第十話「独りの少女が見つけたもの」
香りを辿る様に歩いていくと、だんだんと強く鼻腔が刺激され、香りというより匂いと言った方が良さそうなほどに強くなってきた。
辺りを包み込む、むせ返るような甘い香りに、度数の高い酒でも飲んだかのようにくらくら軽い酩酊感を覚えた。
あまりの臭気にこの先にラリカが本当に居るのか疑問に思い始めた頃、辻を曲がったところでラリカの姿が視界に入った。
袋小路になった路地の突き当りで、地べたに座り込み、壁にもたれかかる人影と話しているようだ。
どうやら、その座り込んだ人影が、臭いの発信源らしい。
「――ますよ?」
ラリカがなにやら説得しようとしている様子がうかがえる。
後ろから近づいていくと、私に気がついたのか、振り返った。
「くろみゃー、良い子で待っているように伝えたでしょう」
「尋常でない様子の主人を放っておくわけにはいくまい」
「……まったく」
私が来た事で、多少小言を言われるが、言葉ほど怒りは感じない。
むしろ、目の前のラリカから感じるのは、叱られるのを恐れ隠そうとするような、後ろめたい感情だ。
とりあえず、何かあった時は対処できるように魔法を使う心積もりだけは持ちながら、ラリカの肩へと飛び乗った。
視線が高くなったことで、ラリカの陰に隠れて良く見えなかった、対峙する人物の様子を確認できた。
そして、――息を飲んだ。
――ひどい有様だった。
その形相は、やせ細り、無数のシミが浮かび、落ちくぼんでいる。
もはや死相と呼んでも差支えないだろう。
赤く充血した瞳は茫洋とどこも見ていないかのようだが、ときどき思い出したかのように、ぎょろぎょろと周囲をせわしなく見渡している。
口元は、だらしなく緩み、端からはよだれが垂れ流されて白く跡が出来ていた。
ヒヒ、ヒヒ、と不気味な笑い声を漏らしながら、ときどき思い出したかのように咳き込んでいる。
顔と同様に痩けた手足を突然動かしたかと思うと、猛烈な勢いで腕を掻き毟りだした。
既に何度も掻き毟りすぎたからか、幾重もの傷跡が線状に残り、今も血が滲んでいる。
襤褸切れのように汚れ、ところどころ擦り切れた服装は、よくよく見ればかろうじて、この世界の女性が良く身にまとっている物だと判断する事が出来た。
――はっきり言って異常だ。
そういえば、南米にいたころ、これと似た状態の人物をみたことがある。
――リベスの街でのクロエとした会話が脳裏をよぎった。
曰く、ラリカは麻薬を生み出したと。
「くろみゃー、あまり見ていて気分がよいものではありませんから、嫌ならまた眼をつぶっているのですよ」
ラリカは、目の前の人物を刺激しないためなのか、ぼそぼそと小声で囁きかけける。
その声は、少し震えていて、自己嫌悪が滲みだしているように感じられた。
意を決したようにラリカは前を向くと、女性に向かって話しかけた。
「先程、言った通り、貴女の症状は末期です。このままでは、貴女は遠からず死に至りま――」
「……あrれね、アレネ……アレネえええええええええええええええ」
会話を再開したラリカに向かって、女性は弱々しく、手を伸ばすと空中をバタバタと彷徨わせる。
本当は、ラリカに掴みかかろうとしたようだったが、その体はすでに立ちあがる事すらできないようだった。
「……アレネという方に会いたいのですか?」
「アレネ……rね……アれネ……」
ラリカの問いには、答えずにひたすらにアレネという名前をつぶやき続けている。
先程は掴みかかろうとしたようにも感じたが、目に涙を浮かべながら弱々しく虚空を掴もうとしている姿には、憎しみは感じられず、まるでアレネという少女を求めているようにも、何らかの存在に縋ろうとしているようにも感じた。
「私は、アレネという方ではありません。ラリカ=ヴェニシエスと言います。可能なら、アレネという方に、言葉を伝えましょう。神への言葉を望むというなら、神へ言葉を届けましょう。なにか言い残す事はありますか」
かがみこみ、女性と視線を合わせながら、話しかける。
最後の言葉はないかと。
「……アレ、ネ、居ない。居ない。アレネは死んだ。死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ。アレネ、ヴェニシエス、ラリカ、ラリカ、ラリカ=ヴェニシエスすすススうううううううっつ!」
先程まで、アレネという言葉しか口にしなかった女性が、ラリカの名前に反応を示した。
そこには、先程までは無かった憎しみの感情が込められていた。
本能的に恐怖を感じたのか、ラリカがびくりとその場を後ずさった。
「神が! ヴェニシエスっ! ラリカ、ヴェニシエス、お前ええええっ! お前が、壊した! お前が、お前がいたからああああああああああああ!」
言っている事は支離滅裂だが、徐々に、言葉の端々に明確な意思が込められていく。
合わせるように、弱々しく伸ばされていた手はバタバタと激しく伸ばされ、振り回されている。
憎悪を込められた言葉が紡がれていく。
ラリカに届かない己が手が恨めしいと言うように、何度も何度も地面に向かってた叩きつけられた。
――やがて、力つきたように、だらりと全身から力が抜けると、そのまま動かなくなった。
『アレネ、アレネ……』とつぶやく声が聞こえることから、かろうじてまだ死んではいないことが判別できる。
「……仕方がありません。くろみゃー。行きますよ」
しばらく様子を伺っていたラリカだったが、諦めたようにぐっと目をつぶり瞑目すると、人差し指と中指を立てて振り下ろした。
「……貴女に、神の祝福を」
悲しげに、女性につぶやくとラリカは踵を返してその場を離れた。
月影に隠され、肩の上に乗る私からもその表情はうかがい知る事は出来なかった。
***
「先程の一件はなんだったのか、聞かないのですか?」
しばらく続いた沈黙をラリカが破った。
リクリスの元へと戻る前に、話を聞いてほしいのかもしれない。
「……聞いてほしいのか?」
静かにそう問い返す。
「……意地悪ですね……少し」
「なら、話すと良い。聞こう」
弱り切ったラリカの様子に、あくまで鷹揚に。
何を言っても大丈夫だと安心させるように私は答えた。
「――はじめは、クロエ婆の家にあった、古い本から得た知識だったんです。」
ラリカは、少しずつ重い口を開き話し始めた。
「その、本には鎮痛作用のある薬草についての記述がありました。私たちの町の近くで採れる、薬草でした。どうやら、昔その薬草を薬にした人がいたらしいんです。私も、その薬草を薬に出来ればと思ったんです」
「薬効のあるものを見つけたなら、試そうとするのは当然だな」
「……実験の結果、確かにその薬草を燃やした時に出る煙には鎮痛作用があることが確認されました。ですが、その薬効は弱くて使用されなくなったのも当然という程度でした。そこで、私は何とか、その薬効を上げられないか考えたんです……考えてしまったんです」
わざわざ、言葉尻を言い変えた。まるで、自らの罪を告白するかのような、懺悔するかのような声音だった。
「ちょうど、その頃に別の植物から他の植物の薬効を高める効果があるものを見つけた時期でした。私は、そのふた、二つを合わせる事にしてしまったんです」
言葉が震え、湿った声が混じりだす。
「それぞれを煮立てて、その煮汁をさらに煮詰めていくと、滓が残るのですが、その滓を一定の割合で混ぜ合わせることで、強力な鎮痛作用と多幸感をもたらす、ものが出来ました。それ、は、本当に、本当に強力で、もはや死を待つのみの患者でも、幸せな夢見心地で最期を迎えることができるほどでした……っは」
自嘲なのだろうか、言葉の最後に、僅かに吐き捨てるような笑い声が混じる。
ラリカらしくないその様子に、口を挟む事は出来なかった。
「素晴らしい発見だと、思いましたよ。愚かな私は、それを嬉々として発表してしまったんです。末期の患者たちに希望を見せる薬であると大層な言葉と共にっ! またたく間に薬は広がりましたよっ! リベスの街にも多大な収益をもたらしましたよっ! ですがっ! あの薬を健常者が服用した時はっ……私が、私があんなもの生み出したから…っ…」
「もういい。無理に語るな。そんなことになるなど、予想できなかったのだろうっ!?」
痛々しいラリカの様子を見ていられず、叫ぶように遮る。
「いいえっ! それは、逃げですっ! あれはっ! 私の罪なのです!」
ラリカは私の言葉にあくまで自分の責任であると言って聞かない。
おそらく、先程の衝撃的な光景を見てしまって、一種ショック状態になって冷静に判断が出来なくなってしまっているのだろう。
そんなもの、子供の癇癪以外の何物でもない。
「子供がそんな事をっ! すべて自分で背負うとするな!」
「子供ではありませんっ! ラリカ=『ヴェニシエス』ですっ!」
「ヴェニシエスがなんだっ!? 私はミルマルだからなっ! ラリカが辛そうにしている方が問題だッ!」
「……っつ」
「ああ、この街に来てよくわかったさっ! きっと人間様にとってはヴェニシエスというのは大層な肩書なのだろうな! だが、私にとって人間にとってのしがらみなど知った事かッ! 畢竟、私にとってのラリカは泣いている子供にしかすぎん! ミルマルの前でまで恰好をつけようとするなっ!」
「格好つけとはなんですかっ!? 私は責任を――」
「馬鹿者っ! それを格好つけと言っておるのだっ! 子供なのだから、困っているときは、人に頼れっ! もしも、ラリカ一人に全ての責任を押し付ける馬鹿者がおればひっかいてお灸をすえてやるっ!」
私の言葉の一部だけを抜き出して感情的に反論してこようとするラリカを遮る。
こう言う時は反論させるよりも、勢いに任せて流してしまう方が良いだろう。
まあ、加減を間違えると、後々まで残るしこりになりかねないがな。
「……ひっかくのですか?」
――かかった。
上手く、私の計略に乗って、ラリカが声を少し冷静にして、私の言葉を拾ってくれた。
「そうだっ! ひっかいて、一生残る傷を体と心に刻んでやるっ!」
「……それは、申し訳ないので止めてあげてください」
「……では、主人はどのような仕置きが希望なのだ?」
「……噛みますか?」
うまい具合に話が逸れていく。後はこのままひっかきまわすだけだ。
きっと聡明なラリカなら、冷静になるきっかけさえ与えれば、途中で自分の過ちにも気付いてくれるはずだ。
「……いや、待て。それでは結局、心と体には傷跡が残る事になるぞ?」
「……では、くろみゃーのざらざらした舌で延々一日舐め続けるというのは?」
脳内に、山羊責めとかいう単語がよぎる。
おそらくこちらには、そんな風習はないのだろうが、また随分とえげつない拷問方法を提案するものだ。
「……なるほど。それなら加減もできるか」
「それに、心にも、そこそこの傷が残せるのではありませんか?」
「……ふむ、一理あるな」
「では、それで行きましょう」
「……待て、それでは、私の手間はひっかくより増えているのではないか?」
「それくらいは、我慢してください。甘えさせてくれるのでしょう?」
「……いいだろう。男に二言は無い」
「ミルマルも一応、男なのですね」
「無論だ」
「……すみません。さっきは感情的になって、恥ずかしいところを見せました」
案の定、ラリカが自分の過ちに気がついたらしく、反省の色を見せる。
「……そういう所を止めるように言っているのだ。かわいらしく、『ありがとう』で良いのだよ」
先程、リクリスに言っていた言葉を利用して、誤りをさらに指摘する。
「……私が言った事でしたね。ありがとう。くろみゃー」
そういって、泣き跡が残ったままの顔でラリカはとても綺麗な笑みを浮かべた。
「分かればよろしい」
ただただ、私は傲慢に偉そうに、ミルマルらしく返事を返すのだった。