第一七話「神の炎」
「アリンさんッ!」
全身から力が抜け、ぐったりとしたアリンを抱えて、慌ててラリカが脈をとった。
「……良かった。脈はありますね」
ひとまず、アリンが死んだわけではないことを確認すると、安心したように吐息を漏らした。
「アリンさん……貴方のことも、死なせたりなんてしませんよ……ッ! 絶対に、助けて見せますッ!」
決意を込めてラリカは宣言すると、まさぐっていた袋から一本の筒を取り出した。
「まったく、碌な手持ちがないですね……こんなことなら一切合財、一式道具を持ってくるのでした。魔法が使えないというのは本当、不便ですね……」
ブツブツと独り言をつぶやきながらも、その間も手を休めることはない。
手早く筒の口を開くと、アリンの体へと中身の液体をかけていく。
とりあえずかかればなんでも良いとでもいうような、なかなかに豪快なぶちまけ方だ。
「ああ、もう……アリンさん、貴方、魔力が空っ欠ではありませんか……なんでそう貴方は無駄に魔力を注ぎ込むのです……」
形の良い眉根を寄せ、傷口の様子を覗き込んだラリカが、理不尽な小言を言っている。
非常事態だったのだ。持てる限りの魔力を注ぎ込んでいることぐらい許してやってくれ。
ラリカが、さらに細長い木製のケースを取り出す。
パカリとふたを開けると、中に入っていたのは銀色に輝く無数の細い針だった。
数本、針を取り出すと、アリンの体へと次々迷いのない手つきで打ち込んでいく。
……鍼灸治療だろうか。随分と長い針が打ち込まれていくので、見ていて非常に不安になる光景だ。
針を打ち終えると、ラリカは動いたことで目にかかってきていた髪の毛を耳にかけながら、植物の種子らしきものを取り出した。
種子の端を少しだけ噛み、穴をあけると、アリンの口元に持っていき種子を傾ける。
すると、液状になった何かがアリンの口に流れ込んでいった。
「これで前準備は完了、忘れてることはない……はずですね」
自信満々に素早く作業していた割には、見ているこっちがハラハラする言葉を漏らした。
正直、何をしているのかはわからないが、ときどき見せる様子がどことなく不安を誘う。
ラリカはさらに一枚の紙片を取り出した。
紙片には、精緻な魔法陣が描かれていた。
治癒の魔法の魔法陣に見えるが、残念ながら私の知識では一目で内容まではわからない。
「クロエ婆ッ! アリンさんの手当てをお願いできますかッ!?」
「わかったわよぉー? でも、私の治癒魔法じゃ、その状態の子を治すのは難しいわよぉ?」
「わかっています。普通の治癒魔法ではこの傷は間に合いません」
「じゃあ、どうするのぉ? あきらめるぅ?」
「いいえ。諦めません。――絶対、諦めたりなんてしませんッ!」
「でも、そうは言っても、難しいものは難しいわねぇ……」
「――クロエ婆ッ! この魔法を使ってください」
そう言って、先ほど取り出した紙片をクロエに向かって突きつける。
クロエは目を細めるように魔法陣を確認すると、ラリカに問いかけた。
「ラリカさん、この魔法は何かしら?」
「……こんなこともあろうかと、こっそり準備していたとっておきの治癒魔法です」
気まずそうに、ラリカが少し勢いを落としながら答える。
クロエ婆は、じっと魔方陣を見つめている。
「まったく……ラリカさんはこれだから……しかし、随分……重たい魔法ねぇ……これはちょっとミギュルスの相手をしながら発動するのは厳しいわよぉ?」
なにやら、呆れたように嘆息すると、クロエは現実的な問題点を口にした。
「そんなことわかってます。――ミギュルスの相手は私がしますッ!」
クロエと交わした視線には、傍目から見ても迷いというものは感じられなかった。
「ちょっとぉ! 相手をするってどうするつもりぃ!? もう杖は使えないわよぉ!」
背後でクロエの声を聴きながら、ラリカは、すくっと立ち上がると、未だアリンの放った雷鳴が鳴り響く中、ピクリとも動かないミギュルスと向かい合う。
「――大丈夫です。クロエ婆。今日は、私が初めて魔法を使う日です」
ミギュルスは、変わらず憎悪に歪んだ瞳をこちらに向けている。
瞳には、殺せるものなら今すぐに殺したいとでもいうような、原始的で明快な殺意が込められている。
だが、そんな視線に怯むことなく、あくまで冷静にラリカは魔法の使用を宣言した。
「ミギュルス風情が、私の知り合いを傷つけた代償は大きいと思うと良いです。覚悟しなさい。それから、くろみゃー。あなたのこと、信じますよ……ッ!」
ちらりと私に視線を向けて、ラリカは両手で杖を掲げる。
「――ここで魔法を使えなくて何がヴェニシエスですか」
普段通り、冷静であろうとしながらも、どこか抑えきれない感情を反映するように、食いしばった口元から小さな声を漏らした。
――信じますと来たか
どうやら、うちの御主人は、先ほど術式転写を行ったばかりの術式を使うつもりのようだ。
仮説にしか過ぎないといったのに……それが、『信じます』ときた。
まったく、ラリカと来たら……滾るじゃないか。
精神を集中するため、ラリカは眼前の巨大な魔獣など関係ないとでもいうかのように目を閉じる。
すると、すぐにラリカの周囲に私が転写した術式が展開されていった。
術式に合わせて、力をもった文字列が幾何学的な文様を成し、魔法陣が空中に描き出される。
先ほどから、何度となく描き出された魔法陣に比べ、はるかに大きく、その記述も一目では読み取れないほど細かなものだ。
それは、ある種の芸術品ともいうべき繊細さだ。
術式にラリカの魔力がすさまじい勢いで流れ込んでいく。
注ぎ込まれた魔力に応じて、物理法則を塗り替え、奇跡を起こすための術式が命を吹き込まれ拍動した。
魔法陣は、雨に閉ざされた世界を打ち払うかのようにその輝きを増してゆく。
ラリカから注ぎ込まれた魔力を穴埋めするかのように、周囲から膨大な魔力がラリカに向かって流れ込んでいく。
――先程、ラリカが神杖を使った時、魔力を大河の流れのようだと思った。
しかし、今のラリカはその上を行った。
――まるで、この世の生きとし生けるもの全てがラリカの元へと集まるようだ。
あたかも世界の全てが、ラリカに跪き、頭を垂れるように。
服従を誓うかのように集まっていく。
それはまさしく、神のごとき所業だった。
そのあまりに壮絶な魔法の気配に総毛立ちながら、鼓舞するようラリカの耳元に叫んだ。
「――ゆっけぇっ、ラリカッ! 見せてやれッ……。神に挑んだ人の意地を。人が生み出した叡智の結晶を……見せてやれッ!!」
本能的に恐怖を感じたのか、ミギュルスは、再び鬣を逆立たせると、ぐっと四肢に力を入れ、散弾のように魔力の塊を周囲に向かって打ち出した。
目をつぶっていたラリカには、その光景は見えなかっただろうに、かっと目を見開くと厳かに口を開いた。
「――神炎」
吹き上がるように、目前に巨大な炎が立ち昇っていく。
巨大な炎は竜巻のように渦を形成すると天高くどこまでも伸びていく。
どこまで立ち昇るのか、その先は見上げても窺い知ることが出来ない。
炎の渦は、段々と光度を増していき、光輝く柱と化した。
飛来するミギュルスの魔力弾は、神炎に触れた先から次々消え去っていった。
運よくというべきだろうか。
神の炎による洗礼を受けなかった魔力弾は、城壁にぶつかると、大きく石造りの城壁を削り取っていく。
目の前でラリカの生み出した炎に飲み込まれていく魔法は、決して見掛け倒しのものではないらしい。
――だが、不思議なことに、ラリカが生み出した至近で燃え盛る炎は熱いと感じない。
満身創痍にも関わらず、迫りくる光の柱から逃れようと、ミギュルスは全身を地面にたたきつけるように跳ねまわっている。
しかし、地べたをはいずりまわる虫けらのような努力をあざ笑うかのように光の柱は近づいていき――
「うぉぉぉぉぉぉぉ……ぉぉぉぉぉぉぉ……」
今度こそ本当に断末魔の叫びだろう。
痛々しい声でミギュルスが嘶いた。
体が端から消え去っていく苦痛はいかほどだろうか。
アリンに傷をつけたことに対するには十分な報いと言えるだろうか?
四肢を失ったミギュルスは、体を支えることができず、ごろんと達磨のように倒れ伏す。
そして、そのまま炎は留まるところを知らず、ミギュルスの、胴をと首をと巻き込んでいく。
「くぅおん……」
最後は、弱々しい子犬のような鳴き声を残し、頭部が炎に飲み込まれ、見えなくなった。
やがて、周囲を圧倒するように立ち昇っていた炎も、ゆっくりとその火勢を抑えていき、最後はマッチの先程の火を残して、ふっと消えた。
――後には、なにも無かった。
ただそれだけだった。
あれだけの大きさを誇った体躯は、あっけなくラリカの放った神の炎に焼きつくされたのだ。
先程までの戦いは幻であったような、最後だった。
「……終わりましたね」
茫としたラリカが、こぼすようにつぶやいた。
「……ああ」
「……魔法、使えました」
「……ああ」
「……全身、すごく痛いのですが」
「……ああ……そうなのかッ!?」
様々な感情が押し寄せすぎて、頭が処理しきれず呆然と言葉を交わしていると、ラリカが聞き逃せないことを訴えた。
「はい」
「大丈夫か?」
「あんまり、……大丈夫じゃなさそうです」
そう応えるラリカの声には、確かに余裕がなさそうな苦痛見える。
「あ、やっぱり無理です……」
ぽつりと声が聞こえ、ふわりと、内蔵が浮き上がる様な感覚に襲われた。
目の前の景色が線となって流れ出す。
ラリカが、力尽きたようにぱたりと地面に倒れ込んだのだ。
神炎の範囲外だった地面は変わらずぬかるんでいて、倒れ込んだ衝撃で飛沫が大きく跳ね上がった。
「ラリカッ!」
ラリカの突然の転倒に巻き込まれ、泥まみれになりながら叫び声をあげる。
どうやら、神炎を放った反動が来ているらしい。
あれほどの威力の魔法を放ったのだ。
反動の一つや二つあってもおかしくない。
反動が命に関わる様なものでなければよいのだが――ッ
「ラリカッ! ラリカぁッ!」
肉球のついた前足で、ラリカの両肩に爪を立てるようにべしべしと連打する。
「んっ……」
痛みに応えるようにうっすらと目を開いた。
しかし、目を開いたのも、体が反射的に動いたと言った様子で、意識的にこちらの呼び掛けに応える様子はない。
「くろみゃーちゃん。大丈夫よぉ。大きな魔力を使った後、倒れる子は良く居るの。安心なさい。命には関わらないわぁ……」
ゆったりと、アリンの手当てを終えたらしいクロエがこちらに近づいてくる。
「ほんとうかっ!? ラリカはっ! ラリカは本当に大丈夫なんだろうなッ!?」
「本当に、心配性な子ねぇ。大丈夫よぉ」
そういってクロエはくすくすとラリカと似た笑いをあげながら、ラリカをお姫様抱っこするように抱えあげた。
「――さ、今日一番頑張った子には、ゆっくり休んで貰いましょうか」
はっきりとした声で、わが子を見るような慈しみの目をしたクロエはラリカを抱えたまま歩き出す。
「待て! どこへ連れて行くッ!」
「どこって、この子のお家よぉ。遊び疲れた子は、お家に連れ帰るものよぉ……」
懐かしいわねえ。と呟きながら、ラリカを抱えて歩くクロエはとても嬉しそうだ。
少なくとも、ラリカをどうこうする事は無いだろう。
私も、その後ろを慌てて追いかける。
――ラリカを心配する一方で、実は少し、心に引っかかったことがあった。
……手当てを終えたらしい、アリンがそのまま放置されている。
……いいのか?
……人として本当に良いのか?
なにやら、ぴくぴくと痙攣しているのがことさらに不吉だ。
……とりあえず、念のため精一杯の治癒魔法はかけておきますね。
自責の念に苛まれながら、アリンに向かってできる限りの治癒魔法を振りかけた。
……ちょっとスパイス多めで。