第九話「偽教と謎の香り」
リクリスを伴いながら、足早に石畳で舗装された大通りを南に向かって下っていく。
「――『ありがとうと言って欲しいですね』とは、随分と格好良いことを言ったものではないか?」
「……うるさいですよ」
「いや、なに、前からラリカは良くお礼を言うと思っていたが、どういう考えかが良くわかると思ってな。少し嬉しくなったのだよ」
「……だから、うるさいですよ。くろみゃー」
によによと笑みを浮かべながら、ラリカの耳元でこそこそと話しかけると、顔を真っ赤にしながら、小声でラリカが反論をしてくる。
反論するたび、ラリカの歩みが加速していく。
後ろから追いかけているリクリスは、せっせせっせと狭い歩幅で懸命に足を動かしている。
もう、ラリカ、そんなに照れなくてもよいだろうに。
「リクリスっ! 南側のどのあたりに宿があるか聞いていますか!?」
「はぁ、はぁ、えっ? あ、はいっ!」
私のからかいに羞恥心が限界を迎えたのか、ばっと後ろを振り返り、リクリスに声をかけた。
リクリスが、息を切らせながら、戸惑いながら、驚きの声をあげた。
「確かっ! 鍛冶屋、さん、と、お酒、を出すお店が並んでいる、路地を曲がったところ、らしい、ですっ!」
「あそこですね」
斧と剣と盾が意匠化された看板が掲げられたお店と、王冠のような金属製の輪が店先に吊りさげられたお店の間にある細い路地を奥に向かって進んで行く。
活気にあふれた大通りと違い、明りが少なく薄暗い路地は、あまり年若い少女が出歩いていてよい雰囲気ではない。
「た、確か、一つ目の角を曲がって……」
追いついてきたリクリスがラリカの横をすり抜け、ようやく前に出ると、道筋を思い返しながら先導し始める。
どうやら、裏道に入ったことで、自分が案内しなくては意気込んでいるようだ。
ラリカは、何か壁に描かれた落書きを見て、顔を顰め、前を駆けていくリクリスにとっさに反応できなかったようだ。
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ! リクリス!」
「こっち、ですっ!」
慌てて、リクリスが追い抜いて行ったことに気が付いたラリカが呼びとめるが、リクリスは急かすように手を振ると角を曲がって暗がりへと消えていく。
「――くっ、仕方がないですね。くろみゃー! しばらくの間、目をつぶっているのですよ? 私が良いというまで、決して目を開けてはいけません!」
険しい表情をしながらも、なぜか少し顔を赤くしたラリカが妙な事を言い出した。
一体何事だろうか?
「な、なんだというのだ。突然」
「良いから、しばらく目をつぶっていなさい!」
語気を強めて念押しされる。事情も分からず、目をつぶれとは何事だろうか。
――まあ、ラリカがここまで焦って言うということはなにか理由があるのだろう。
おとなしく、ラリカの言う事に従って目をつぶる。
「――よし、良い子ですよ。くろみゃー」
私が目をつぶった事を確認したラリカが、リクリスの後を追うように駆け出したらしい。
風が体に沿うように流れてゆく。
目をつぶると視覚からの情報が失われえる分、この体になってからは著しく能力向上が見受けられる聴覚がより研ぎ澄まされていった。
すると、雑踏や人の息遣いが耳に入ってきた。どうやら、人通りの多い路地に出たらしい。
大通りのように大掛かりな明りが焚かれているのか、瞼の裏をたびたび赤みがかった光が刺激した。
「リクリスっ!」
やがて、ラリカがリクリスに呼びかける声がした。
その声音は随分と切羽詰まった様子だが、押し殺されて声量自体は絞られている。
「早く、ここを離れますよっ!」
「ら、ラリカさんっ……これって……」
「――ッ! いいからっ!」
リクリスの手を握っているのだろうか、なにか他の物を引っ張る様な横向きの力を感じながら、ラリカが足早に動き出した。
やがて、雑踏の音が遠のいていき、静かになっていく。
「もう、くろみゃーも目を開けて良いですよ」
十分雑踏から離れたころ、ラリカがそういって私に目を開いても良いと許可を出した。
その言葉をうけてゆっくりと目を開けてみれば、顔を赤くしたラリカと、息を切らしながら赤面するリクリスの姿があった。
「ら、ラリカさん。さっきのって……」
「まったく、南の宿屋と聞いた時点で嫌な予感がしていたのですよ。言っておきますが、私が忠告しているのに、先にいくリクリスも悪いのですよ?」
「ごめんなさいっ!」
「……あそこは、ヌミア教徒の修行場ですから、今後、リクリスは近づいてはいけませんよ」
「……ヌミア教徒の修行場所が貴族街って呼ばれているのは本で読んだことがあるんですが、村には無かったんです。どんな修行をしているんですか? お父さんに聞いた時は、『尊い仕事だよ』としか……」
「……お父様も、本当のことは言えなかったのですね。さっきの、玄関先で手招きしていたお姉さん方の服装から察するのですよ……」
ラリカは疲れ果てた様子で、火照った顔を冷ますように、リクリスとつないだ手とは反対の手を自分の額に当てた。
「ヌミア様って……」
なにやら、リクリスが顔を真っ赤にしながら慄いている。
先程からの、ラリカ達の発言から、何となく下衆な想像が浮かんでしまうが、いやそんなまさか。
「……リクリス、これは、ヴェニシエスとしての発言ではなく、ラリカとしての発言ですが」
なにがしかの葛藤に揺れるリクリスに、困った表情でラリカがそんな前置きを行った。
「ヌミアという神を教会は確認していないのですよ」
「えっ!?」
「……私たちの間では、『偽教』と呼んでいるのですが、架空の生み出された神の宗教があるのですよ。ヌミア教もその一つと考えられているのですよ」
「……神様がいない?」
「例えば、最も新しい神ユルキファナミアは、確認されている神の最たる例で、かつて邪神と戦った英雄が神になったものです。人数は少ないですが、今もその時代を生きた人々がいますから確実です」
ラリカの言葉を聞いてふんふんとリクリスが頷く。
「しかし、ヌミア教は、そういった確認が取れていないのですよ。一応、信仰の支えとなる逸話自体は存在するのですが、明らかに神代から考えると、その発生の歴史が浅く、実在しているとは思えないのです。あらゆる教会教徒の信仰を受ける、ヴェニシエスとしては批判はできませんが、基本的にヌミア教会自体を教会全体としては認めていません」
「そうなんですかっ!?」
「ええ、だから、さっきのあれも教会として強制する修行ではないということは覚えておいてください……」
「……わかりました」
ため息の混じるラリカに神妙な面持ちでリクリスが納得の声を上げる。
「――しかし、困りましたね。リクリスが今夜泊まる場所がありません」
「……あ」
呑気というべきなのだろうか、自分のことだというのに、リクリスはそもそもここに来た理由を失念していたようだ。
「だ、大丈夫ですっ! 私、どこか道の端っこで眠りますからっ! 最近、あったかいですしっ!」
「……なにを馬鹿なこといっているのです。か弱い女子がそんな事では、襲ってくれといっているようなものですよ」
「でもっ」
ではどうするのかというように、悲哀に満ちた表情でリクリスが訴えかける。
「……仕方がないですね。リクリス。私と一緒に教会に泊まりましょう」
あきらめた様子で、ラリカがリクリスにそういった。
――実は、私は結構前から同じ事を考えていたのだが、ラリカはそうでもなかったらしい。
どこか残念そうに切り出した。
どうしたというのだろうか? せっかく仲が良い友人が出来たのだ。
一晩くらいともにすればよいだろうに。
「ええっ!? そんな、私なんかがヴェニシエスのお世話になるなんてっ!?」
「今さら、何を言っているのですか貴女は……さっ、そうと決まれば、まずは腹ごしらえですよ。行きましょう。あまり、こんなところに長居をしては、変な噂が立ちかねません」
今日一日の茶番劇の連続に疲れ果てたのか、ラリカは握ったままだったリクリスの手を引っ張って歩き出した。
「――まったく……手間を掛けさせたのですから、今晩は私持ちで良いですから、好きなものを食べさせて貰いますよ」
「ええっ!?」
***
しばらく、リクリスの手をつなぎながら歩いていると、もうまもなく大通りに出ようかというところで、風に乗って香ばしいような、甘い香りが鼻腔をくすぐった。なにやら、随分と落ち着く香りである。
「……ん」
ラリカがその香りに反応するようにぴたりと立ち止まった。
この体になって、香りに敏感になった私がようやく感じる程度だ。
ラリカがこの香りを感じているとしても、本当に微弱なものだろう。
「……この配分は」
ラリカが思わず口から洩れたと言うようにつぶやいた。
「どうしたんですか?」
立ち止まったラリカを訝しんだリクリスが声をかける。
「リクリス。大通りにでたら、少しの間くろみゃーを預かって一人で待っていてもらえますか?」
「えっ!? ラリカさんはどうするんですか?」
「私は……少し、野暮用を済ましてきます」
そういうラリカの視線は、ちらりと香りが漂ってきていると思われる路地の方へと向いていた。
そのままラリカは詳しく説明することなく、大通りへと歩み出ると、私をリクリスに抱えさせた。
「すぐに戻ってきますから、心配しなくても大丈夫ですよ。くろみゃーも、良い子にして待っているのです」
そういって、リクリスに抱え込まれた私の頭を一撫ですると、リクリスの返事も待たずに、路地裏の闇へと消えていった。
「行っちゃった……」
リクリスが、茫然とした様子でラリカの消え去った方向を見つめている。
「どうしよう……」
そういって、残されたリクリスは捨て猫のような目をすると、一人手元に残された私と視線を合わせた。
ふむ……ラリカと同じように私を抱え込んでくれているが、ラリカに慣れた私にはなにやら居心地が悪いな。もぞもぞと体を動かしてみるが、どうも収まりが悪い。
それに、先程のラリカの様子を思い返すと、なにやら胸の奥がざわざわと潮騒のようなざわめきをあげるのだ。
――仕方がない。ミルマルが、単に収まりのよさそうな場所を探して彷徨うだけだ。
リクリスの腕のなかからポンと飛び出すと、ラリカが向かったであろう香りの発信源にむかって歩き出した。
――無論、リクリスに向かって、来るなというように尻尾をふって牽制することも忘れていない。
「みゃあ」
一声鳴いて尻尾を振ると、納得してくれたのかリクリスが立ち止まってくれた。
突然手元を飛び出した私をどうしたら良いのかわからず、わたわたと上下に手を動かしているだけのような気がしたが、きっとそれも、私に手を振ってくれているのだろう。
――なにはともあれ、様子のおかしかったご主人のことの方が問題だ。