第十六話「疑いと怨嗟の声」
「リクリスッ! しっかりしてください! ――リクリスッ!」
微かに水気を帯びた石造りの路地に横たわって目を閉じているリクリスを抱きかかえると、ラリカは必死にリクリスを揺さぶった。
手当の事までは頭が回らないようで、先ほどからひたすらにリクリスに呼びかけている。
私も、爪を立てたり、噛みついたり、治癒の魔法を発動したり、思いつく限りの事を試していく。
だが、魔法の光は虚しく消えて、ただただ、ラリカが揺さぶるに合わせて、力なく黒髪が揺れるだけだ。
終ぞ、王都に来てから、毎日のように見つめてきたエメラルドグリーンの瞳が開かれる事は無かった。
路地裏で、大声を上げる少女の姿に、町ゆく人々も異常を察知したのだろう。
ざわざわと、俄に興奮を秘めたざわめきが、私達の元へと近づいてくる。
ラリカの姿を見て、『ヴェニシエス?』と呼びかける声や、察しの良い者たちが、兵士を呼ぶ声も聞こえる。
しかし、今、私達にそんなものの相手をしている余裕は無かった。
***
今、私達は、教会の自室にあるベッドの上で呆けていた。
不思議と、ここまで私もラリカも、涙を一滴も流さなかった。
正直、今までのことはあまりよく覚えていない。
兵士たちの詰め所に案内されたこと。
そこで年若い兵士から白湯を差し出されたこと。
それから、以前、吸血鬼に刻んだ刻印の場所を確認されたことだけ覚えている。
――そういえば、以前は私が声を発することが出来なかったから、ラリカが曖昧に刻印を刻んだことだけを伝えたのだった。
その問いに、ラリカは言葉少なに『左手』とだけ答えていた。
ラリカの心情を察してか、教会の者たちも、みな悲痛な表情を浮かべてはいたが、過剰に騒ぎ立てることはなく、最低限の世話だけをすると、私達を放っておいてくれた。
そして、今は、ただ喪失感……虚無感が、私達を支配していた。
体の一部、特にお腹の上から、胸に欠けて。
内臓をすっぽりとどこかに置き忘れてしまったような感覚が染みつき、私の四肢から熱気を奪っていった。
――代わりに、どろりとしたタール状の感情が絡みついている。
こうしている今だって、どこかからリクリスの声が、困ったような、慌てたような、自信に欠けた舌っ足らずな声が聞こえてくる気がする。
『ラリカさんっ! くろみゃーさんっ!』
しかし、もう、その声は聞くことが出来ないのだ。
そう思ったとき、ようやく頬を何かが伝い落ちるのを感じた。
そして、一度気がつくと、もうだめだった。
涙が、目からこぼれ落ち始めた。
だめだ……ラリカが居るのだから。
幼い少女が、居るのだから。
私が泣いていてはいけない。
私は、泣き顔をラリカに見られないよう、顔を伏せ、ベッドのシーツに鼻先を押しつけた。
一……
二……
三……
ゆっくりと頭の中で数字を数えて落ち着かせていく。
両肩に力を入れ、大きく抜く。
そうすると、少し目の奥の熱さが収まり始めた。
再び頭の中で数字を数えることで、ようやく瞳から流れ落ちる滴は収まりを見せてくれた。
ゆっくりとシーツから顔を上げ、ラリカを見上げる。
ラリカは、まだ呆けた様子で壁を瞬きもせずに見つめている。
だらりと垂れ下がった両手は、ベッドの上に力なく添えられていた。
「……ラリカ」
そんなラリカの姿が見ていられなくて、声を掛けた。
ラリカが、感情の抜け落ちてしまった表情でこちらを向いた。
「……くろ……みゃ……ぁ……」
ラリカが引き攣れた声音で私の名前を呼んだ。
抜け落ちていた表情が、少しずつ、しかし確実に悲しみの色に染められていく。
やがて、不意に大きく動いたかと思うと、ベッドの上の私を抱き込んだ。
顔を覆うように、ラリカの胸元に押さえつけられて、視界が真っ暗に閉ざされた。
「くろ……みゃぁ……くろ、みゃぁ……」
閉ざされた視界の中、ただ、私の名前を呼ぶだけの、意味を持たない言葉の羅列がどんな刃物よりも鋭利に私の心を刺し貫いた。
「くろみゃ……くろみゃぁ……」
なおも、震える両手で私をかき抱いたラリカは、私の名前を呼び続け、ぽとぽとという湿った音を室内に響かせ続けた。
***
ラリカがようやく泣き疲れて眠ってくれた。
月明かりがぼんやりと照らし出す寝顔も、いつぞや見た安らかなものではなく、頬には涙の乾いた後があり、苦悩に満ちた表情だった。
見ず知らずの少女が殺されてあそこまで取り乱した子が、親しくしていた友人の直面すれば、こうなっても無理からぬ事だ。
そして、私は――
――こうしている今も姿のしれぬ吸血鬼とやらに。
そして――なによりも自分自身に怒りを覚えていた。
――まただ。
……また、私は――
この、死後の夢のような世界に、平和呆けしていた事は否めない。
もし、あの路地裏での交戦で、私が刻印ではなく、攻撃系統の魔法を使っていれば、こんな事態は防ぐことが出来たのかもしれない。
今も、リクリスの笑顔を見て、みんなで笑い合うことが出来ていたかもしれない。
――そう、思うのだ。
あの時は、『ラリカの指示だから』と思っていたが、やはり私自身甘えがあったのだろう。
平和を尊しとする日本という国で暮らしてきて。
……出来ればもうだれも傷つけたくは無いと。
相手を傷つけるということ自体にも心のどこかで抵抗があったのは確かだ。
だが、そんな甘えが、リクリスを殺したのだ。
次は、次会ったときは、決して甘えてなどやるものか。
これ以上被害を広めないためにも、リクリスの敵はかならずとってみせる。
――しかし、ハイクミアの吸血鬼とは一体何者なのだろうか?
やはり、皆が言うとおり、本当に魔族の類いなのだろうか?
あの夜、私が戦ったフードの人物は、人の形をして確かに魔法を使っていた。
被害者の女性も――リクリスも、全身の血液を取り出されていた。
いったい……犯人の目的はなんなのだ。
もし、仮に私が聞き知っている吸血鬼のような物であれば、捕食目的か?
だが、それであればハイクミア教徒ばかりを狙う理由はなんだ?
写本の妨害を行って、知識の普及を妨げるための破壊活動だろうか?
だが、そうなると今度はなぜ血を抜くなどという回りくどい事をする必要があるのか。
――どんどんと焦りと怒りに乱れた思考が空回りを始めていく。
果たして、私はあの吸血鬼を探し出すことが出来るのか?
町に張り込むか?
いや、それにしたってあの吸血鬼を特定できる情報といえば、体格と、左手に刻み込んだ『刻印』の魔法だけだ。
そんなもの、町ゆく人々すべてに確認していくなど不可能だ。
現に、今頃血眼になって捜査に当たっているだろう兵士の方々も全く目星がつけられていないようではないか。
ああ、だが兵士は左手に刻印を刻んだと言うことを知らなかったのだったな。
となれば、怪しい人物を捕縛して、どこかに刻印が無いか調べるだけになっていた可能性が――
――ちょっとまて。
『兵士も、刻印の場所を知らなかった』だと……
――おかしい。そうなると、一人、明らかにおかしな物言いをした人物がいるでは無いか。
私の頭の中で、今まで感じてきていた違和感が、少しずつ、少しずつ形を成していく。
――まだ、理由が分からない。
それに、今まで犯人から除外してしまっていた理由も確かに存在する。
だが、今、私の中で疑惑が吹き上がり始めた人物の元へは向かわなくてはならないだろう。
私は、ラリカが眠っている事を確認すると、そっと部屋を抜け出し、教会の廊下を駆け抜けていった。
***
私は、目的の部屋へとたどり着いた。
低い視点から、木製の扉をじっと見つめると、床との隙間から暖色の光が漏れ出している。
どうやら、部屋の主は中にいるらしい。
――さて、この扉をどうしたものか。
頭上高くにつきだしているドアの取っ手を見上げながらしばし思案する。
取っ手に前足を掛けて中に入ることは可能だ。
だが、もしこの部屋の主が、犯人と無関係だった場合、扉を開けて入室してくるミルマルなど、奇異の視線を向けられるだけだろう。
――悩んだ末、悩んだ末、私は黒い毛に覆われた前足をすっと伸ばし、家猫のごとくかりかりと扉を遠慮がちにひっかき始めるのだった――
「んー? おっと、くろみゃーちゃんどーしたの?」
やがて、かすかに私が扉をひっかく音に気がついた部屋の主は、後ろに向かってひっつめた金髪を撫でながら顔を出した。
その人物は、いつものごとくすっとぼけた声を出して、こちらに向かって両手を伸ばした。
――フィック=リス
彼女の言動には、無視できない不審な点があった。
だから、私は確かめねばならない。
彼女が犯人なのかと。
――リクリスを殺したのかと。
「めーずらしいねぇ。くろみゃーちゃんが私のところに来るなんて。ひょっとして、リクリスちゃんの件でお部屋追い出されちゃったのかなー? ……さ、おいでー。こっちだよー」
フィックは、なにやら悲しそうな顔をすると、落ち着いた優しげな笑みを浮かべて私を抱き上げた。
普段のがさつな掴み方とは違い、ふんわりとした優しい触れ方だった。
最近よく着ているらしき半袖からのぞく肌が、私の毛並みと触れてさらさらとした感触を伝えてきた。
研究室というにふさわしい室内は、先日リクリスと一緒に訪れたとき同様、綺麗に片付けられている。
机の上では、カップが白い湯気を立てていた。
どうやら、お茶を飲みながら本を読んでいたらしい。
見慣れない文字が連なった本が机上に広げられている。
「くろみゃーちゃんは、何か飲むかなー?」
私が物珍しげにカップをのぞき込んでいたのに気がついたのか、フィックが私に問いかけた。
フィックは私が人語を解する事を知らないはずだ。
だから、これはおそらく独り言の類いに入るのだろう。
ただ、『騒がしい奴』という印象だったが、どこか内向的な繊細さも持っているらしい。
「よいしょっと」
そんなかけ声をあげたフィックが、私を机上へと載せた。
どうやら、椅子では無くテーブルの上に座らせるつもりらしい。
私はテーブルの上で前足と後ろ足の距離を短くして姿勢を正すと、しっぽを鍵の形にふわりと揺れ動かしながらフィックを見つめた。
そして、そんな私をみたフィックは、ふふっと笑うと目の前の椅子に座った。
ラリカに似た赤い瞳と、私の瞳が正面から見つめ合う形となった。
「それで? くろみゃーちゃんはなにようかなっ?」
フィックが、普段通り、話もしない私に向かって、おちゃらけた様子で私に話しかける。
その様子は、いつもよりどこか無理をしているように見えるが、決して悪人とは思えない。
どころか、なぜか痛々しさを感じる。
そう。かわいい同僚を失って無理をして強がっているようだ。
――だが、この目の前で笑う女性が、怪しげであるのは間違いないのだ。
――昨日の食事会で、フィックは確かに言ったのだ。
――『『刻印』魔法を相手の左腕にぶつけておくなんて』と。
兵士も知らないそんな話、その場に居たものか、その関係者以外知るはずも無い。
そして、私はあの日確かにフードに隠された金髪を見たのだ。
極めつけは、事件のあった時間帯彼女はどこかに消えていたらしい。
フィックが怪しいのは確かだ。
しかし、それと同時に私を悩ませるのが、半袖から除く左腕だ。
ほっそりとのぞく左腕は真っ白で、あの日刻み込んだはずの刻印は影も形もなかったのだ。
「あははー……話しかけても答えてくれないよねーそりゃ……」
私が真剣に考えている間も、何か声を掛けていたらしいフィックが困ったように笑っている。
本当に、なにも考えずに私を室内にあげたらしい。
そこには、敵意というものは感じられず、とても一戦交えた相手に向ける態度とも思えない。
それが、余計に私の判断を鈍らせていた。
少ない機会とはいえ、フィックの様子を見ていて、おちゃらけた態度の裏で、自ら『お姉さん』というのに納得できる程度には、しっかりと相手を思いやる優しさを感じていた。
だから、連続殺人などというおぞましい事件を起こす人物とつながらないのだ。
怪しげな材料が出そろっていても、私は彼女を疑い切れずに居る。
良きにせよ、悪しきにせよ、なんとか、それらしい証拠を掴めないだろうか。
――決定的な何か。
「あ、そーだ。良いものをあげるよ! ちょーっと出て行くから大人しくしてるんだよー? 時間かかってもさみしがってあちこちひっかいたり、散らかしちゃダメだからね」
フィックが、思い出したかのようにポンと両手を打つと、慌てた様子で言い聞かせるように私に指を突きつけ言い聞かせながら部屋の外へと飛び出していった。
――忙しないことだな。
だが、これはチャンスと捕らえた方が良いだろう。
先ほどの口ぶりからして、戻ってくるまでは少々時間がかかりそうだ。
その間に、なにか証拠になるものが無いか物色させてもらうとしよう。
若い女性の部屋を物色するというのには少々抵抗があるが、この際致し方ない。
そう考え、私は机を飛び降りると、念のため瞳の力を起動し、細やかな金色の粒子に満ちた室内の探索を始めた。
***
しばらく室内を探索していると、部屋の片隅に怪しげな箱が一つひっそりと置かれていることに気がついた。
沈んだ黒色をした上質そうな木材に、金細工が施された箱で随分と高級感がある。
貴重品でもしまい込んでいるのだろうか?
ひょっとすると、女性らしく、宝飾品の類いでも仕舞っているのかもしれない。
だが、先ほどからこの箱に向かって、かすかだが、金色の粒子が集まっているように見受けられた。
それに、本当に僅かだが、生臭い血の香りが漂っているようにも感じるのだ。
――ひょっとすると気のせいかもしれない。
そう思ってしまうほどに、かすかな変化だ。
しかし、見過ごす訳にはいかない。
私は、少々の罪悪感を胸に秘め、ゆっくりと箱に近づき、前足を箱に掛けると、そっと上蓋を押し開けた。
「ぎぃぃあああああああああああああああああ!!」
箱を開けた瞬間、音のない、無音の悲鳴が体の芯を突き抜けていった。
まるで、地獄の底で、この世に未練を残した亡者たちが、今を生きる生者たちに恨みつらみを吐き出しているかのような怨嗟の声だった。
ぶわり――と全身の体毛が反射的に逆立ち、体が数倍にふくれあがったように感じた。
開いた毛先から、寒々しい粘着質な黒い冷気が霧のように体の表面にまとわりついて――
――早く、早く、早く、早く
空回りする思考の中、全身の意識をただ前足に集中して、強張る体を動かして、前足を箱から離す――ッ
ゆっくり、ゆっくりとスローモーションと化した世界の中で、箱の蓋が閉まってゆく。
――箱の蓋が閉じた。
そう。パタリと軽い音を立てて、あっけなく箱の蓋は閉じられた。
すると、世界は日常の音を取り戻し、まるで、先ほどの体験は幻であったかのように、周囲はただの静かな部屋へと戻っていた。
バクバクと耳の奥で壊れたラジオのように雑音混じりにがなり立てる心臓だけが、自分の体験が白昼夢では無いと証明している。
「――やっぱり、くろみゃーちゃんだったんだね」
――後ろから、冷たく、悲しげな声が聞こえた。







