第二十五話「ラリカ=ヴェニシエスは立ち上がる」[挿絵あり]
寝室を出てから数時間が経過した。
私はずっと部屋の前を落ちつきなく歩き回っている。
毛足の長い絨毯が、足下に絡みつくのを感じながら、考えるのはやはりラリカの事だ。
――彼女はどう感じたのだろうか?
何らかの情動を生み出したのはたしかだ。
だが、果たしてそれは吉と出たのか、凶と出たのか。
――ああ、どうしてあの子は部屋から出てこないのだろう
今もまだ、受けた衝撃の渦中にいるのか?
それとも、もう前向きに考えるようになったのだろうか?
それとも、逆にこれが最後の後押しになって……
様々な、希望や恐怖が脳内をよぎっては消えていく。
一瞬、扉を開けたとき、もっとも見たくない光景が広がっているのを幻視した。
さっき偉そうにあの子に勇気を持てと行った私がこの様ではいけない。
固くすぼみそうになる自分を強く押し出し、乱れ散る心を拾い集めて、腹の底に力を込めて立ち上がる。
大きく息を吸い――吐き出した。
すると、脱力感に苛まれていた体に、少しは体に力が戻ってくる。
――行くか。
行って、あの子がどう受け止めたのかを確かめなくてはならない。
脈打つ鼓動を意識しながら、じわりじわりと這い上がる恐怖を抑え、寝室への扉を開いていく。
薄暗い部屋の中に、窓から少し高さを増した月明かりが部屋の中に差し込み、ちょうどベッドの上をスポットライトのように照らしていた。
少し、ほこりっぽさのある部屋の中で、糸引くように光が線を描き出している。
そして、そんな中。
――ラリカは、ベッドの上で静かに手紙を開き、真剣な表情でじっと紙面を見つめていた。
微かに口元を引き結んだ表情は、悲しみのようにも、後悔のようにも見える。
はじめは、それを見て、タイミングを見誤ったと思った。
手紙をようやく読み始めたところに入ってきてしまったと思ったのだ。
だが、よくよくその姿を見ていると、どこか譲れないものを必死でつかみ取ろうとする表情のようにも見えた。
そう。手紙を何度も読み返して、そして考え、そして読み返す。
ラリカは、その繰り返しの最中であるようだった。
――どちらにせよ、もう少し後に改めた方が良いだろう。
「……くろみゃー」
そっと手紙に集中しているラリカに気取られないよう、部屋を再び出て行こうと後ろを向いた時、声が掠れた聞こえた。
慌てて、ラリカの方を振り向くと、手紙から離れた赤い瞳がこちらを向いている。
視線が合うと、私が口を開くよりも先に、ラリカが再び口を開いた。
「こっち……来てくれますか?」
今度は、少しだけはっきりとした声で、静かに私を招いた。
その声が持つ明確な意思の力に、私はなにも言わずにラリカの元へと歩いていく。
ベッドの上に飛び乗り、ラリカへ近づくと、先ほどまで気がつかなかった目の周りの赤さに気がついた。
よく見ると、鼻の頭も少し赤みを帯びている。
どうやら、私が外で待機していた間、大泣きしたようだ。
今の妙に冷静な様子も、ひとしきり大泣きをして少し落ち着いたというところなのかも知れない。
そっと、ラリカに寄り添うように私が隣に並ぶと、ラリカはふっと微笑みを浮かべて、私の頭を優しく撫でた。
「……くろみゃー……私に、出来ること、あるでしょうか?」
「……ああ」
相変わらず少し掠れた声で、唐突に、そしてひどく抽象的な質問を口にした。
ここに至り、もはや、先ほどのような強い言葉は要らないだろう。
私は、その秘められた感情を想い、ただ肯定した。
「……ほんとですか?」
「ああ」
ラリカは、私に助けを求めるように自信なさげにもう一度問い掛けた。
私は、もう一度肯定する。
「……ほんとうに、ほんとうに、私で、いいんでしょうか?」
「無論だ」
「……私、失敗ばっかりです」
「そうか」
「余計なことばかり、しています」
「そうか」
「これからも、きっと失敗します」
「そうかもしれないな」
「……それなのに、それでも、『何か』をしたら、貴方は怒りますか?」
「いいや。応援する」
「……失敗するかもしれませんよ?」
「それでもだ」
「ひょっとしたら、『何か』なんてしない方が、良かったかもしれませんよ?」
「『何か』のおかげで成功するかもしれん」
「……どっちになるか、分かりませんよ? 」
「どっちになるか分からないから、挑むのだろう?」
「……辛いですね」
「……なら、やめておくか?」
「……やめません」
今度は、明確に自分の意思で、ラリカは『やめない』と明言した。
『何か』を成すため。
失敗するかもしれない。また、後悔するかもしれない。
それでも、それで誰かを助けられるかもしれないから。
リクリスが残した物、それから、これからラリカ自身がする行動。
それらが、みんなの生活を、少しでも良いものに出来るかもしれないから。
挑戦することを諦めないと。
そう、断言した。
「応援……してくれるのですね?」
「ああ。君がこれまで成したこと。そして、これから君が成すこと。その行動。その決意。その意思を私は応援する。肯定する。――勿論、間違っていると思ったときは、遠慮無く指摘させて貰うがな」
「ふふっ……ならその時は、止めてくださいね」
「ああ。――無論だ」
私が、ゆっくりとラリカの中に、記憶の中に、染み渡るように自信たっぷりに頷いて見せると、ラリカは薄い笑みを浮かべた。
そして、手に持っていたリクリスからの手紙を撫でると、封の解かれた封筒の中へとかけがえのないもののように仕舞いこむ。
ラリカは体勢を変え、ベッドを椅子にするように横掛けに座り直し、ベッド横のサイドテーブルに封筒を置いた。
封筒と交換するように、すでに封を開けられている小さな袋を手に取った。
そして、その中から慎重な手つきで一本のリボンを取り出した。
それは、赤いリボンで、今までラリカがつけていた物とよく似ている。
どうやら、リクリスは、悩んだ末、結局今までラリカが使っていたリボンと似た物を選んだのだろう。
ラリカは、リボンを取り出したまま、しばらく自分の中で湧き出る感情を整理して噛みしめるようにじっと見つめている。
手の上で、優しく垂れるリボンは、かすかに震えているように見えた。
やがて、その震えも止まり、ラリカは目をつぶると、丁寧な、慣れた様子でそのリボンを自身の黒髪に巻き付けていく。
最後に軽く先を縛り、リボンをつけ終えたラリカは目を開くと、私の方を向いて口を開いた。
「くろみゃー……似合っていますか?」
「ああ――よく似合っている」
私の言葉を聞いて、ラリカは指先で軽くリボンを揺らした。
「そうですか」
「――そう、でしょうね」
一度言った言葉を言い直した。
リクリスが選んだもの。それが、似合わない訳がない。
そう言いたげに自信を持った言葉だった。
その言葉が、嬉しいような、悲しいような。
いや、『切ない』というべき感情を巻き上げる。
私はそんな感情から、少し気を紛らわせるように、ラリカの顔から視線を逸らした。
ベッドに腰掛けている、ラリカの足先を見つめる。
このところ、碌な食事を取っていなかったからか、服の間から露出している足は月明かりの下でも分かるほど、血色が悪く真っ白だった。
「――くろみゃー……」
「――ん? どうし――ッ!?」
頭上から投げかけられたラリカの言葉に、反射的にラリカの足下に向けていた顔を上げると、ラリカの指先が目前に迫っていて、つんと鼻先につけられた。
ねっとりとした感触が鼻先を覆い――猛烈な薬品的な刺激臭が鼻腔を襲った。
「――な、っなんだッ!?」
慌てて前足で鼻先を押さえながら、思わず戸惑いの声を上げた。
見てみれば、先ほど突きつけられたラリカの指先には軟膏のような物がつけられている。
どうやら、アレを塗りつけられたらしい。
「リュージュの軟膏です。――お前も、随分悲しんだのですね。鼻の頭が赤くなっていますよ」
リュージュ? リュージュというとあれか、市場で会った商人が持っていた樹液の塊の。
確か、軟膏にするとひどい臭いだと言っていたが……確かにこれはひどい。
「――んッ~~!」
そして、ラリカは自分の鼻にも、ちょんと軟膏を乗せる。
乗せた瞬間、目をぎゅっとつぶり、声にならない悲鳴を上げながら身悶えしている。
「――本当に、ひどい臭いです」
そういって、私に向かって、ラリカはくしゃりとした笑顔を浮かべた。
目尻には、きらきらと輝く涙が浮かんでいる。
きっと、その涙はこの刺激臭のせいだけではないだろう。
――まったく……誤魔化すにしても、これはちょっとないんじゃないだろうか?
ラリカは、そのまま、サイドテーブルの上に最後まで残されていた指輪を手に取ると、左手の薬指に勢いよく通し、表情を引き締め、私に向かって告げた。
「これからも――よろしくお願いします」
「――こちらこそ」
「それから――」
「――ありがとう。くろみゃー」
改まった様子で話すラリカに、私も真剣に答えると、ラリカは再び笑顔になった。
そのほんの少しだけ大人びた。だけどやっぱり子供らしい明るさも持った表情は、今度こそ、演技ではないようで、月明かりのもとで、とても綺麗だった。
そして、そのまま、ラリカは努めて巫山戯るように少しだけ口を尖らせる。
「――くろみゃー。お腹が減りました。なにか作ってください」
「……だから、君はミルマルになにを期待しているのだ……果物程度なら出してやるから、それで我慢しなさい」
「残念……いつもは私が作っているのですから、今日くらい良いではありませんか」
そういうラリカは、少し甘えた声で、でも普段よりちょっと絡みがちで。
「まったく……この手では料理など出来るはずがないだろう。そうだな。料理はいつか……いつか私が人間になることでもあれば作ってやろう」
ついつい、こちらも甘いことを言ってしまうのだ。
いつか、私が人間に戻る事などあるのだろうか?
だが、そうなったとき、目の前の少女に料理の一つでも作ってあげるというのは、素敵な考えだと思えたのだ。
きっと、この子は凄く驚いて――
そして、楽しんでくれるだろう。
「ふふっ、なんですか? それは。私が生きている間には、無理そうですね」
――そして、そんな事情を知らない主人は、屈託なく笑い飛ばすのだった。