第二十三話「カミが残した物。少女の遺した物」
私が目を覚ましてから、二日が経った。
フィックが定期的に施してくれる治癒魔法のおかげか、目覚めた当初に全身を襲っていた痛みは随分とマシになった。
では、ラリカはどうなったか?
――まったく状況は好転していない。
この二日、ラリカはずっと部屋に引き籠もって、何をするでもなくベッドの上で虚空を見つめている。
私が様子を見ようと、近づいたときにのみ、無言でゆっくりと私を抱きしめて目を閉じる。
そして、しばらくすると眠りにつくのだ。
逆に、私が居ない間は、決して眠りにもつかず、ずっと部屋の隅を見つめ、ぼうっとしているだけだ。
まだ、私が目覚めたときの方が、言葉を発し、感情を露わにしていた分、マシだったのかもしれない。
今のラリカには、数日前まで黒髪の少女とふざけていた時の、どこか生意気な、強い意志はまったく感じられなかった。
――言いたくはないが、『心が壊れた』という奴なのかもしれない。
こんな事を考えたくはないが、十代そこそこの少女がこれだけ立て続けに人の死に触れ、かつ同年代の友人を失い、その責任は自分にあると聞かされる。
これでは、心が壊れたとしても無理からぬ事だった。
それに、ラリカは麻薬事件などと失敗や後悔はあれど、結果的には順調な人生を歩んできている。
そう。それはつまり挫折の経験が少ないということを意味している。
そして、ラリカは本質的に真面目で責任感が強い。
だから、今回の一件は恐らくラリカに取って重すぎるのだろう。
『消えたくなった』という言葉がカエシのついた刃のように私の中で引っかかっていた。
いずれ、時が解決するとは言っても、このままではその前に自殺などと言い出しかねない。
そうならないためにも、なんとかしなくてはならない。
でも、どうすれば良いのか分からない。切っ掛けが見つからない
あれから私は、なんとかラリカを立ち直らす切っ掛けを作らなくてはならないという焦燥感に駆られていた。
今も、ラリカが放ったままにしてしまっている荷物を片付けながら、思索を巡らせている。
――ラリカを立ち直させるにはどうすれば良いだろうか?
リベスの町へ送り返すというのも考えた。
確かに、家族や勝手知ったる人達の居る町は居心地だって良いだろうし、町の皆だって受け入れてくれるだろう。
心を癒やすには最適の環境かもしれない。
だが、それは、もう一度立ち上がる力を手に入れるには、最悪の環境であるとも言える。
今のどん底の状態で、自分の居た町へ戻るというのは、安穏とした狭い世界へと逃げ帰るというのと同義だ。
なにせ、体感的には長い時間のように感じるが、まだラリカは初めての旅に出たばかりだ。
初めての経験で、いきなり出鼻をくじかれて、つぶれかけている状況なのである。
そんな中、平穏へと逃げ帰ったとすれば、それは、ラリカの最後のプライドを奪い去る事になりかねないし、次、先に進もうとする時、挫折してしまった恐怖の経験としてトラウマ――足枷になってしまうだろう。
そうして一度染みついてしまった恐怖はなかなか消えてくれない。
時を変え、場所を変え、あらゆる場面で冷たく絡みつき、体を重く震えさせるのだ。
何かがある度、かつての体験とのほんの僅かな類似性を見つけてしまい、一歩が踏み出せなくなる。
踏み出すための心を――『勇気』を持つのが難しくなってしまうのだ。
俗な言い方をすれば、『負け癖』がついてしまうというやつだ。
逆に、これを恐怖とするのではなく、ちゃんとした意思の力で乗り越えられれば、それはこれからの人生を進む上で困難を乗り越えるための自信になり、大きな糧となってくれるだろう。
まだ、ラリカは幼い。
今後の飛躍につながる可能性を、ここでつぶしてしまっても良いものだろうか……?
――先々の可能性を閉ざしてでも、『今』を生かすためにリベスの町に連れ帰るか。
――あるいは、ラリカが絶望から『消える』ことを選んでしまう危険性を甘受しながら、ラリカを信じ、自分の力で先に進む事に賭けるのか。
決断を迫られていた。
――だが、正直に言おう。
私は内心、今のままラリカが再び立ち上がるには、切っ掛けが足りないと思ってしまっている。
今のままでは、立ち上がるために必要な外部からの刺激があまりにも少なすぎるのだ。
部屋の中に引き籠もっているだけでは、自身の思考の深みにはまっていくだけだ。
そうして、植え付けられた自責の念で底へ、底へと沈んでいく。
きっとそれは、ゆっくりとした生の放棄とでも言うべき状況をもたらすだろう。
遥か底へと沈んでしまった心を引っ張り上げる、『何か』が必要なのだ。
それは、細い蜘蛛の糸でも良い。垂らす糸が必要なのだ。
いっそ、怒鳴りつけてでもみようか――
実際そんな事をすれば萎縮するだけだとは分かりつつ、考えてしまう。
――そんなとき、片付けていたラリカの荷物からコロンと何かが転がり落ちて床を転がった。
「おっと……」
何が落ちたのかと、転がった先を見てみると、そこにあったのはあの日見た雪華の指輪だった。
指輪に埋め込まれた赤い宝石が、窓からの光を反射している。
――ああ、そういえばリクリスが指輪を買ったとき、ラリカが取り出していたな。
指輪を両手で大切そうに抱きしめながら、くるくると喜ぶ少女の姿を思い出して、かぁっとこめかみが熱を帯びた。
――あの時の、リクリスは本当に嬉しそうだった。
次々と、リクリスの少し照れを含んだ嬉しそうな顔が思い出されていく。
短い間だったが、その過ごした日々の密度に比例し、随分色々な表情を見た物だ。
そうだ。やはり、あの子が一番嬉しそうにしていたのは、多層構造術式が完成した時だったな。
笑顔で瞳を潤ませながら、ラリカに飛びついたのだったか。
――ッそうか。
そう考えて、ふと、唐突に気がついたことがあった。
フィックから受け取った、ラリカが手配していた紙束についてだ。
あれは、何をするためのものかと思っていたが、リクリスに論文を書かせるためのものか。
リクリスが居なくなってしまった今、もはや書くものが居なくなってしまったが、ラリカとリクリスが共同で生み出したもの。
リクリスが、確かにここにいた形として、なんとか形にしてやりた――
……思わず、床の上に転がった指輪を見つめた。
あの時、ラリカとリクリスは確かに多層構造術式を完成させた。
では、あの時問題となったのはなんだった?
どうして、形にする事が出来なかった?
――『書き込める媒体がなかった』
――思い出せ。どこかで、媒体に関する話を最近しなかったか?
思い出すのは、皆で食事に行ったときの事だ。
そう。賑やかな金髪の女性が言っていたではないか。
『神器は最良の媒体である』と。
――この指輪はなんだ?
――雪華は一体何者だ?
――神器の特徴と言えばなんだ?
それは、天啓とも言うべきひらめきだ。
勝手な妄想かもしれない。
だが、しかし――
ドクドクと心臓が音を立てて拍動を早めていく。
まさか――
「――フィーッ! フィーッツ!」
床に落ちた指輪を咥えると、逸る気持ちを抑えながら、私が知る中で今最も卓越した知識を持つらしき女性がいる研究室に向かって駆けだしたのだった。
***
「――うん。くろみゃーちゃん。こーれは間違いなく神器だよ。それも、カミ様が、かなり気合いを入れて作ってる。力作だねー」
「――そうか」
フィックの研究室は、先日お互いの攻撃魔法を打ち合ったことであちこち穴が開いたままになっていた。
整理されていた書棚も、中身が取り出されて積み上げられている物もある。
そんな荒れ果てた部屋の中、机に座ってなにやら書類と格闘していたらしきフィックは、私が訪ねるとなにがあったのかと驚いた顔をしたが、文句の一つも言わずに招き入れ、お茶のような物を入れてくれた。
私は、あくまで雪華の事は説明せずに、ただ、ラリカとリクリスの研究内容と、この指輪が神に由来するかもしれないという事情だけを説明して雪華の指輪を見て貰った。
――本当に、『まさか』という可能性だけを持って相談したのだが、どうやらあたりだったらしい。
雪華の指輪は、間違いなく神器であるようだった。
では、そうなると次の問題はこの神器に、ラリカとリクリスの研究成果を反映させる事が出来るのかということだ。
「それで、くろみゃーちゃんは、これにリクリスちゃんと、ラリカちゃんが考えたこの魔法の術式を封入したいんだね?」
「――ああ。――出来るか?」
その身から漂わせる雰囲気を、普段の騒がしい女学生のようなものから、学者のようなものへと変質させ、ルーペのような器具を使って指輪を鑑定していたフィックは、顔を上げると、確認するように私を見つめた。
赤い瞳が、正面から私を見つめてくる。
私も、思わず四肢に力が入るのを感じながら、真剣に彼女の瞳を見つめ、実現が出来るのか問うた。
フィックは、片手を口元にあてがうと、少し視線を伏せて考え込んだ。
それほど長くはない時間だったのだろう。
だが、時計一つ無い部屋の中、返事を待つ間は永遠のようにも感じられた。
「――うん。封入できる術式の数は限られるけど、出来る……よ。確かに、二人が考えた物を、形にする事が、出来るね」
やがて、フィックは天を仰ぎ、再び私に視線を向けると、少しの逡巡を見せながら太鼓判を押した。
どうやら、こちらの要望に沿った物を作り上げることが可能らしい。
――ならば、これだ。
ラリカと、リクリスが生み出した成果。
リクリスが確かに居たという証。
そして、リクリスが求めた先にある物。
今、私に用意できる、蜘蛛の糸の中では、これが最大のものだ。
これで、ラリカを引っ張り上げられなければ、そのときは本当にリベスの町へ押し込んで、先の可能性をつぶしてでも休養させる。
――そう、これが、決断のための試金石だ――ッ!