第五十七話「ずっこいですよ」
「――くろみゃー。こっちに来なさい」
――部屋の戸締まりを確かめ、窓枠に飛び乗ったまま夜空に浮かぶ白月を見上げていた私は、ラリカの声に振り返った。寝支度を整えたラリカが、寝床の上で改まった様子で私の事を呼んでいた。
「どうした? ラリカ」
「……『どうした?』では、ありません。お前の方こそ、大丈夫なのですか?」
真剣な表情で聞くラリカに、一瞬なんのことかと考える。ラリカの赤い瞳がどこか心配そうに月を映し、揺れるのを見て。ようやく先ほどラリカに心配されたときの事を思いだした。
「……ああ、済まない。本当に、『マウエルの大花』とやらを見て、少し驚いていただけだ」
――嘘は言っていない。
事実として、確かに自分は『マウエルの大花』に驚かされたのだから。
「――そうですか……それならば、良いのですが。今も呆けていたようですからね。――少し、疲れましたか?」
「……よく見ているな」
「――大事な『家族』の事ですから。……これでも、ちゃんと見ているのですよ? 少し診てやりますから、こっちに来なさい」
「……体調が悪い訳では、無いのだがな……」
言いながらも、ベッドに腰掛けるラリカの隣に跳ね上がった。ラリカはベッドの上に登った私を軽く抱き上げ、膝のうえに乗せると軽く指先で私の体をなで回した。
――そっと触れる子供らしい熱さを持ったラリカの体温を感じながら、私はゆっくりと目を閉じる。
「……ん。そうですね。確かに問題は無さそうです」
「――だから、大丈夫だと言っただろう? ……むしろ、君の方が疲れているのでは無いか?」
触診が終わったのを確認して薄く目を開くと、ラリカに声を掛けた。
……集中し始めると自分の事を疎かにしがちなラリカも、フィディア達と別れて二人きりになったことで、ようやく落ち着いて来たのか僅かに表情に疲れが見える。
「……どこかのミルマルが、随分と心配を掛けてくれますからね。飼い主は気が気では無いのですよ」
「……全く、良く言う……」
疲れている姿を見られたのが恥ずかしかったのか、頬をふっと薄い桜色に染めたラリカが、軽い憎まれ口を叩いた。そんな姿に、先ほどセトの件で尋ねられた時の仕返しとばかり。私はふっと鼻で笑いを返した。
「――本当に、今日はよく頑張ったな。『立派』だったぞ。ラリカ=ヴェニシエス」
褒める。
先ほど。口にしたくても出来なかった言葉を今度こそラリカに伝えた。『可愛らしかった』『美しかった』褒める言葉は他にも思いついたが、今目の前に居る少女に掛けるべき言葉はこれだと感じて口にする。
虚を突かれたように目を見開いたラリカの赤い瞳が、窓から差し込む灯りを強く反射しきらきらと揺らめいた。
「――そうですか」
一言。ラリカは嬉しそうに呟くと、嬉しさを押さえ込むように、ぎゅっと両手を膝の辺りで握り締める。そのまま、左手の指にはめた赤い宝石のついた指輪を右手でそっと撫でるように触れた。
「……見ていて、くれましたか?」
小さくラリカが呟いた言葉には『誰が』という主語が無かった。その言葉は、一見すると私に確認しているようにも思える。
だが、恐らくそれは間違いだろう。今、この子が呟いた言葉は、きっと私に向けてのものでは無い。
「――ああ。見ているだろうよ。共にな」
……『共に』という言葉に、願望を。
そして、私の意思を込め、目の前で唇を引き結ぶ少女に声を掛けた。
「――っ」
声にならない声を出しながら、ラリカがぎゅっと目をつぶる。体にぐっと力が入り、強張っていた。そんなラリカの姿を見て、なるべく優しく。ぽん、ぽんっと、長く伸びた尻尾を乗せ、あやすようにラリカに撫でつけた。いじらしく涙を堪える姿を見ながら、どうするべきか思案する。
「ああ。そうだ。……ただ、やはりな。残念だったことがあるのだよ」
「――残念だったところ……ですか?」
結局不器用な私が思いつく事などしれたものだった。『残念』という言葉に反応したラリカが、涙を堪えるようにつぶっていた目を不安そうに開いた。
――開いた瞳は、僅かに充血して潤んでいる。
……本当に、良く頑張っているものだ。
内心で賛辞を送りながら、せめて皮肉気に聞こえるように、彼女の気が紛れる言葉を――そして、私の本心からの言葉を口にする。
「――なに。やはり、『ラリカ』と祭りを見てみたかったと思ってな……」
そこまで言って、一度言葉を切る。ラリカが、驚いたように目を見開いた。
ラリカの指先が何かに反応するようにぴくりと動く。
「――また、いつか共に回るぞ? ……君がいないと、どうにも落ち着かん」
「――っく」
言い切ると、私はラリカから視線を逸らし、のしかかるようにラリカの膝の上で前を向いた。
喉を詰まらせるように鳴らすラリカに、少し焦りを感じながら誤魔化すように言葉を繋げた。
「……ああ、そうだ。君が好きそうな店も、あったの――っ」
――言う内に、こちらを見つめていた少女に抱きしめられた。ラリカが小さく喉を鳴らしながら、私の事を抱きしめてベッドの上にぼふんと倒れ込む。そして私を抱きしめたまま、顔をぎゅっと私のお腹の辺りに押し当てた。
「――そうですか。そうですか……そうなのですね。お前は――私と、祭りを回りたかったのですか……」
「……無論だ」
――視線を落としても、見えるのはラリカの――リクリスから貰ったリボンで結っている後ろ髪だけだ。どんな表情を浮かべているのか見ることは出来ない。
だが。明らかに、その声は喜びが抑えきれないように弾んでいた。
「……いえ。随分あっさりと私と回るのを諦めたようでしたが、内心は『そう』だったのですね。ならば仕方がありません。甘えたがりのミルマルが言うことです。では、また、いずれ……一緒に祭りを回りましょう……っ! いえ、そうですね。ミアヴェルデは終わってしまいましたが、まだしばらくはお店も出ているはずですっ! ――明日。一緒に祭りを見に行きましょうかっ!」
顔を押しつけながら、嬉しそうに、さっきまでの静かな声音が嘘のようにぶつぶつと呟いている。
……やはり、この子も今日一日。立派につとめを果たしながらも、寂しかったのだろうか?
――いや、寂しかったのだろう。
私達と合流したとき、あれだけ舞い上がっていたのだ。緊張に固まるフィディアと違い、どこか余裕があるように見えたこの子も随分と共に祭りを回れず寂しかったに違いない。
……本当に、この子は……
「――そうですね。では、その為にもきっちり、今日は何があったのか教えて貰わないといけませんね……」
私が、子供を見守る親のような気持ちでラリカの事を見つめていると、急にラリカの声音が低く沈んだ。ゆっくり、ラリカが顔を上げていく――。
――顔を上げたラリカからは、表情がすっと抜け落ちていた。
「……? どうした?」
不穏な様子を感じ取り、少し離れて体勢を整える為に身を捩ろうとする。
――がしっと、私を掴むラリカの手に力がこもった。
「……ちゃっかり一人だけセト=シスの歌を聞いたり、色々と随分と楽しんだようではありませんか……っ!」
――ああ。そうか。そういえば、セトの歌を聞く前に、私が頷くのを見ていたのだったな。
もう一度、私にずいと顔を寄せ、恨めしそうに唇を尖らせるラリカを見る。
「ずっこいですよっ! くろみゃー! さあっ! 約束通り、今日一日、どんな楽しい出来事かあったのか教えなさいっ!」
――そういうラリカの声は、どこか甘えるようにも聞こえたのだった。
***
「……本当に、ちゃっかり随分と楽しんでいるではありませんか――っ!」
一通り、今日一日あった事を語り終えると、今は私を手放し、隣同士並んで座っていたラリカが、恨めしそうに私の事を睨め付けている。ラリカがヴェニシエスとしての役目を立派に果たしている中、自分が完全な物見遊山してしまっていたことに対する罪悪感を感じなくはない。
「……すまん」
「――いえ。まあ、楽しんでこいと言ったのは私ですから、良いのですが……ただ、羨ましいものは羨ましいのですよ……今度機会があれば、私もフィック=リスに案内して貰いたいですね!」
素直に謝る私に、ラリカは決意するように右手をぐっと胸の前で握ると、胸の内にたまった靄を吐き出すように大きく息を吐き出す――そして、安堵するように優しく微笑みを浮かべて見せた。
「それに、実はお前のお陰で少しほっとしているのですよ?」
「……どういうことだ?」
「セト=シスのことですよ。お前が話せることを知ったのでしょう?」
――その事か。と、私も大きく息を吸い込んだ。
セトの個人的な事情にも関わるため、大まかな説明にはなってしまったが、ラリカにはセトに私が人語を話せる事を伝えていると説明した。
「ああ。すまない。勝手に伝えてしまった」
「謝るような事ではありません。お前がそれを必要だと思ったから話したのでしょう? フィディア=ヴェニシエスから少しお聞きしましたが、セト=シスにも色々と事情があるようですからね……」
「……事情?」
私達がいないところでフィディアから話を聞いたのだろう。思案するように顎先に手を添えているラリカに聞き返す。少し逡巡するように視線を彷徨わせたラリカが、うんと一度頷くと口を開いた。
「……実は、以前から何度か。フィディア=ヴェニシエスはユーニラミア教会から、セト=シスに声かけをしないかと言われていたようなのです」
「……声かけ?」
「ええ。まあ、言ってしまえば『ユーニラミア教会に移らないか』というお誘いですね」
「……それはまた、大事だな。なぜだ?」
……この世界の詳しい事情は分からないまでも、あくまで『宗教』であり、『信じる神』であり、易々と変えられるようなものでは無いであろうことは想像に難くない。それをわざわざ自分の宗派に乗り換えないかという限りは、それなりの理由があるはずだ。
――たとえば特別優秀な人材がヘッドハンティングをされたというのならまだ話は分かる。だが、セトに関しては言っては悪いがどちらかというとハンディキャップを抱えている部類のはずだ。
「ああ……まあ、言い出したのは一部の方で、表向きユーニラミア教会としては、最大宗派としてああいった方々の支援にも力を入れていく必要があると考えて……ということのようですが」
「それならば、わざわざ他教会から呼ばずとも、自教会に――」
「ええ。ですから『表向き』と言ったのです」
「ならば、その真意はなんだったのだ?」
ラリカはぼうっと考えるように天井を見上げ、急に人差し指を伸ばして、言い聞かせるようにこちらを振り向いた。
「――くろみゃー? 貴方は私の事を、『何教徒』だと思っていますか?」
「ユルキファナミア教徒……ではないのか?」
唐突に試すように投げかけられた質問に面を食らう。しかし、普通に考えてみれば答えは『ユルキファナミア教徒』だ。自己紹介をする時にも確かにそうやって名乗っていたはずだ。
「いいえ。不正解です。正解は、『すべての教会に属し、すべての教会に属さない』つまり、『何教徒でもない』というのが答えです。強いて言えば『ユルキファナミア教会出身』となるのでしょうか? まあ、しかし一般的にはユルキファナミア教会のヴェニシエスと認識されていますが」
――そういえば、確かに以前も似たような事を言っていた。確かに折に触れて、『ユルキファナミア教会 出身の』という言い回しも聞いている。
「……ヴェニシエスはいずれの教会でも権力を有すると言っていたか」
「そういうことです」
「……なるほど。それで、セトのユーニラミア教会への改宗か。――随分。嫌らしい話だ」
「ええ……察しが良いですね。そういうことです」
私が先を読んで答えると、ラリカは満足げに頷き、すぐに苦々しげに眉をひそめた。
一般的に、フィディアは『ユーニラミア教会出身』のヴェニシエスとして認知されている。フィディアの言動から見ても、その事に揺らぎは無いだろう。
しかし、その師匠であるラクスは『ユルキファナミア教会出身』であり、フィディアが自分のユーニラミア教会の付き人を付けるほど入れ込んでいる友人も『ユルキファナミア教徒』である。
ユーニラミア教会からしてみれば、自分たちの教会からの出身であるはずのフィディアが、真に自分たちの利益になる行動を取ってくれるのか気が気でないという所なのだろう。
「……あくまで、本当にごく一部が言い出した事ですよ? ただ、誰かまでは分からないそうですが、ユーニラミアの上層部にその意見を後押ししている方が居るようなのです」
「……なるほど」
「――なので、この話については私やフィディア=ヴェニシエスが動くのは難しいのです。だから……お前が、セト=シスと話をする事が出来るようになって、少し……ほっとしたのです」
――ラリカが、歳に似合わない大人びた表情を浮かべている。つい先頃、『ラリカ=ヴェニシエス』に『立派だった』と言ったが、今改めて『ヴェニシエス』として配慮をするラリカを見ていると、『ラリカ』と『フィディア』という少女達に、あまりに過大な期待が寄せられているように感じてしまった。
――ならば。もしこの子が、私がセトと話せる事で、少しでも『負担が軽くなった』『心労が減った』と思ってくれるのであれば。私はその『期待』には応えたいものである。
「このユーニラミア教会への改宗についての話は、フィディア=ヴェニシエスもまだセト=シスに話してはいないようですから、お前から言ってはいけませんよ?」
「ああ。承知した」
念押しするように告げるラリカを安心させるように、私は大きく頷き返したのだった。