第六十二話「惑い」
「――どうしたのです!? セト=シスは自室に戻られたのでは無かったのですか?」
フィディアの尋常では無い剣幕にラリカは少し面を喰らいながらも、何か事件が起こった事を察したのだろう。慌てた様子で聞いた。
フィディアはラリカに向かって駈け寄り。今にも泣き出しそうな顔で、ラリカの赤い上着の二の腕を強く握り締めて訴えた。
「……部屋に、セトがっ! あの子が居ないのっ! 外にあんな魔獣が現われてるのにっ!」
「――こんな最中に出掛けたというのですか!?」
「……そんなっ、ほんとーですか、フィディア=ヴェニシエス!」
眉尻を落とし困り果てた表情で、取り乱し焦燥に枯れる声で訴えるフィディアを見て、ラリカ達も焦りを滲ませながら答えている。
その一方で私は、皆の声をどこか遠く――靄の向こうで呆然と聞いていた。
――セトが、居ない。
その事で、思い返すのは。長椅子に腰掛け。星降る夜空を見上げながら。切なげに呟く少女の言葉だ。彼女は『一つだけ見たことがある光景がある』と憧憬も露わに語りながら。とある事を口にしていた。
『私の目が見えなくなったのは、遺物の呪いのせい』
……まさか。……まさか――まさかっ!?
『ソレ』は、僅かな可能性のはずだった。
『嫌な予感』ただ、それだけの存在のはずだった。
『邪神を呼ぶ器は、通常では考えられない『何か』……『適正』がある、『何か』』
――『死神に魅入られた子』を治療するとき、ラリカは悔しそうに語っていなかったか?
『死神に魅入られた子のうち、高い適性がある人であれば一部機能の喪失だけで治療をしなくても生きている』と。
――あの時、セトは言っていなかったか?
『ある教会の、高位の方から治療の打診を受けている』と。
『とある方から声を掛けられたから、嫌な思いをした人が居る』と。
……考えれば考えるほど、嫌な想像は形を持って、私の焦りを加速させていく。
――信じたくはない。そんな事、あってはならない。
しかし、いくら考えても『その想像』は、どんどんと輪郭をはっきりとさせていった。
「――セトは……セトはっ、ミシェル=サフィシエスと……面識が……っ、あるのかっ!」
「――くろみゃーっ!?」
――思わず。ミルマルを演じる事すら忘れ向かって叫んだ私に。
それまで焦りに顔を歪ませセトのことを案じていたフィディアが、虚を突かれたように黙り込んだ。怯えたようにぱっとラリカから手を離し、不安げに眉を寄せながら周りを見回している。前置きもなく叫びを上げた私の名をラリカが戸惑ったように呼んだ。
――だが、今の私に、それに答える余裕は無い。
ただ、呆けているフィディアに少しの苛立ちを感じながら、もう一度叫んだ。
「答えろっ! フィディア――フィディア=ヴェニシエスっ! セトは、セトはっ、ミシェル=サフィシエスと面識があったのかっ! ……セトはッ、――かつて遺物に影響を受けて生き残った者なのかっ!?」
「――え、あ、え……」
「――お、落ち着きなさいっ! くろみゃーっ! 一体どうしたというのですかっ!?」
ラリカが戸惑いながらも取り繕うように私を諫めた。思考が追いつかず、目を白黒させているフィディアと、肩の上で身を乗り出している私の事を交互に見比べながら、片手を伸ばし私の事をあやすようにぽんぽんと叩く。
「――くろみゃーちゃん、その話って……」
だが、フィックは隣で話を聞いていた分、幾分か冷静に私の言葉を聞いていたらしい。
ラリカよりも先に、私が口にした言葉の『意味』を察したようだ。
俄に表情を硬くしながら、確かめるように小さく聞いてきた。
「……ああ、そうだ。セトから、相談されていたのだ。……一度だけ会った、『ある教会の高位の者』から、目を治す方法があると打診を受けているとなッ!」
……口にしながら、気がつく。
――そうだ。そもそも……セトが『打診』を受ける方法など……限られているでは無いかっ!
「……ああ、そーいうこと……っ、ああっ、もうっ……」
フィックは、目元を手で押さえ、僅かに悪態を口にしながら、つかの間天井の辺りを振り仰いだ。そして、顔を降ろすとフィディアの事をじっと見つめる。
「――ごめん。フィディアちゃん。大事な事なんだ。――質問、答えてくれる? セトちゃんの目は、遺物の影響で――あの子は『死神に魅入られた子』だったの?」
取り繕っている場合では無いと判断したのだろう。いつもの軽薄な敬語ではなく、フィディアの事を落ち着かせるように、年上の女性として優しく――しかして真剣に語りかけている。
「――え、ええ……セトは、教会に来る前に、遺物の呪いを受けたと聞いているけれど……そのせいで、目も見えなくなったと……」
そんなフィックの心遣いが功を奏したのか、相変わらず人語を話す私と、話しかけてくるフィックの事を探るように代わる代わる見つめながらも、フィディアは確かに答えた。
……答えを聞いた瞬間、自分の眉間に深い皺が寄るのが分かった。
「ミシェル=サフィシエスと面識は?」
「……ターニャ経由でしか面識は無いはずだけれど……。――ああ、いえ、そういえば、以前一度ユルキファナミア教会に来た時があったわね……」
矢継ぎ早に続けられるフィックの質問に、反射的に応えてから、思いだしたかのように、すぐに二人がすでに出会った事がある可能性をフィディアは示唆する。
「――っ、リス。まさかそれは……っ! 『器』というのは……っ!」
――フィディアの返事を聞き、私達の反応から。
遅ればせながらその『最悪の事態』に気がついたのだろう。
ラリカが私を右手で押さえたまま、弾かれたように斜め後ろに居たフィックの事を振り返った。
窓際に立つフィックは。窓からの月明かりを受け、暗闇にぼんやりと浮かぶ沈鬱な青白い表情で、重々しく頷きを返す。
「――その可能性は高そうだよ。ラリカちゃん……」
「……なんという事を……っ!」
ラリカが青ざめた表情で呻き声を上げ、絶句する。
ラリカが理解を示したことで、この場で唯一話に置いて行かれていたフィディアは。一度離した両手を、もう一度ラリカに伸ばしかけ――躊躇うように虚空に手を彷徨わせた。
「――ね、ねぇ? なんなのよ、何を言っているの? 『器』って? ――セトが、あの子が、どうかしたの!? ねぇ! さっきから、ラリカ=ヴェニシエスのエクザは人の言葉を話しているし、よく分からない魔獣は現われるしっ! どうなってるのよっ! 訳が――分からないわよっ!」
――叫ぶ声は、耳に痛く。強く。引き裂くような声音だった。
恐らく、理解不能な状況が立て続けに襲いかかってきたことで、不安が限界を迎えてしまったのだろう。まるで、私達に当たり、責め立てるかのように悲痛な声を上げる。
ラリカはフィディアの叫びに身を固くし、なんと説明するべきかと考え込むように一瞬視線を逸らし、顔を伏せた。目の前でラリカに表情を伏せられたフィディアが目を見開き。絶望するように唇を震わせる。
――そういえば、この子は英雄と思われているのだったか……
セトから、フィディアがラリカの事を尊敬していた事を聞いていた事を思い出す。
……よくよく考えてみれば、フィディアはこの状況でも『頼る』ことが出来る立場にないはずだ。平時であれば、自らの師匠であるラクス=ヴェネラに頼るという事も出来るだろうが、軒並み頼りに出来そうな相手は留守にしている。
私達はフィックという規格外の存在が居たから、状況を把握する事が出来た。しかし、何も分からぬ中、親しい友人の姿も見えず――ようやく見つけた頼れそうな存在が、この反応を返せば……フィディアの反応も当然と言えた。
「……いーいですか。フィディア=ヴェニシエス。落ち着いて聞いてね。……これから、状況の説明……ちゃんとしますから」
そんな二人の事情を察したのだろう。そっとフィックが前に踏み出し、ラリカとフィディアの間に身体を滑り込ませた。
フィディアは脅しのような言葉に息を呑み。しかし、喉を鳴らしながら反射のように小さく頷いた。
***
「……そんなっ……あの魔獣が……『邪神』? ……セトが、器になってる……ですって……?」
「……セトちゃんの事は、あくまで、『かも知れない』だよ?」
説明を聞いたフィディアが唇を震わせながら、困惑の色濃い表情で溶け入るような言葉を漏らす。フィックは気休めのように。あくまでセトが器になっている『可能性がある』と『かも知れない』と補足した。
だが、その言葉はむしろ『そうであって欲しくない』という願望の表れで、言葉とは裏腹に私達の間では――すでに、それはほぼ確定の事実として認識されつつあった。
「……そんなっ、そんなのっ! ――信じられるわけっ、無いじゃないっ!」
しかし、フィディアは大きく右手を打ち払い。フィックの言葉を大声で否定する。
「――大体っ、さっきから邪神だとか……フィック=リスっ! 貴方は何を根拠にそんな事を言って居るのっ! レシェル=バトゥスのような神代を生きた訳でも無い貴方は、邪神の姿も知らないでしょうっ! 悪戯に皆を混乱させるような事を言わないで欲しいわっ!」
――フィディアが激昂するのも理解出来た。
私達は直接レシェルからフィックが同じ時代を生きた者であるという事も聞いている。だからこそ、フィックの言葉も信ずる事が出来た。
しかし、普段のフィックしか見ていないフィディアからすれば、フィックは常に賑やかで馬鹿騒ぎしているだけの……単なる少し年上の女性にしか過ぎないだろう。
……そんなフィックから、『あそこに居るのは邪神で……』などと説明を受けたところで、たちの悪い冗談。友の不在につけ込んだ、悪趣味に感じられても無理もない。
「――私が、『影喰いの姫』……だから。だよ」
「……は?」
……しばし、逡巡するように思案したフィックが、静かに澄んだ赤い瞳をフィディアに向けた。
――自らが『影喰いの姫』であると。フィディアにそう告げたのだった。
フィディアは一瞬フィックの言葉が理解出来ないように呆けた表情を浮かべたが、見る間に眦を吊り上げていく。
「――フィック=リス……っ! 貴方はふざけるのも――っ!」
「――来て」
いよいよ怒りも露わに、フィディアが叫ぶのを遮るように、じっとフィディアを見つめたまま、フィックが小さく『ナニモノカ』を呼んだ。
――ざわり。見る間に、フィックが放つ『圧力』が膨れあがった――ッ!
「「――っ……」」
フィディアが、ラリカが。等しく息を呑む音が聞こえた。フィックの影から生まれ出ずるかのように、漆黒の影法師が立ち上がる。不定型な影の腕を突き出すように伸び上がったその様は、まるで窓の外に見えるかの邪神のようにも見えた。
不定型な『影』が――顔を恐怖に引き攣らせるフィディアに向かってそっと手を伸ばす。
「――私が、影喰いの姫……なんだ」
――二人の。息を呑み。恐怖を貼り付けた表情を見たフィックの瞳は。
……赤く濡れ――どこか哀しげにも見えた。
「――だから、信じて。ね? フィディア=ヴェニシエス」
――囁くようなフィックの言葉は。小さな言葉だったにもかかわらず、妙に耳朶に絡みつくように聞こえる。ねっとりと、耳元を撫でられるような蠱惑的な声に。思わず、背筋がぞわりと粟立った。
そして、絡みついた言葉が、ジンジンと頭の奥を震わせる頃――さっと、影法師は姿を消した。
――ぺたりと。先ほどまで影法師に腕を突きつけられていたフィディアが。
その場にへたり込むように腰を落とした。