分の事でも無いのに、知識をひけらかす機会を設けると妙に張り切るのが。
「――なぜそんな不便な場所が教会の中心地になっているのだ?」
私が、なんとなく浮かんだ疑問を口にすると、フィックとラリカが意外そうな顔をして驚いて見せた。
「あー……そっか。くろみゃーちゃん、随分流暢に話すから忘れちゃいますけどー、ミルマルだっもんね! あーんまり人の生活は分かんないんだったね!」
「ええ。こいつは偉そうで、要らない知識は持っている割に、常識的なところが欠けているのですよ」
「まぁ……ミルマルだしねー」
「ええ……まぁ、こんなのでもミルマルですから……」
ラリカとフィックが二人呆れたように話すのを見ていると、なにやらとんでもなく馬鹿にされている気がする。
だがまあ、世間の常識に疎いのは事実だ。
無知の誹りを受けるのも仕方あるまい。
「それで……『何故聖国が水路網に頼るような場所に建国されたか』でしたか?」
「ああ」
ラリカが、私に確認するように聞き返した。
流石に嘲笑って終わりと言うことはなく、説明をしてくれるらしい。
「それは――ここでしか『セレガ』が採れないからだよ――ッ!」
「くろみゃー。セレガは分かりますか?」
「ああ……確か、『蒼き巫女』の涙が石になってと言っていたか?」
「――っふふ、よく覚えてましたね。そうです。そのセレガですよ」
私が、ラリカから聞いた昔話を思い出しながら口にすると、ラリカはとても嬉しそうに柔らかく微笑んだ。
ラリカは手を伸ばし、褒めるように私の右耳の後ろを優しくかりかりと撫でてきた。
「『蒼の巫女が零した涙』――が結晶になったセレガは、魔道具の媒体として必須だからね。だから、教会はカミから魔法を授かった場所として、ここを拠点とすることに決めたんだ」
「――でも、よくよく考えるとそれもおかしな話ですね?」
なるほど。有力な資源――それも宗教的な意義を多分に含む権益を中心に国が形成されたと言うことか。
私が納得していると、ラリカはフィックに向かって苦笑を浮かべた。
困ったように笑うラリカに、フィックが不思議そうに首を傾げた。
フィックの目元には、『興味深い意見が聞けそうだ』というような期待が浮かんで見える。
「ん? どーして?」
「――だって、蒼き巫女が最初に神に魔法を授けられたのは森の中ですよね?」
「あー……流石。よく知ってるねっ! ま、そこは色々大人の事情があったってことで……」
フィックは、感心したように大きく首を振りながら、悪戯を隠す子供がバツが悪そうに笑みを浮かべたように笑った。
要は、セレガにまつわる話というのは、結局のところ、教会が自分たちの権威を主張するためにつけた後付けの話なのだろう。
卵が先か鶏が先か――単純に、セレガが算出される場所を離れるわけにはいかない。
だが、セレガ自体にも信仰の礎となる逸話を用意したい。
そんな薄暗い事情から、内容の食い違うお話が生まれてしまったというところではないだろうか?
どんな世界だって同じだ。それぞれの思惑があって、伝わる話があるのなら、その話が伝わるうちに独り歩きし、変質していくのが道理だろう。
フィックの『大人の事情』というのは、そういった物を含めて端的に示す、良い言い回しといえた。
「――それはまあ、随分と、夢の無いことだ」
私はラリカの肩の上、フィックとラリカの間に挟まれるようにため息をつくのだった。
***
チャプ……チャプ……
ギシッ……ギィ……ギシッ……ギィ……
僅かに水面が風に揺れ、ゆったりとした流れを形成している。
耳には、街中を行き交う人々の雑談の声と、ゴンドラの側面に打ち寄せてくる波の音と船主が舟を漕ぎ進める櫂の擦れる音が優しく響いていた。
ときどき、『トロア』と呼ばれるらしい船主達は、水路ですれ違うと、挨拶をするように無言で大きな仕草でぺこりと頭を下げ合っている。
『そっれじゃー教会に向かって出発しーましょそーしましょ。ッというわけで水路に乗って行っきますっすよー』などというふざけた調子の案内に従って、若干の不安を抱えつつゴンドラに乗り込んでみたが、これは中々に良い。
ラリカは、珍しげに船の縁を両手で掴んだまま、バランスの崩れがちなボートの上注意深く僅かに身を乗り出しながら四方を眺め回している。
フィックは、先ほどまで賑やかな様子でしきりに目に見える物を解説していたが、ラリカがきょろきょろと視線をあちこちに向けているのを見て、いつの間にか説明を止め、懐かしげな表情を浮かべ、吹き抜ける風を味わうように目を細めていた。
――つかの間、すべてを忘れるような穏やかでゆったりとした時間が小舟の上に流れていた。
ああ、こういうのが、やはり旅の醍醐味というものだ――
「――なーんか、もう仕事したくなくなりませんかー?」
「――それはダメです。フィック=リス」
せっかく穏やかな感傷に浸っていたのだが、フィックの一言でそんな雰囲気は台無しになるのだった。
***
「あ、ラっリーカさーん。見えてきましたよっ! アレが、ユルキファナミア教会が誇る総本山ですぅぅぅぅ――おおっっと!」
フィックが嬉しそうな様子でゴンドラの上で立ち上がり、前方に向かってぴしりと人差し指を伸ばした。
だが、勢いよく立ち上がったせいで、いささかバランスが崩れたらしく、大きくゴンドラが揺れる。
慌てて、フィックが縁を掴み、バランスを取り直した。
「――何をやっているのですか……」
「やー、はは……ちょーっと張り切り過ぎちゃいましたねー……」
「一番この街に慣れているだろう君がそんな有様では、我々は不安で仕方が無いぞ?」
「もう……ッ ごめんってばー……」
ラリカが呆れたように言い、私もトロアに聞こえないよう小声で窘めると、フィックが後頭部の辺りに右手を添えながら、謝罪するように頭を下げた。
ラリカは文句を言いながらも小さく笑みを浮かべ、フィックが示そうとした建物へと目線を向ける。
そして、荷物の中から、黒い帯状の布を取りだした。
「――ラリカちゃんッ! それは出しちゃダメだよッ!」
「――え?」
フィックが血相を変えて、ラリカが荷物から黒い布――確か、ファラスとかいう装飾布を取り出そうとするのを止めた。
「ど、どうしたのです? これから本国でご挨拶するのですから、流石にファラスをつけない訳には……」
「だいじょーぶ! ダイジョーブですから……お願いですから、ヴェニシエスはファラスをしばらくつけないでください」
割と真面目な声音でフィックが、戸惑うラリカに向かって、爆弾魔に向かって爆弾のスイッチを下ろすように説得する警官のようなポーズで姿勢を低くしている。
――一体、何事だというのだ。
「――ファラスは、聖国では、『公務』と正式にアピールしている証拠なんだ。だから、つけてないときは理由もなく礼は取らない――だから、ヴェニシエスがそんなのつけた日には――ね? ――大混乱になるから。ぜっーったいなるから。――ね?」
そう言って、フィックが周囲を示すように辺りを見回した。
ラリカと私は、その視線に従うように辺りを見渡して――
――無数の聴衆の視線に晒されていた事を知った。
眼、眼、眼……
道行く人間
水路を渡るトロアと乗客
水路の近くの売店の店主。
ありとあらゆる人々が動きを止め、私達の動きを注視していた。
無数の瞳が、街道から、水路から、家の窓から、路地裏からこちらを見つめている。
――時間が、止まったような感覚を覚え――背筋の毛並みが逆立った。
つまり、ラリカがファラスを身につけた瞬間、彼らは王都の再現をするように挨拶のためにでも押し寄せてくるのだろう。
それは、文字通り人波の如く……
こ、怖――ッ!
「わ、わ、わかりましたッ! ……その、気をつけます」
慌ててラリカが、怖いものを封印するように鞄の中にファラスを乱雑に突っ込んだ。
それを見て、こちらを見つめていた視線が、一斉に外れて行くのを感じた。
まるで訓練された兵士のような統率の採れた行動に、おもわず二度目の恐怖が湧き上がるのを感じた。
なるほど。確かに入国してから、どうも王都の時のような歓迎は体験せずに済んでいるなと思っていたがこういう絡繰りか……
楽で良いと思っていたが、これは存外恐ろしい魔境に迷い込んでしまったのかも知れない。
変わらず降り注ぐ麗らかな日差しの下、突如襲いかかった恐怖体験を共有するように、私とラリカはぎゅっとお互いに身を寄せ合うのだった。