第三話「愛しの魔法使いに御別れを」
――はっと目が覚めた。慌てて跳ね起きる。
勢いよくその場で飛び起きて。『飛び起きることが出来た』ことにまず驚いた。
……ついさっきまで。確かに体の感覚がなく、体に力を入れる事さえ出来なかったにも関わらず。今は何の問題もなく体を動かすことができた。
……夢だったのか?
だとすれば。いったいどこからが『夢』だったのだろうか。
――いや、待て。
よくよく周りを見渡してみれば、夢から覚めたにしては少々様子がおかしかった。いくらまわりを見渡してみても。暗闇が広がるばかりで自分がどこに立っているのかすらわからない。知らず知らず、どこかで酒でも飲みすぎたのかとも思ったが、そのような記憶は存在しない。
加えて、一切の物音がしないことも何とも言えず不気味であった。
たとえ暗闇であっても、普通ならなにがしかの物音くらいはするものだ。今までも多くの土地を巡り、明かりの無い山に篭ったことも一度や二度ではないが。どんな時も木擦れの音くらいはしたものだ。
――もしやここは『死後の世界』ではないか?
突拍子もなく、そんな考えが浮かんできた。
先ほどまでの出来事は、すべて夢でも幻でもなく、私はあの井戸から落ちて死んでしまったのではないか? そう考えれば、突然こんな場所に立っていることもある意味納得できるというものだ。
……しかし、もしも本当にそうであるのなら。各地で謳われる『死後の世界』とは、随分と味気ないところだったものである。真っ逆さまに二千年ほど落ち続けるというのもやっかいだが、このままずっとなんの刺激が無いままというのもまた苦痛以外の何物でもない。
――と。不意に照明が焚かれたかののように、視界が白くなった。
先ほどまでの暗闇とは打って変わり、完全な『白』――『無』である。
あまりの眩しさに、思わず右腕を持ち上げ、目を庇うようにかざした。
普通、光というものはどこかから差し込んでいて、そちらに腕をかざせば光はさえぎることができる。
――だが、この光は、どこから差し込んでいるのか全く分からなかった。
あえて言うなら、空間自体が発光しているように。前後左右を問わず明るく照らしていた。
だんだんと、目が慣れてきたのか、実際に光が収まってきたのか、うっすらと目を開けることができるようになってきた。じわりじわりと力が入って強張った瞼を開けていくと、そこには薄ぼんやりとした影が見えた。
遠近感が希薄な世界の中で、薄ぼんやりとした影は、少しずつ私に近づいてきているようだった。
その影は、私に近づいてくるにつれ、輪郭をはっきりと収束させていく。
――輪郭が明確になるにつれ、とある確信めいた期待が生じた。
『ドク……ドク……』と心臓が高い音を立てて拍動するのが分かる。
少しずつ……少しずつだが、記憶と世界が一致していく。
焦れる気持ちが、知らず体を強張らせ、抑えきれない期待が体を震わせるのを感じていると。
――やがて、その影は一人の姿になった。
「やっと、会えたなッ……雪華ッ!」
――ああ。間違えようもない。
影が結んだ姿は、長年追い求めていた『魔法使い』のものだった。
表情は、かつて見たものと違い、随分と落ち着いたものであったが。長年追い求めていた姿を。死ぬ瞬間まで求め続けてきたその姿を。私が見間違えるはずなどありはしない。
……一体、何度その姿を思い起こしたものか。
……一体、何度その姿を忘れぬように、姿を瞳に焼き付けたか。
……一体、何度……
輝くような銀の髪も、妖しく濡れた金の光を放つような瞳も、透き通るような肌の色も。何から何まで、変わっていなかった。年頃も、出会ったころと変わらないように見える。
――いや、訂正する。
記憶よりも少しだけ、身長が低いように感じた。きっとこれも年を重ね、私の身長が高くなったからに違いない。
知らず、ほっと。安堵の息が口から漏れ出たことに気がついた。
記憶と違うところがあったことで、死に際して愚かな自分が未練がましく見ている幻覚ではないということが実感できたからだ。
なんにせよ、ようやく手の届くところまでたどり着くことができたのだ。その事実だけで、たとえ俺が死んでしまったのだとしても、そんなことは瑣末なことに思える。
ただただ残念なのは、死後、彼女と出会えたということは、彼女がすでにこの世を去ってしまっていたかもしれないということ。
あとは、今まで『エア彼女』などと宣って、散々人のことをからかい、残念そうな目で私を見てきた友人に、紹介してやることができないことが口惜しい。あいつは夢枕にばあちゃんが立つなどと言っていたし、いつかあいつの夢枕に立つ事が出来た時は、『美人だろう』と、思いっきり自慢してやろう。
「いままで、何、してたんだよ」
ドキドキと未だ逸る鼓動に痛む胸を押さえながら。彼女に向かって問いかけた。
彼女はピクリと眉を動かすと、怪訝そうな顔を形作り。右手の親指を人差し指で押さえつけるようにぎゅっと握りしめながら、俺を見つめた。
「なんのことですか? 随分親しそうに話しかけますね」
……かつて聞いたのとはまるで違う。『聞いたことのない』冷たい声音だった。
「な、なんだよ。せっかく会えたっていうのに、随分な態度じゃないか」
想定とは全く違う反応に、どう対応すれば良いのか分からず、戸惑いを隠せずに声を上げる。
「私は、あなたの事など知りません……」
――氷点下まで冷やされた重い岩を飲み込んだ気がした。
胃の奥が、ずんと重くなり、手先が冷たくなっていく。
……いま、彼女は何と言ったか?
『知りません』と――そういったのか?
目の前にいる人物は、どうみても、確かにかつて出会った彼女に相違ない。冷たく厳粛な雰囲気をまとってはいるが、何かを切り出す時に、右手の親指を押さえつける癖など、彼女そのものだ。
動揺する私に、更なる追い打ちが掛けられる。
「ああ、失礼しました。思い出しました。なるほど、確かに一度私とほんのひと時出会っているようですね」
そういう彼女の姿はとても面倒そうで。さも、義務から。まるで、再開など望みもしていなかったかのような……
「――でも、それがどうしたのですか?」
続く言葉が放たれた。
「確かに貴方とは出会っていたようです。あなたはどうも、それ以降『魔法』に興味をもって調べていたようですね。友人には、魔法使いに会うためなどと話していたようですね。愚かですね。私は魔法使い風情ではなく、カミですよ。そんなことで私に会えると思っていたのですか。私はあなたなんかと会いたいと、思った事など一度も、一度もありません」
淡々とした声で、一気呵成にまくしたてるようにそう言うと、『魔法使い』は一つ息を吸い込んだ。そして、私と視線を合わせるのさえ拒否するように瞳を伏せ。
「――気持ち悪い……です」
自分の中で、崩れてはいけない何かが、折れて崩れてゆくが音がした。
決して、長い人生をだったとは言えないが、まさしく終生焦がれた少女からの、一方的な隔意であり、断絶であり、最後通牒であった。
――彼女は、私の事など覚えていなかった。
彼女にとって、私と過ごした時間は。ほんの一時の気まぐれで知り合ったにすぎず。彼女は私のことなど、どうでもよいその他の一人にしかすぎなかったのだ。
そこには、間違い無く、『友を巻き込まないように置いていく魔法使い』なんて浪漫は存在しなかった。
確かに、彼女の事を追い求めていたその間、頭をよぎる事が無かったと言えば嘘になる。だが、二人で過ごした日々を思い出し、彼女の笑顔をまぶたの裏に見て、そんな事はないと自分の中で不安を抑え込んできたのだ。
蓋を開ければこの仕打ちだ。
今までの人生すべて。たった一言で無意味だったと気がつかされた。
自分が生きた価値など無いのではないかという疑念すら浮かぶ。
――いや、そも、俺は死んでしまったのだから、今さらだ。
生きる意味など考える必要はないのかもしれない。
そう思うと、死んだというのは、いよいよ持ってある種の救いと言えるだろう。
「ああ、貴方は死んでこのまま全てが終わってしまうと思っているようですが、そういうわけにはいきません。貴方には、この後も、引き続き生きて頂きます。体を失いましたので、次は新たな命として誰かに入って生きて貰う事になります」
「転生……?」
雪華の続ける言葉に、連想した単語がとっさに口からこぼれ出た。
「そう思って頂いて結構です。次にあなたが生きる場所には、魔法だってありますよ。念願がかなってよかったですね。ふふ。戦争だってあります。病気に対する有効な治療法も確立されていません。貴方はすぐに死んでしまうでしょうね。運命だとでもおもって諦めてしまったほうがよいでしょう。その世界では大概の方がそんなものです。もしも死んでしまえば、また生まれ変わりです。いつまでもいつまでも気持ち悪く生きてください」
生老病死はみな苦であるとはよく言ったものだ。
私は……彼女に随分と嫌われていたようだ。
「ただ、そうはいっても、生まれ変わってすぐに死んでしまうというのは、私としてもつらいですね。そんなにぽんぽんぽんぽん死なれたら、めんどくさいです。どうやら、私とは少しだけ縁があったようですし、力を授けてあげましょう。魔法を極めた私の瞳の力です。光栄に思いなさい。うまく活用すれば長生きだってできるかもしれません」
「どっちにしたって気持ち悪く生きるのでしょうが」
機械的に、あたかも録音されたデータをそのまま再生するかのように、感情のこもらない声で雪華が話し続ける。
「それでは、貴方の幸せな人生を祈っています。良い人生を。」
遠のく意識の中、こんなことなら、再会なんてしたくなかったという後悔だけが頭の中を占領していた。
今までの人生ってのは一体なんだったんだろうな。
絶望の中、三度俺の意識は暗転した。
***
――男が消えた真っ白な世界で、少女は一人立っていた。
右手の親指は握りこまれるように、ギュッと人差し指に抑え込まれ、よくよく見てみれば震えていることが分かる。
「ちゃんと、出来たかな……」
やがて、少女はぽつりと独り言をつぶやいた。
「出来たかのなぁ……」
手先だけだった震えは、やがて腕を伝い、肩を通して全身を震わせていた。消えていった男から、逸らすように伏せた感情の希薄な顔立ちは。しかし――今、激しく揺れていた。
つぶやく声が、感情を反映したのか波立っていく。
「ちゃんと、長生きしてくれるかなあ……、また、あえるかなぁ……」
金色をした瞳が、じわりと水気を帯び始める。
「ごめん……なさい……」
まばたきをするため、瞼が閉じられると。抑えきれなくなったのか、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ち始めた。
「ごめん……なさいッ!」
同じ言葉を繰り返しながら、絶えずあふれてくる涙を少女は両手でぬぐっては払いぬぐっては払いをくりかえしていく。
「さっきのアイスキャンデー、一緒にまた食べたかった……お昼寝、一緒にしたかった……お出かけだって、したかった……雪華って、また呼んでくれた……」
「ごめんなさい……」
しばらくの間、彼女は独り泣き続けていた。
その姿は、公園で泣き続けた一人の男のようだった。
どれくらいの時間が経ったのか、真っ白だった空間に、じわりと滲むように、真っ黒な罅が浸み出してきた。その様はあたかも、体内を駆け巡る血管のようにも見える。
「随分、待たせたね……ごめんね……」
その血管のような日々を見た少女は、うつむいていた顔をあげた。
その顔は、先程までの触れれば消えてしまいそうな泣き顔とは打って変わり、強い意思を秘めていた。
「さあ……おいで……戦い……再開しよう……?」
張り巡らされた罅から、堰を切ったように真っ黒な闇があふれ出してきた。
「さて……『今宵の私は』……なんだっけ?」
ふと、名案を思いついたと言うように、何かを言おうとしたらしいが、途中で思い出せなくなった少女は、少し首を傾げた。
「とにかく……」
仕切りなおすように、少女は両目を爛々と金色にきらめかせると、その闇にむかって右手を挙げた。
「かかって……こいっ!」