第二話「魔法使いの忘れもの」
店員さんに別れを告げ、店のすぐ前にある神社の境内へと向かった。
小さな神社の鳥居をくぐり、本殿に参拝する為片手にアイスキャンディーの入った袋をぶら下げたまま近付いて行った。
財布の中から百円玉を取り出し、賽銭箱に放り込み。二拝二拍手すると、『どうか、魔法使いに会えますように』『皆が、平穏無事に過ごせますように』いつもと同じ祈りを捧げて一つ頭を下げる。
――この神社では、木陰で腰をかけ、休憩を取ることができた。
最後に本殿の奥をもう一度覗き込み。元来た道を帰る為に振り返ると。当時と変わらない、木の板を貼り合わせて作ったような長椅子が目に入った。
かつてを再現するかのように。長椅子に腰掛け、袋の中からアイスキャンディーを取りだした――先ほどのガラス細工を思い出すような、澄んだ水色が童心を思い起こさせる。
二つの持ち手をつかんで、真ん中に入った溝からぱっきり二つに割って、一つを丁寧に袋へと戻した。
半分は、私が食べる分。もう半分は――『魔法使い』への分だ。
……まあ、お供えのようなものだ。椅子の傍らに、袋に入れたまま置いておく。
すでに少し柔らかくなっているアイスは、きっとすぐに溶けて液体になるだろう。『もったいない』という人もいるかもしれない。
だが、こんな時くらい、センチメンタルな気分に浸ってもみても良いではないかと思うのだ。
――センチメンタルと言えば……
このアイスキャンディー、実はきれいに割るのが意外と難しい。
昔はよく、片一方だけ大きくなってしまった。
そういうときは、決まって大きい方を『魔法使い』の分にしたものだ。
アイスといえば、『魔法使い』とこのアイスキャンディーを食べながら、『サッカリン』が入ったアイスの話をした覚えがある。
――あれはまだ小学校に入学したかどうかの頃のこと。
教育熱心な両親も、まだ塾に行かせることは考えておらず、習い事だけこなせばよかったあの頃だ。
よく、近所の紙芝居のおじさんからアイスを買って食べていた。
幼子が気楽に購入できたのから、大した金額ではなかったはずだ。
おそらく、十円とかそれくらいだったのではないだろうか。
サングラスをかけたおじさんは、日に黒々と焼けて皺の刻まれた顔を常に笑顔にしてちびっこ達一人ひとりを楽しませてくれた。
今から思えば『サッカリンアイス』はただただ甘いだけで、しかも後味に何とも言えない刺激が残るものだったが、なぜかふと食べたくなることがあった。
……残念ながら、『魔法使い』と出会ったころは、もはや紙芝居のおじさんの行方は知れなかったが。それでも、この話を聞いた『魔法使い』と一緒に、おじさんを探して二人であちこち回ったこともあったのだ。延々と、近所をぐるぐると探し回ったが、結局再びあの味を体験することは出来なかった。
……まったく、思えば、随分と食い意地のはった『魔法使い』もいたものだ。
残念そうに打ちひしがれる『魔法使い』の様子を思い出し、自然と笑みがこぼれた。
やれ、梅干しを竹の皮で包んだおやつがあると聞けば、『持ってきて』とせがまれ。
『はったい粉』の話をすれば『食べてみたい』と言われ、たき火で火加減の調整に四苦八苦しながらやっとの事でこしらえて。
そのあたりでチュンチュン鳴いているスズメが美味しいと聞いて、捕ってもよいか聞かれ。
――流石に最後の物はやめろと全力で止めたが。
……本当に、何とも言えず、出会った頃の幻想的な雰囲気を台無しにしてくれる残念な『魔法使い』だった。
懐かしい過去に思いを巡らせていると、隣からガサリと何かが落ちる音がした。見ると、椅子の下にアイスの入った袋が地面に落ちている。舗装されていない茶色い地面に、袋から漏れ出したアイスが染み《しみ》を広げていくのが見えた。
その傍らに、真っ黒な毛並みをした猫が一匹。『ばれたか』という顔をしてこちらを見上げている。どうやら、アイスを狙って袋をはたいた拍子、地面に落してしまったようだ。
「こらこら、おまえはそんなもの食べられないぞー」
そういって、黒猫からアイスを取り上げるが、すでに袋の中のアイスはきっちり流れだしてしまっていた。
――そういえば、昔もこうやって黒猫からアイスを取り上げた覚えがある。
水分が染みこみ。色を濃くした地面を見ながら。十年前のこの場所を思い出した。
確かあの時は、浮世離れした『魔法使い』が、なぜか猫もアイスを食べると思いこみ、名残惜しそうに自分のアイスを食べさせようとしたので取り上げたのだ。
……結局その時は、ABC マートで牛乳パックを買ってきてあげたのだったか。
もう、十年も前の事だ。まさか、あのときの黒猫でもあるまい。
「……お前、昔からこの神社にいたか?」
猫に話しかけても伝わるわけもないのに、そんな馬鹿な問いかけをした。
『ナア』
猫は猫らしく返事をしてくれた。
肯定か、否定かは分からなかった。
***
しばしの休息を経て、いよいよ、今回の旅の目的地だった、『あの公園』にたどり着いた。
公園は、『神隠し公園』と呼ばれていたころと全く変わっていなかった。あの夜、真っ白な『魔法使い』が座っていたベンチも――そのままだ。
……十年前にタイムスリップしたようだった。
あの日、『魔法使い』に出逢い。親の敷いたレールを歩んできた私が。大きく道を踏み外し――
――失礼。
――もとい自分の人生としての一歩を踏み出したとき。あの場所が目の前に存在していた。
こうして、公園の周囲に植えられた木々を眺めている今も、どこかからひょっこり『アイツ』が顔を出すんじゃないかなんて、年甲斐もなく考えてしまっている。
だが同時に、心のどこかでは。そんなことは絶対にないと思ってしまっている自分がいた。
今日。私は。あの時を過ごした場所を巡ってからここに来た。
……平時の私なら、真っ先に噂になっている場所に突撃しているだろう。
それが、今日に限っては随分回り道をしてきた。
きっと、恐らくだが。私はここで決着をつけたいのだろう。
ここに来れば、私の十年間は終わってしまう。
また、あの時とは違う一歩を踏み出さなくてはならない。
――いや、きっと踏み出してしまうのだ。
明日からはきっと、これまでの情熱は維持できない。
……長く、本当に長く続いた病とは。ここでお別れになるだろう。
目頭と鼻の奥が熱くなり、幼い香りがつんとした。
「……泣いてたまるか」
ぼそりと、口に出してみる。口にした言葉は、大気中をぼんやり霧散した。
それが――そのことが。どうしようもなく寂しかった。
「駄目だ。絶対――泣いてなどやるものか」
もう一度自分に語りかける。
言葉を口にすればするほど、世界がだんだんと滲んでゆく。
……まったく、二十歳にもなって。公園で泣きそうになっているなんて阿呆ではないか。こんな姿、誰かに見られたら、不審者だと思われそうだ。まあ、そこまではいかなくても、心良くは思われないのは確実だ。
いやはや……全くもって情けない。
――そう、強く『大人であろう』と思うのだが。
強くあろう。強くあらねば。そう、耐えてきたこの十年間。その間に積もり積もった置き忘れの想い出は。
……なかなかどうして『抑え』というものが効かないらしい。
周辺住民の皆さんには、申し訳ないが、少しの間は不審者が公園にいる事を許してもらおう。
――そうして私は、しばらくの間、男泣きに泣き続けた。
***
まわりがそろそろ薄暗くなり始めた頃。ようやく私は落ち着きを取り戻した。
気づけば、公園のまわりに立っている民家には、少しずつオレンジ色をした明りが灯り始めている。近所の犬の夕食を作る飼い主を急かす、けたたましい鳴き声が聞こえる。
――本当に、随分長い事茫然としていたものだ。
「……さて、いくか」
『このまま帰ってしまえ』という往生際の悪い誘惑に苛まれるが、せっかくここまで来たのだ、最後のけじめとして、噂の井戸だけでも確認していこう。
薄暗くなった光景の中でも、さらに木陰になり暗くなっている井戸へと一歩ずつ近づいていく。
真っ暗な大口をあけている井戸のそばに立つと、持っていた懐中電灯を点け、えいや!と井戸の中を覗き込んだ。
「――まあ、なにもないわな」
そこには、空虚な空間がぽっかりと広がっていた。
どこまで行っても、ただの井戸。何ら特別なことなどないどこにでもある井戸だった。
そして、それはきっと――すべてが本当に『終わった』瞬間だった。
十年間の病に別れを告げ、自由になった瞬間だ。
――ああ、いっそ晴れ晴れとした気分だ。
胸の奥にどこか重苦しい棘は残っているが……きっとそれだって明日には無くなっているだろう。むずむずとした感触が抑えきれなくて、額に右の手のひらを当て、上に向かって拭うように押し上げた。
「――彼女でも、作ってみるか」
気を取り直すように、わざと明るく口にした言葉の。あんまりな響きに笑ってしまう。
今まで、どんな女性から秋波を送られようが、一切合財応えずに来たが……そろそろ答えを出すときが来たのかも知れない。
「……ありがとな」
最後に、井戸に向かって、万感の思いを込めて別れの言葉を言い放つ。
少し――物語の主人公っぽくて格好いいんじゃないだろうかなどと、チャラけたことを思った。
「――ん?」
背を向けようとしたとき。井戸の底でなにか赤く光を反射するものがあった。
底まで距離がある上に、小さく反射するだけなので、良く見えない。
もっと見えるように、井戸に向かって少し体をのりだした。
懐中電灯を振ると、それに合わせて、チカッチカッと赤い光が瞬いている。
――瞬間、ふわりと体が浮き上がった。
底を覗き見るのに熱中し過ぎて、身を乗り出し過ぎたらしい。
気がつくと、目前に、さっきまで遠くに見えていた井戸の底が迫っていた。
『ぐちゅり』という嫌な音が聞こえた気がした。
意識が一瞬で闇に塗りつぶされ――
***
――そうして、今に至る。
井戸の底に落ちた私は、しばらく意識を失っていたようだった。
ろくに身動き一つできず、声をあげようとしても、ヒューヒューと気の抜ける音がするばかりで、意味のある言葉としては吐き出す事が出来ない。
体の中から生命力とでもいうような、大切な何かが流れ出ていく感覚だけがあった。
――おそらく、このままでは、私はここで死ぬ。
運よくだれかが私が井戸に落ちるところを見てくれていれば、助けが来る事もあるかも知れないが、それならすでになにかしらの反応があってもよいだろう。
井戸の底から見上げる空は、すでに夕暮れ時は遙かに過ぎ去り、空に輝く星が見えている。これでも県内では都会のはずだが……『星が見えるとは随分田舎だったんだな』という、場違いな感想が浮かんだ。
なんとか少し首を動かして横を見れば、赤い宝石が埋め込まれた指輪が視界に入った。先ほどの光の反射は、これが正体だったらしい。
どこかの誰かが、うっかり落としたのか投げ込んだのか。
お祈りに物を投げ込む事は、パワースポットと騒がれているところでは良くあることだ。
魔道具などと銘打たれたものを買い漁った時期もあった私が、人生最後に手に入れたものは、誰のものか分からない指輪だったか。
新たに出発を決意した身にはちょうど良いかもしれないと自嘲的な気分になる。
まあ、その決意は結果的には、死出の旅路となりそうだが。
――しかし、何かが無性に引っ掛かった。
どこかでこの指輪を見た事がある気がするのだ。
僅かに赤みがかった金ベースのつくりで、細かな文様が幾重にも刻まれた指輪には、赤い宝石が嵌め込まれていた。
どこでみたのか、記憶の山をえっちらおっちら掘り返してみる。ひょっとすると、昼間ABCマートで見かけた、ナザール・ボンジュウのように、由来あるものかもしれない。
そうであるなら、人生最後に出逢った相棒として、なかなかどうして意味深か気で悪くはない。
今年、去年、一昨年。
順を追うように、さかのぼっていく。
十年前までさかのぼろうとして。
一つの光景が――指輪と重なった。
それは、悪戯っぽく微笑む、小さな唇に添えられた。小さく可愛らしい指先だった。
――そうだ――ッ!
『アイツ』と初めて出会ったとき。『アイツ』が身に着けていた指輪だッ!
二回目に出逢ったときには、すでにこの指輪をしていなかったから。思い返すまで気がつかなかったのだ。むしろよく思い出せたものだと、自分で自分を褒めてやりたい。
だがそう。つまりそれは――まぎれもなく『彼女』の痕跡だった。
もはや、命の灯が消えようとしているこの瞬間、ようやく『アイツ』につながる手掛かりが見つかったのだ。
悔しい。
自分が死ぬ時は、未練が無いようにしようと思っていた。
それがなんだよ。あんまりではないか。
もしも、この世界に神様というのがいたのなら、相当にそいつは性悪に違いない。もう、邪神だと言っても良いのではないだろうか。『ただ、見守るのみ』なんて存在よりよっぽど性質が悪いではないか。
思うように動かない手を、じりっじりと少しずつ動かしながら、指輪に近づいていく。
――もはや、いつ自分の命が尽きるのかと、指輪に手が届くのかという勝負だ。
人生最後の大勝負。
遅々として進まぬ指先が、ようやく指輪に触れようとしている。
もはや、視界は指輪の石がかろうじて見えるほどしか残されていない。
詰めていた息を吐き出すと、指先がかすかに石に触れた。
そうしてその瞬間――私の意識は暗転した。