第二話「蒼き巫女の祈り」
その夜、自室に戻ったラリカは、すぐにベッドに潜り込んだ。
どうやら、引き続き同室で寝泊まりすることになったらしいリクリスも一緒だ。
気丈にはふるまっていたが、どうしても精神的な疲れも溜まっていたのだろう。
すぐにラリカは可愛らしい寝息を立て始めた。
リクリスもそんなラリカを見て、何も言わずに、後を追うように目を閉じた。
――聞きたいこともたくさんあっただろうに、私たちに気を遣ったらしい。
私も、しばし二人の年相応にあどけない寝顔を眺めた後、二人の間に潜り込んで眠りについた。
***
眠りについて、どれほどの時間が経ったころだろうか?
誰かが動く気配に目を覚ました。
寝ぼけて落ちようとする瞼を押し開けると、丁度ラリカが布団から抜け出るところだった。
私たちを起こさないようにと考えてなのだろうか?
そろりそろりと音を立てないように気を付けながら寝室の扉に向かって歩いている。
――手水か?
「ラリカ……?」
なるべく小さな声で呼びかけると、ラリカは両肩を大きくはね上げた。
「く、くろみゃー……すみません。起こしてしまいましたか」
振り返ったラリカは、ベッドで身を起こす私を見つめ、申し訳なさそうに頭を下げた。
「いや、構わん。――それで? どうしたのだこんな夜更けに」
「いえ、少し目が覚めてしまいまして。外の空気でも吸ってこようかと思ったのですよ」
ラリカは、隠し事の見つかった子供のように照れくさそうに、そして後ろめたそうに笑った。
その笑顔に、少し不穏な陰のようなものを感じる。
「そうか……ならば私も一緒に行こう」
「良いのですか? お前はゆっくり眠っていても良いのですよ?」
「なに。私も少し目が冴えてしまってな。ちょうど良い気分転換だ。それに、主人と夜の散歩というのもオツなものではないか」
「……何を馬鹿なことを言っているのですか」
ベッドから降りながら、首を振って毛並みを整えながら近づく私に、ラリカが呆れたように、でもどこか安堵の混じった表情を返した。
「さあ、リクリスを起こしてしまう前に外に出るぞ」
いくら小さな声とはいえ、あまり話し続けていてはリクリスが起きだしてきてしまうかもしれない。
私はラリカを急かすと、ぴょんと飛び上がりドアノブに手をかけると、反動を利用して扉を開けた。
木製の扉が、ギィとかすかに擦れ合う音がしてゆっくりと扉が開いていく。
「――そんな風に扉を開けていたのですかッ!?」
何やら背後で、主人が驚愕のつぶやき声を上げている。
――そういえば、扉を開けるところは見せていなかったな。
***
夜の教会を歩き出した私たちは、中庭にやってきていた。
ところどころにうっすらと照明が焚かれ、それを補うように月明かりが辺りを照らしている。
夜風に当たるには絶好のスポットだった。
特に会話をするでもなく、赤い上着を羽織ったラリカの肩の上で揺られながら、吹き抜ける風と、自然が奏でる音に耳を澄ませていた。
中庭の中央に設けられたガゼボにたどりついた私たちは、そこで立ち止まり、休息をとることにした。
「――綺麗、ですね」
杖を立てかけたラリカが、ぽつりと息を吐き出すようにささやいた。
静かな声音と同じように、その表情もどこか物憂げだ。
「ああ。そうだな……」
「……あの子は、もうこの世界を見ることが出来ないのですね」
「……そうだな」
事件に行き遭ってしまった興奮が冷めたことで、少しずつ少女の事を想い始めたようだ。
もはや、世界を見渡すことの出来ない少女に代わるように、切なそうに、悲しそうに、ラリカが周りを見渡している。
「……せめて、ヴェニシエスとして。それから――ラリカとして、祈ることにします」
ぎゅっと両目をつぶったラリカは、ごしごしと手のひらで両目をこすった。
――再び目を開けたとき、ラリカは一転して厳粛な雰囲気を全身に纏っていた。
ベンチから立ち上がり、ごそごそと胸元を漁ると、紐で首から吊るしていたフィムスを取り出した。
「――吹くのか?」
「……こんな時間では、教会の皆さんには申し訳ないでしょうか……?」
私の問いかけに、少しだけばつの悪そうな表情を浮かべたラリカは、フィムスを胸元に戻そうとする。
そんなラリカが、たまらなくいじらしく感じ――
「――なに。こうすれば良いさ」
私は教会の建物を包み込むように、防音の魔法を展開させた。
これでいくら笛を吹いても、教会内にいる人間に迷惑をかけることはないはずだ。
「……これだけ大規模に魔法を展開できたのですね」
ラリカは魔法の規模に感心したようだ。仕舞い直そうとしていたフィムスを持つ手が止まっている。
「さあ、存分に演奏するといい――あの子のところに届くまで」
「――まったく。本当にお前は『出来るミルマル』ですね」
夜空に輝く月のように、美しい笑みを浮かべたらラリカは、表情を引き締めなおすとフィムスに口を付けた。
丘の上で聞き惚れた時のように、ラリカが軽く息を吸い込んで息を吹き込む瞬間、世界が変わったように感じた。
以前聞いたものとは少し違う旋律だ。
――情熱を感じるような吹き回しで
――しかし、どこか哀し気
表現するのが難しい。
だが、狂おしい想いだけが伝わってくる。
――そんな旋律だった。
月明かりの悪戯か、真剣な表情を浮かべるラリカが、どこかいつもより大人びて見えた。
そして、その姿は穢れを知らない巫女のように美しく気高かった。
ぼうっと、頭の奥がしびれるような感覚を覚える。
いや、これは聞き惚れ、見惚れているからか。
ラリカの演奏が続く間。私はずっと夢と現の境界を彷徨い続けた。
「……何を泣いているのですか」
演奏を終えたラリカが、私の方を向き、恥ずかしそうに視線を逸らす。
「――なんだと?」
ラリカの言葉に、慌てて前足で顔を拭ってみる。
すると、確かに前足が熱く湿っている。
――どうやら、私は気が付かないうちに涙を流していたらしい。
「……あまりに、ラリカの演奏が素晴らしくてな」
「――あんまり、恥ずかしいこと言わないでください」
ラリカは、照れた様子で不貞腐れたようにそっぽを向いている。
「……何というのだ?」
「え?」
唐突な私の問いに、戸惑ったようにラリカがこちらを振り向いた。
どうやら、質問が分かりづらかったようだ。
「……何という、曲なのだ?」
「ああ。そういうことですね。――『蒼き巫女の祈り』という曲です」
ラリカは、吹き終えたフィムスを両手でぎゅっと握りしめながら私に微笑みかけた。
「『蒼き巫女の祈り』か……」
「――昔々、大昔。まだ神様の時代だった頃。とある神様の下に一人の美しい少女がやってきました」
ラリカは私の横に腰かけなおすと、謡うように語り始めた。
優しい表情で、無数の星々と庭園、そしてその先を眺めるように遠い目をしている。
「少女は、神様に向かって言いました。『神様。どうかその御力を私達にお貸しください。このままでは私たちは皆死に絶えてしまいます』」
芝居がかった声でラリカが少女の声を演じて見せる。
突如始まった芝居は、どうやら、『蒼き巫女の祈り』とやらの伝承を語って聞かせてくれるらしい。
「その頃の人間は、とてもとても弱い存在でした。魔法もなく、力も弱く、神様や魔獣達から身を守る術を持ちませんでした。だから、人間たちは住む場所もなく、毎日隠れるようにひっそりと暮らしていました。そんな少女に神様は言います。『どうして、私が人間を助けなくてはいけないんだ』」
ため息をつき、肩をすくめたラリカが、やれやれという風に首を振った。
「『神様、神様が望むものを言ってください。私がお渡しできるものなら、なんだって差し出します。なんだってして見せます。だからどうか、お慈悲を与えてください』」
ラリカは両手を広げると、天を抱きしめるように差し出した。
白い肌が、月明かりを反射して白い光を放って見えた。
「『なんだって差し出すといったな? では、人間の目から出る透明な水を私に寄越せ』神様の言葉に戸惑った少女は問い返します。『目から出る、透明な水とは涙のことですか?』『涙というのか? 確か人間は、その涙とやらを垂れ流すことを泣くというのだったな。私は泣いた経験がない。涙があれば泣けるのだろう?』泣くということを理解していない神様の言葉に、少女は困ってしまいました。『恐れながら神様。涙をお渡ししても、きっと泣くことはできないでしょう』『なんだと? ではどうすれば泣くことが出来るのだ?』少女の言葉に、神様は聞き返します。『人間は、悲しい時、嬉しい時に自然と涙を流すのです』切々と訴える少女の言葉に、神様は興味をなくしたように言い放ちました。『そうか。私は悲しいことも、嬉しいことも有りはしない。泣くことが出来ないのなら、もう良い。お前の願いをかなえる必要もない』と」
そこで一度言葉を切ったラリカは、大きく息を吐き出すと、表情をきゅっと真剣に締めなおした。
「『神様! 実は人間は、悲しい時や嬉しい時だけなく、心動かされた時に涙を流すのです』少女はそこで決意を込めたように神様を見据え言いました。『神様、今から私が神様の心を動かして見せます』そういうと少女は一本の笛を取り出しました」
語りに合わせるように、ラリカは少し体を傾け、私の方に向き直るとフィムスを持ち直した。
「笛を取り出した少女は、神様を見つめ、目を瞑るとそっと笛を吹き鳴らし始めました。その音色は、とても哀しく、嬉しく、そして情熱的にありとあらゆる感情が籠もっていました。そうして吹き鳴らし終えた少女の目からは、大粒の涙が零れています。『なんだ。結局お前が泣いたのではないか』笛を吹き鳴らす少女に見惚れていた神様は、気を取り直すと失望したように少女を笑いました。『いいえ。神様』そういって少女は神様の顔に手を伸ばします」
ラリカは手を伸ばすと、私の顔の横を優しく撫でた。
「『――神様。今、貴方は涙を流しておられますよ』神様は、驚いたように顔に手を当てました。『そうか。これが涙か。これが泣くということなのか』自分の涙を手に取った神様は、今度は少女の顔から涙をすくい取りました。『これが、お前の涙か。こちらのほうが美しいな。お前は私の願いを叶えてくれた。だから、私はそれに応えないといけない』その言葉とともに、神様の手の中で、見る間に少女の涙が蒼い結晶へと形を変えていきます。形を変えた結晶に、神様がおまじないをかけると、結晶は紫色に変わりました。『これには私の力が籠っている。これがあれば、人間も私たちのように力を振るえるだろう』そういって、少女に結晶を渡しました」
最後にラリカはにっこりと笑って、私の顔から手を放すと、いつの間にか私に顔を近づけるように前かがみになっていた体勢を元に戻した。
「――それから、少女は結晶を持ち帰り、神様の力。つまり、魔法が人間に齎されたのでした。その後も少女は神様の下で度々笛を吹き鳴らし、神様と人々の間を取り持ったのでした。そうするうち、少女はいつしか『蒼の巫女』と呼ばれ、彼女が持ち帰った結晶は『蒼の巫女が零した涙』――つまりいはセレガと呼ばれるようになったのです」
――おしまい。というように、ラリカが両手を打ち鳴らした。
「――それが、今の曲の由来なのか?」
「ええそうですよ。なかなか情緒に富んだお話でしょう?」
ラリカは、お姉さんぶった笑みを浮かべながら、人差し指回して得意げだ。
「そうか……そうなるとラリカは、人間を助けた巫女様か」
からかいを含んだ私の言葉に、ラリカははっとした表情を浮かべると、ほほを緩ませ、赤らめながら横を向いた。
「……だから、恥ずかしいといったのです」
むくれるラリカは、やはり年相応に幼く、先ほど見惚れた大人びた姿が嘘のようだった。
「とにかく。この曲は、神と人とをつなぐ大切な曲なのですよ」
ラリカは、立てていた人差し指びしっと私に突き付け、そのまま私の鼻先をちょんとつついた。
「……今の演奏なら、きっと神の下へと届いているとも」
「……だと良いのですが」
私は、ラリカに近づくと、ラリカが膝の上で握りしめている拳に向かって優しく頭を擦りつけた。
ラリカは拳を解くと、私を抱き上げ膝に載せる。
そうして、そのまま私とラリカは再び何も言わず静かな時間を過ごすのだった。