第七十一話「狂咲宴」
激しく揺れる光だけが頼りの空間の中で、『ザッザッ』とも『ギュッギュッ』とも言えない規則正しく砂利を蹴立てる音と。ハッハァッという女性の激しい息づかいが響いている。
……そんな、薄暗い空間とは別の。私だけに見える世界。
――金色の視界の中で。
先頭を行くラリカの華奢な体躯に沿って放たれる、まばゆい魔力の輝きを追いかけながら。周囲を警戒ながら走り抜けた。
「――来るぞ、左っ! 数は二体だっ」
私の声に、ラリカは駆抜ける速度そのままに、左手に杖を持ち替え。構えた。そして、軽く手首を捻り、杖に括り付けた光を放つ石で辺りを照らすように一瞬振り回すと、そこに浮かんだ影に向かって杖の杵のように太くなった先を振り回した。
――湿った水音が響く。
次に、振り払った衝撃を利用するように半身を捻り、引き込んだ力を進む力に乗せて石突きの部分を突き伸ばす――と、見る間に二体現われたはずの使徒は、すぐさまその体を震わせるように、遺跡の暗闇の中へと溶けて消えた。
ラリカは、消えてしまった使徒達が居た場所にチラリと視線を向ける。そのまま足を止めることなく一瞬だけ黙祷するように視線を伏せた。
――まったく……流石に、これは予想外だ……
次々と現われる使徒達を。その手に握った杖だけで、魔法を一度も使う事無くなぎ払っていくラリカの姿を見て。私は感心と同時に、呆れに似た感情を抱いていた。
……だがしかし、考えてもみれば当然のことではあったのだ。
『ラリカ英雄譚』……その言葉自体は何度と無く聞いてきた。
その言葉は今までずっと。ラリカが挙げてきた薬の開発や治療などの功績を讃えるものだと考えていたが……思えば、『英雄譚』などという言葉は、ある程度の『荒事』をこなせる者に用いられる言葉だろう。
――ならば、各地に語られる件の『英雄譚』には、想像するに先ほど畏怖を込めフィディアが口にした『クティシア流刀槍術』なる存在が登場していると考えて間違いは無いはずだ。
――きっと、それは彼女が魔法を使えなかった故の修練の現われ。
そして……
……前を駆ける彼女を見つめ、ゴクリと固い唾を飲み込んだ。
明らかに――人間離れした身体能力。
――今日一日で随分と馴染み始めた、この瞳にはよく分かる。
それは恐らく。ラリカの体を激しく巡りゆく、金色の光が原因なのだろう。
元来。それが原因で『死』に至ろうとしていたこの子のことだ。人に比べて遥かに激しい輝きを秘めている事は端から知っていた。だが、この全身を一定の秩序を持って加速していくような魔力の流れは……フィックがセトを助けたときに纏っていたものに酷似している。
――ああ、まったく。
次から次と、随分色々な面倒を背負っている主人が居たものだ……
……新たな悩みの種を見つけ、私は一人嘆息する。
だが、その主人の特技のお陰で。こうして先ほどまでに倍する速度で進むことが出来ているのは事実。
今は、目先の問題を解決し――無事にフィックとも合流した後。
悩むのはそれから。
――のんびりと茶をすすりながらでも十分だ。
そう考えたところで――良く前世で口にした紅茶の味が口の中に思い出され……思わず喉を鳴らし、一人私は笑うのだった。
……そういえば、フィディアがお茶を淹れるのは上手いと聞いたな。アイツの紅茶には敵わんだろうが、無事に終わった後、今回の駄賃代わりに、例の「ティジュ」という奴をご相伴にあずかることにしよう。
***
「……もうすぐ、でしょうか?」
「……ああ」
空気が明らかに変わったことを感じ取ったラリカが、足を止めず、右手に握り締めた杖を強く握り直しながら疑問を口にした。
――気づけば、私の視界の中は金色の光に満ちあふれ、まるで真昼のような明るさだ。だが、それに比例するように、辺りに漂う腐臭はもはや入り口近くとは比べものにならないほどに強く香り、麻痺してきた臭覚の中でも吐き気を呼び起こしてくる。
ともすれば先ほど、フィックが一人残った。あの使徒共がひしめき合っていた空間よりも、濃密に。
……ならば、つまりはそれだけの数の使徒がこの先にいるということだ。
――あるいは、『邪神』そのものがそこに存在しているのか。
……どちらにしろ、まもなく一筋縄ではいかないであろう事態に直面するであろう事を悟り――自然、私達の間に緊張が走った。
「……光……?」
いつの間にか、めっきり使徒が襲ってこなくなった通路を進み。右に向かって辻を曲がったところで、遠く離れた所に光が見える事に気がついたフィディアが小さく声を発した。
……どうやら、あの光は魔力とは違い、ラリカ達の瞳にも映る物理的な光のようだ。
その光に照らされている空間に向かい、今まで以上に濃密な瘴気と、金色の粒子が激しく流れ込むように吸い込まれ、乱舞している。
「……ああ。そうだな。……どうやらあそこが敵の中心部のようだ。――心してあたるぞ」
「ええ。……そうですね。分かりました。――行きますよっ!」
「――待てっ!」
私の言葉に同意しながら、そのまま速度を上げようとするラリカを制止する。速度を上げるためにぐっと右脚に力を入れていたラリカが、慌てたように足を止めた。
「……いくら君が杖術に秀でていようとも、先に居るのが杖術が効いてくれる相手ともかぎらん。ミギュルスのような相手であれば、魔法が得手の私が先に行った方が良いだろう。――交代だ」
「っ……いえ……そうですね。……確かにそれが、最善……ですか」
言葉を途切れさせたラリカが、不安げな表情を浮かべ視線を迷わせる。どうやら、自分以外を先行させることにためらいを覚えているらしい。
「……安心しろ。やりたいようにするのは良いが、我々も少しは頼っても貰わんとな。……君にばかり、『格好良いところ』を取られていては敵わん」
……ラリカが、少しでも気にする事が無いように。そして、ラリカが傷つく事が無いように。言葉を選び、冗談めかしながらそんな韜晦をする。
「……分かりました。くろみゃー。お前が、そうしてくれるというのなら。……今は私はお前の後ろでお前を守るようにしましょう」
「――頼む」
ラリカと進む並びを変え、不測の事態に備えていると。段々と通路の向こうに見えていた光の下へと近付いて行く。ちょうど良く身を隠せそうな大きめな岩の手前へと足早に進み、ひっそりと奥を窺う。
――どうやら光の向こうは、一段床が低くなり、その奥には先ほどのドームと同じく拓けた空間が広がっているらしい。先ほどまでの洞穴とは打って変わり、明らかな『儀式用」とおぼしき空間が広がっている。果たして、それはどこからの光なのか。あるいはそれは、それ自体が光を放っているのか、天地四方を覆い尽くすように張り巡らされたステンドグラスのような物体が、異様で妖しげな光を周囲に振りまいている。
――もう少し、奥を……
まるで異界のようなその空間を覗き込もうと身を乗り出すと、遠くにスカプラリオに似た黒い衣を纏った何者かが、奥に向かって某かと対峙するように右手にタクトのような杖を構え。背中を向けている姿が見えた。
――あの姿は……ターニャ……か? 一体何を――
「――ぁである――と――み――」
――雷獄の術式……っ!?
ターニャが何事かを叫びながら、物騒な事にも雷獄の術式を組み上げている。
裡に秘めている光を見る限り。どうやら魔力はそれなりにあるようだが、上級魔法の術式を構成するに手間取っているらしい。ザワザワと感情の昂ぶりを示すようにざわめく魔力を抑え込み、ゆっくりゆっくりと丁寧に術式を組み上げているのが見て取れる。
一体、何に向かって魔法を放とうとしているのか?
対峙している先を覗き込もうと体を伸ばしたとき――視界の端をすり抜けていく金色の影があった。
「――なっ、待てっ! フィディアッ!」
影――白と黒の衣服をはためかせ、長い金髪を後ろになびかせながら。突進するように斜面を滑り下りながら駆け出したフィディアのことを制止する。
だが、どうやらまったく私の声は聞こえていないらしい。先ほどまで私達に遅れ、息を切らしていたのが嘘のようにフィディアはターニャに向かって駈け寄っていく。
「何をしてるのっ!? 止めなさいっ! ターニャッ!」
「――フィディア様っ!?」
フィディアの悲鳴のような声と、バタバタと駈け寄ってくる足音に、ターニャが表情を驚愕に引き攣らせながら振り返った。突然の事に集中を乱されていたのか、先ほどまで必死にターニャが組み上げていた術式が、見る間に霧散していく。
ターニャまでの間には幾ばくかの距離があったが、ターニャが動揺したのが幸いした。なんとか駈け寄ったフィディアがターニャの右手に握られている杖に向かって両腕を振り上げ組み付く。
「――ヤメっ――ッ!」
ターニャが叫びながら、自分の右手を抱え込むように捕まえているフィディアのことを引き剥がそうと、左手をフィディアの右肩に押しつけ突き飛ばした。
――どうやらフィディアも片手に杖を握ったままだったらしい。突き飛ばされた拍子に、ターニャと同じようなタクト型の杖が、フィディアの手をすり抜けカラカラと床を転がっていった。
ターニャはフィディアを警戒するように左手に杖を持ち替えながら、フィディアの杖が転がった先へと飛びすさる。そして――そのまま空いている右手で斜め後ろの中空を指さした。
「――アイツを殺さないと――終わらないんですっ!」
――そこに至り、ようやく私達は何故フィディアが突然飛び出していったのかを悟る。
そこには……
――闇色の触手に飲み込まれるように顔を覗かせる。盲目の少女の姿があった。
捻れ、絡み合うように無数の触手が、ぬたりぬたりとうぞめきあい、不気味な微かな膨張と収縮を見せ蠢動を繰り返している。その中で苦しげにぐったりと目を閉じたセトが持ち上げられ、時々触手の蠢きが伝わってくるのか、振り乱されるように僅かに揺れていた。非道く汗をかいているのか、べっとりと前髪が妙に艶めかしく顔に張り付いている。
まるで初めからそれが一個の生物であったかのように。目を灼くような魔力が、邪神とおぼしき触手達とセトの間を循環していく――。
――これが……邪神……っ!?
……これは……人が相手に出来る様な存在なのか……ッ!
その、圧倒的なまでのおぞましさに、思わず背中に冷や汗が流れた。
「――セトッ! セトぉッ!」
フィディアが懸命にセトの名前を呼びかけるも、どうやらセトは完全に意識を失っているらしい。なんら反応を返すことなく、ただ成されるがままだ。
「ラリカッ! 行くぞ」
「ええ!」
フィディアに出遅れた私達も、フィディアに向かって駈け寄った。
「――っ、ラリカ=ヴェニシエスまで……っ 仕方ないっ――」
ラリカの姿を認めたターニャが、焦りも露わに邪神の方を振り返り、足下に転がっていたフィディアの杖を、邪神の方へと向かって蹴り飛ばした――っ!
「――あっ」
フィディアがどこか間の抜けた声を出すが、無情にも蹴り飛ばされた杖は邪神の光を反射させないにも関わらず、熟れ落ちた果実のような生々しさを感じさせる邪神の体表に触れ、ずぶずぶとその中へと飲み込まれていった。
「其は殉天に頂き返す光――」
同時。再びターニャが魔法陣を展開する。
だが、今回展開しているのは雷槍――どうやら、威力ではなく速度重視に打って出たようだ。
――いかん。間に合うか!?
私もターニャを止めるために氷槍の魔法を急ぎ展開する。ターニャに向かって走る体に、魔力を巡らせ術式を刻み、魔法陣を展開する。
「――駄目っ!」
――私達に比べて幾分かターニャの近くに居たフィディアが、なんとかターニャの魔法を阻止しようとするように、ターニャに向かって体を打ち付けるように右肩から突進した。
「――っ!」
フィディアがぶつかった事で突き飛ばされたターニャの体が、衝撃に一瞬僅かに浮き上がり、固い石畳の上を転がっていく。
――しかし、今回は事前に予想がついていたのだろう。ターニャは術式の構築を途切れさせずに、露出しているセトに狙いを定めたまま転がり――
「――あ……」
……それは、果たして誰の上げた声だったのだろうか?
魔法を放つことに集中し、勢いに身を任せ転がりすぎたターニャの右足が。邪神の立体感のない触手の先へとずぶりと触れた……状況を理解出来ない者たちの場にそぐわない間抜けた声が響く。
――しかし、段々と。
……じわり、じわり……と状況がしみこむように理解されるにつれて。
ターニャの顔色が青白く、絶望に染まっていく。
まるで。そんなターニャの絶望に歪む顔に、愉悦でも覚えたかのように。静かに、しかし嬉々とした熱を帯びた邪神の触手が――ゆっくりとターニャの足に巻き付いた。
「……あ、嫌、……ぁ……、や、やあああああああああああ……………っ!!」
――まるで、先ほどの彼女が蹴り上げたフィディアの杖の焼き直しのように。ターニャの体がゆっくりと――しかし、確実にずぶずぶと邪神の『中』へと飲み込まれていく。
「嫌、なんっで? ヤダ、嫌だ。助けて、助けて……」
絶叫し、涙に顔を歪めながら、ガリガリと、爪が剥がれる事さえ厭わず、石畳を手で掻きむしり、藻掻きながら。しかし、確実にじりじりとターニャの下半身が邪神に飲み込まれていく。
「ターニャっ!」
一瞬呆けてしまっていたフィディアは、助けを求めるターニャに向かって駈け寄ると、その右手をしっかりと握り締めた。ターニャは、恐怖に歪んでいた表情に一瞬だけ驚きを浮かべながら自分の手を必死で握るフィディアのことを見つめる。
「――フィディア様ッ! フィディア様ぁっ!」
――ようやく追いついた私達も、ターニャを助け出すために、彼女が伸ばした手を掴みとる。フィディアの隣から、綱引きの要領でラリカがターニャの腕を掴み引っ張り、腰をいれてぐっと力強く引っ張った。
――その瞬間。『ゴリッ』という嫌な音が、ターニャの腕から響いた。
二人に掴まれたターニャの右手が数センチ――伸びた。
「――ああああああああああ、痛っ、痛いっ」
火がついたかのように、ターニャが苦悶に顔を歪め一層泣き喚く。しかし、それだけの代償を負ってなお、ズリズリとターニャの体は邪神に向かって吸い込まれていく。
――なんとか、ならんのか!?
焦りを覚えながらも私は先ほど展開していた氷槍の矛先を、ターニャの後ろに居る邪神に向かって定め、撃ち放つ。闇色をした体表に、白く光を映す氷の塊が触れた瞬間。触れた先、邪神の体がパンッと音を立てるように弾けた。抑えを失ったターニャの体が、ずるりと妙に湿った感触とともに触手の海の中で僅かに抜け出した。
――ピタリと、ターニャを飲み込んでいた邪神の動きが止まる。
「……なんだ? ……見られている……のか……?」
――ぞわりと背筋に広がる不気味な感触に、思わず全身の毛並みが逆立つ。
――ずぶずぶと、息苦しく、足先から締め付けられていくような。どこまで続くともしれない沼の底へと沈んでいくような。全身が重く冷め切るような感覚に――刹那の時間さえ永劫のように感じられた。
どこに目が着いているのかすら分からない不定型な触手に、何故か『見られている』という確かな確信があった。邪神が。あるいはその奥に居る『ナニカ』が。まるで目の前に対峙する私の事を試すように。品定めするかのように。じっとこちらを見つめていた。
――不意に。ふわっと大輪の花弁を開くかのように。不気味な触手達は突如としてその身を広げ始めた。その形は、まるで何かを迎え受けようとしているようにも、反対に襲いかかろうとしているようにも見える。
「っぁ――逃げろっ!」
それは言葉に出来ない感覚だった。
それは、非道く原始的な感覚だった。
――「反射」と言うしか無い。
まるで、『ヒト』が『ヒト』として生きる間に何度も何度も繰り返してきたかのような。『生命』として生まれ出でてから連綿と続く歴史の中で。絶えず抱き続けていたような。震え刺し貫く衝撃に、気づけば私はラリカ達に向かって、大声でそう叫んでいた。
――フィディアも。ラリカさえも。
その瞬間、だけは。あらゆることを忘れ去って居たのだろう。
ターニャが伸ばす手を離し。体の命じるまま。その場を大きく飛びすさった。
――次の瞬間。
――『ドプン』と。
まるで、大波が浜辺に向かって押し寄せるかのように。
黒色の波が、先ほどまで私達が居た場所を覆い尽くした――っ。