第十八話「シェントとフィック」
「フィー、お迎えご苦労でした」
「いえいえーお安い御用ですよー」
私たちの連れられた部屋には、軽く傾斜がつけられた木製の机が並べられていた。
壁際には、立派な装丁のものから、紙をただ束ねただけに見えるものまで、多数の本が何段にも重ねられ積み上がっている。
少し、かび臭いような紙とインクの香りが鼻をついた。
それなりに大人数が入ることができるだろう大きな部屋ではあったが、いま室内にいるのはシェントのみのようだった。
どうやらシェントは机の一つを使って、写本をしていたようだ。
手元には開かれた本が一冊と今書かれている途中らしき紙片が並べられている。
シェントは手を止めると立ち上がり、優しくフィックを労った。
「……それで、フィーが今手を握っている方が、今朝方騒ぎになっていたハイクミア教徒のリクリスさんですか?」
「あ、は、はいっ! ハイクミア教徒。リクリスですっ!」
シェントがあまりに真正面から視線を合わせるようにじっくりと見つめるので、リクリスが居心地悪そうに視線を逸らす。
だが、シェントはそれでも視線をそらさずじっと見つめていた。
昨日ラリカのことを褒め称えていたとき以上に熱の籠った視線に見えた。
「こらこらーシェントさんダメですよーまた、そんなあつーい視線を女の子に向けちゃあ。いいですかー? リクリスさんはおとなしい子なんですよー? そんなじっくりばっちり穴が開くほど眺めてちゃあ、びっくりしちゃいますよー?」
「……あ、ああ、失礼しました」
フィックが冗談めかして窘めると、シェントは我に返ったようにふっと視線をそらした。
何かをこらえるように、シェントはゆったりとした袖口を片手で握りしめている。
「――あれれー? ひょっとして、シェントさん、リクリスさんのことちょーっと気になったりなんかしちゃったりしてます? いやーシェントさん、黒髪っ娘が大好きですもんねーヴェニシエスは高嶺の花すぎますし、案外『リクリスさんなら――』とか考えちゃってたりなんかしませんかー?」
「――ぴょぇっ!?」
「な、何を馬鹿な事をいうんです! フィーっ!」
リクリスの頭から抜け出たような声が、石造りの壁に反響した。
シェントは慌てたように、少し顔を赤らめながらラリカのほうにちらちらと伺っている。
――ラリカのことなら、渡さんぞ?
ラリカの表情をうかがってみれば、シェントとリクリスの様子を見ながらにやにやと笑みを浮かべている。
どうやら、他人事として傍観に徹することにしたようだ。
まったく、自分がが慌てているときににやにやと傍観していると怒るくせに、自分も同じようなものなのだから性質が悪い。
――だが似た者同士だと思えば、あまり悪い気はしないから不思議なものだ。
「もう、シェントさぁん? いいですかー? リクリスさんは、こーんなちっちゃくって可愛い女の子なんだから、そんな獣のようなケダモノの視線で見つめちゃだめですよー?」
「そんな目はしていません! まったく……大体、獣ケダモノの視線とはどういう視線です……」
シェントはぴしゃりとフィックに言い放つと、一人物憂げに頭を抱えた。
昨日初対面の時に受けた印象は、随分と堅そうなものだったが、どうやらあれは見せかけのものであったらしい。
今の様子をみると、どちらかというと親しみやすそうな、苦労人としての印象をうける。
そういえば、どことなく、その所作にはラリカに通じるところがあるように感じる。
同じ宗派同士、やはり似たところは出てくるのかもしれない。
「リクリスさんは、私が貰いますから、シェントさんは手を出したちゃぁダメですよー? あ、もちろんラリカ=ヴェニシエスにもオイタしちゃダメですからねー」
リクリスを後ろからむぎゅっと抱きしめ、先ほどまでのおちゃらけた雰囲気を消して、真面目な顔をしたフィックがシェントを牽制する。
「何を真面目な顔で馬鹿なことを言うんですか……そういう顔は仕事中に見せてください」
「はーい。分かりましたよぅ。真面目に仕事すればいいんですねー真面目に。って、待ってくださいよっ! それじゃ私が仕事してないみたいじゃないですか!?」
心外だとでもいうように、フィックが訴える。
「事実、今この瞬間も本来なら仕事をしなくてはいけない時間です。これだけ本がたまってきてしまっているのです。写本の一つでも手伝ったらどうですか!」
「うっ……写本はちょーっと……」
シェントがずらりと並べられた本の山を指差しながら、フィックに食って掛かる。
察するに、写本がたまっているから、シェント自ら手を動かしていたということなのだろう。
フィックのほうは視線を明後日に向け、真正面から見つめるシェントと合わせないようにしている。
だが、なぜかその視線は少し寂しそうに見えた。
「まあ、まあ、今はフィック=リスは私たちを送ってくださったのですから、業務のうちだといえるのではありませんか?」
「ラリカさーん。やーっぱり心の広い人ですねーほらぁ、シェントさん聞きましたっ? これもちゃんと仕事のうちらしいですよっ! ちゃぁんと私も仕事をしていたわけです!」
ラリカがフォローすると、フィックは表情を明るく生意気なものに切り替え、満足げな様子でシェントに道理の通らない主張を自信満々なようすで宣言した。
「それを人から言われて口にする時点で、フィーがどういう考えか窺い知れますよ……」
そんなフィックの言葉に、呆れたようにシェントはつぶやくのだった。
「――それから……フィック=リス」
「なんですかー?」
ラリカの真面目な声音に戸惑ったようにフィックが振り返ると、ラリカはとびっきりのジョークを口にするように宣言した。
「リクリスは、あげませんよ。この子は私の仲間です」
ラリカが、フィックからリクリスを取り上げる。
フィックのように抱きしめはしないが、きちんとリクリスの手を握りしめて。
「ラリカさん……」
リクリスが、感動したようにラリカの顔を見上げる、熱っぽくその名前をつぶやいた。
「ええっ!? ラリカ=ヴェニシエスはひょっとしてそういうのもイケちゃう口なんですかっ?」
「……なぜでしょう、なぜ王都に来てから、会う人会う人みなそういう話につなげたがるのですか……?」
蕩けた表情を浮かべるリクリスを見て、大変なことを知ってしまったというようにフィックが口元を覆う。
そんな反応を見て、ラリカは解せないという表情を浮かべるのだった。
***
「それで、今日は早速図書館の蔵書管理システムを拝見させていただけるのですか?」
どうにかこうにかお互いの顔合わせが終わったところで、本日の目的を切り出した。
「ええ。本日システムと図書館の御案内をさせていただきます。ヴェニシエスはご都合よろしいのですか?」
「言ってもーシステムの案内するだけなら、そんなに時間は掛かりませんから、安心してくださいねー」
シェントに言葉をフィックがウィンクしながら補足する。
「こちらも、そのつもりで時間を取っていますから大丈夫ですよ。……リクリスも今日は大丈夫ということでしたね?」
「あ、はいっ! 大丈夫です! ……でも、私なんかが一緒に見学させてもらっても、本当に大丈夫なんですかっ?」
「ええ。構いませんよ。もともと、ちょっとした見学にいらっしゃる方は大勢いらっしゃいますし、リクリスさんはあのラリカ=ヴェニシエスと共同で研究されているということです。なにかお役に立つなら、ぜひご覧になってください」
シェントが優し気な笑みを浮かべながら、リクリスに向かって語る。
どうやら、ラリカの共同研究者という肩書から、出来る限りの協力をする方針のようだ。
「そうですよーうちの数少ない自慢の子ですから、しっかり見てやってくださいねっ!」
「……なぜフィーがそこまで自慢げなのです……」
自慢げに胸を張るフィックに、シェントは呆れたようすで嘆息した。
「では、リクリスと二人、お言葉に甘えさせていただきましょう。……案内をお願いします」
「はぁーい! 任されました! 本日は不肖ワタクシ、フィック=リスとぉっ!」
フィックはその豊満な胸を一度拳で叩いくと、がばっとシェントのほうに両手を広げた。
「……シェ、シェント=ビストがご案内します。……フィー、これわざわざ名乗る必要はありませんよね!?」
「まぁまぁ、シェントさん! そっちのほうがなんかやる気出るじゃないですかーほらほら~」
フィックはシェントの両肩に手をかけると、くるりと回れ右をさせて背中を押し始める。
どうやら、早く案内するよう急かしているらしい。
まったく、教会だというのににぎやかな職場だ。
「そうなのですか……いえ、それよりもフィー、あまりそう押さないでください。……ファラスがずれます」
「あー! なんか今日はいつもと印象が違うなーって思ってましたが、今日はファラスなんてつけちゃってるじゃないですかぁー! ラリカ=ヴェニシエスが来るからって、気合入りまくりですね~!」
シェントの首から垂れ下がっている、黒でありながら繊細な光沢を放つ、折り目細やかなの幅広の輪袈裟のような布をつまみ、フィックが大声を上げている。
どうやら、あの布は気合を入れるときに使うものらしい。
そういえば、ラリカも時々似たような布を巻き付けていたな。
昨日はつけていたが、今日はつけていないようだ。
基準がどうなっているのかはわからないが、正装のようなものなのだろうか。
「いえ、フィー、貴女も本来ならつけなくてはいけないのですよ!? わかっていますか!? 相手はヴェニシエスですよ!?」
「もう、今時そこまで細かいところだーれもも気にしませんってーほらー行きましょ~」
「ファラスの着用は細かなことではありませんよっ!? 貴女は本当にいつも――」
シェントがフィックのことを叱るように小言を口にし始める。
好奇心が抑えられず、ちょんちょんと、ラリカの耳元を前足でつついてみた。
「――っ、……何ですか? くろみゃー。話すなら小声ですよ」
目の前に集中しているところを、突然触ってしまったから、ラリカが驚きの声をあげそうになるのをこらえながら、小声で問いかけてきた。
――大した要件でもないのに申し訳ない。
「――いや、あの二人の言い分は、どちらが正しいのかと思ってな」
「ああ……基本的にシェントさんの言い分が正しいですね……」
こめかみに右手の指先を当てながら、ラリカが答えた。
「ヴェニシエスという以前に、少し改まって外部の人と会うなら、ファラスは身に着けます」
「そうか。……あと、あの二人はきちんと案内してくれるのか? いや、できるのか?」
「私に聞かないでください……」
――彼らは本当に、私たちを案内してくれるのだろうか?
先ほどから夫婦漫才の如きやり取りを繰り広げている二人に一抹の不安を覚えながら、後に続いていくのだった。