第七十三話「その感情の名は」
……大気が。ラリカの雄叫びに震え。
耳の奥に伝わってきた振動が鼓膜を震えさせる。
――魂を震わせるような、熱い咆哮。
未だ幼さの残る少女が上げたものとは思えない。
力強く、心を震わせる叫びに。
その瞬間、私も、フィディアも。
そして――邪神さえもが。確かに唖然と動きを 止めた。
「……ぁ……」
体の中に積み重なった澱を、すべて吐き出そうとでもするかのように、長く響いた叫びを終えたラリカが。余韻のように最後の息を小さく吐き出し、黙り込む。
沈黙が降りた、妖しく艶びた光を放つ極彩色の空間の中。
未だその残響が残り響いているように、体内を巡る自身の血液が潮騒を耳の奥で叩きつけていた。
誰一人言葉を発する者はなく。
身じろぎするモノさえも居ない。
――静まりきった世界。
その中でラリカは、魔法を放ち、前方に伸ばし開いていた手のひらを、拳を作るようにぎゅっと握りこんだ。
……気づけば。つい先頃まで震えていたはずのその手は。まるで何かを掴み取ろうとするかのように、強く――力強く、固く握り締められている。
握りこまれた拳が、勢いよく――振り下ろされたッ!
「――くろみゃーッ! 魔法ッ!」
――振り下ろすと同時。
背中を向けたまま、振り絞るような力強い指示が飛んだ。その力強くもあどけない声に、はっと正体を取り戻した私は、弾かれたように雷槍の魔法を展開し撃ち放つ。
直前まで呆けていたにも関わらず、自分でも意外な程の早さで魔法が構築された。
白い雷の槍が轟音と共に着弾し、直撃を受けた邪神はまるで何かに動揺するかのように左右に身じろぎすると、再び魔法に対抗するようにうねりを上げて動き始める。
だが、いかな邪神といえど、先ほどの魔力の温存も、神器の温存も。後のことを一切考慮をすることもなく放たれた攻撃のダメージは大きいのか。削り取られたその体を修復するように表面を波立たせながらの動きは、先ほどまでとは違い随分と緩慢なものであった。
――まさに。
ラリカが放った魔法が。
彼女の放った攻撃が。
……その場の天秤を大きく傾けていた。
気づけば。先ほどまでの、追い詰められ。神経がすり減っていくような焦燥に駆られた攻防とは打って変わり、束の間の思考をするだけの余裕が生まれている。
警戒するように前方の邪神を注視していたラリカが、私の魔法が無事に邪神を押しとどめているのを確認すると、くるりと体を反転させる。そのまま、つかつかと、こちらに向かって足早に歩き始めた。
ステンドグラスのような、異質な文化の痕跡を残す彩りを背景に。何かを堪えるかのように伏し目がちの表情は、地から見上げる私からも窺うことが出来ない。
ただ――こちらに向かって歩みを進めながら、彼女の唇が小さく動いた。
「……くろみゃー……無理を承知で言います。――お前は、なんとしても、『もう少し』だけ。時間を稼いでください」
――先ほどの咆哮が嘘のような。ひどく落ち着いた声音だった。
それはともすれば――酷い激情を押さえ込んでいるようにも聞こえる。
「……あ、ああ……だが、このままではジリ貧だぞ?」
「……ええ。分かっています」
ボコリ……ボコリ……と、水面に浮き出る水泡の如く、その体積をじわじわと増していく邪神を見ながら。もし、撤退するのであれば今しかないと考え、ラリカに向かって警告する。
だが、そんなことは、ラリカも承知の事であったのだろう。
ラリカは、静かに重々しく頷きを返してきた。
「ですから……」
少し。張りを感じる低い声を上げながら。ラリカはようやく顔を上げた。
顔を上げたラリカの表情に。
きゅっと引き結ばれた唇と、真紅の瞳に。
――思わず私は息を呑んだ。
『知っている』
――私は、知っている。
『彼女』が浮かべている表情を。
そんな表情を……浮かべる者の事を。
……気づけば、口元が、ぐいとつり上がっていく。
彼女の、強く光を宿した赤い瞳に。
――静かに。熱く――強く。
強い意思が籠もった瞳が。ぶれることなく、私の後ろに向けられた。
ビクリと、背後であまりにも強い視線を向けられた少女が、体を震わせる気配がする。
「……フィディア、ヴェニシエス……」
……『何』が、切っ掛けだったのかは、分からない。
――だが、違いない。
隣をすれ違っていくラリカの履き物が。土を食みジャリッという高い音を立てるのを聞きながら。ゾクゾクと背筋を這い上がる、高揚感と一抹の郷愁に身を委ね、一瞬だけ目を閉じた。
――ああ。そうか。『君』は、そんな表情を、浮かべるのか。
ならば、ここはやはり、私が踏ん張らなくては――些か男が廃るというものだ。
目を開き。ラリカの指示を。ラリカの『願い』を叶えるべく。
沸き上がる感情が舞い上げる魔力の余波。滾り突き上げてくる歓喜の昂ぶりを。目の前の邪神に向かって、より一層深く、重く、力強く練り上げ、叩きつける――ッ
――そう。ラリカのあの表情。
それは……リクリスの一件があってから、見る事が出来なかった表情だ。
……いや、ひょっとすると『それ以前でも』かも知れない。
……出逢った時の彼女は、確かここまでの表情は浮かべていなかったはずだ。
ならば、それ以降の体験……それは、確かに彼女を変えたのだろう。
「……協力してください」
「……きょう……りょく……?」
静かに。しかし、猛るように。
そこに浮かぶ感情の名前。
それは――『覚悟』
万難を排し、前に進むために持たねばならない心構え。
……いや、あるいは、絶望にあってもさらに『そこ』から踏み出そうとする力。
それを――
「ええ。『ヴェニシエス』貴女の……力が必要なのです」
「……何を……するの?」
――『勇気』というのだ。
「――セト=シスを――助けますよ――ッ!」
どうやら、私の小さな主人は。
今、この瞬間――『勇気』を持って前へと進む『覚悟』を決めたらしい――ッ!
***
「――っっ、……無理よ。そんなの……。出来るはず、ないじゃない……セトも――ターニャも……ッ! もうッ、邪神に取り込まれてしまったじゃないのッ! 一体、どうするっていうの!? ――どうしたら良いっていうのよっ! 私に出来ることなんて、私なんかに出来ることなんてっ! もう、ないじゃないっ!」
ラリカの言葉に、目の前でターニャを失い。セトを失い。絶望のただ中に居るフィディアは、一瞬理解が追いつかない様子で目を見開いたが、生気を失った表情でブツブツと答え――ターニャの名を口にした事で先ほど泣き叫ぶ彼女の姿を思い出してしまったのか、吐き気を堪えるように口元を押さえ。感情が抑えられなくなったのか、ヒステリックな調子で反駁した。
フィディアの内に潜む激情を示すように、地に着いた手は地面の土を抉りながら握りしめられている。
――この瞬間。自身が親しくしていた者たちを二人も失っているのだ。その心の内は、私達とは比較にならないほど乱れているだろう。
しかし、そんなフィディアに向かって。あくまで静かに。決して、彼女の激情に引きずられずに。ラリカは強い意思を秘めたまま、しっかりと首を左右に振った。
「――いいえ。それは違います」
そこには、先ほどまでのどこか自信なさげに一歩引いたようだった態度はなかった。唇を引き結び、フィディアに向かって己が意思を伝えようと見つめている。
「……違うって……」
――明確なラリカの否定の言葉に、フィディアが戸惑いも露わに言葉を失う。そんな彼女に向かって、ラリカは言い聞かせるように言葉を続けた。
「思い出して下さいっ。セト=シスは、この儀式の『器』になっているはずなのです。ならば、仮に取り込まれていたとしても、決して亡くなっているはずがありませんっ! 儀式が続いているのが、その証拠ですっ!」
「……っ」
――フィディアの表情が、動揺するように揺れた。
僅かに期待するように、何かを求めるように、フィディアの唇が微かに開かれる。
――しかし、すぐにまるで自分の無力さを嘆くように強く唇を噛みしめた。
そのまま、打ちひしがれるかのように、がくりと首を垂らす。
「……それでもっ、同じ事よ……ヴェニシエス。邪神に取り込まれてしまった以上、どうすることも――」
……幾分か冷静さを取り戻した声音で、俯いたまま続けるフィディアの言葉は、間違いではない。
先ほどのターニャの事を考えれば、現状、迂闊に触れる事すら怪しいのだ。仮にセトにまだ息があったとして、どうして彼女を助け出せようか?
「――フィック=リスが言っていました。『術式を破壊すればこの儀式は止まる』と……」
しかし、言いかけたフィディアの言葉を、途中でラリカは遮った。
フィディアの前へと立ったラリカは両膝を突き膝立ちになると、自分の杖を抱きかかえるように抱きかかえ、フィディアに向かって空いた両手をそっと伸ばす。
俯いたフィディアの両頬を、包みこむように両手で支え、自分としっかりと目が合うように前を向かせた。
ぐいとフィディアの顔を持ち上げた勢いで、フィディアに向かって乗り出すように動いたラリカの、後ろで結んだ髪が跳ねるように揺れた。
「……お願いです。私が、術式は組み上げます。必ず、組み上げて見せます。セト=シスを助け出すための術式を、絶対に、考えて見せます。だから、フィディア=ヴェニシエスは、その魔法を行使してください――ッ!」