第四十四話「晴れ舞台の身だしなみ」
「そーれじゃぁ、ラリカちゃんっ! くろみゃーちゃんの事と市場調査の事……あとは、セトちゃんのことも私に任せてー頑張ってきてよ!」
「――はい。フィック=リス。……済みません、結局あれもこれもとお願いしてしまいましたね」
――ミアヴェルデ当日の朝。ラリカに抱きかかえられていた私は、フィックに手荷物のように手渡されていた。辺りは未だ夏が近づく朝独特の、低い気温にどこか香ばしい空気が漂っている。
ラリカ達は式典の準備をするため、朝も早いこの時間から集まることになっているらしい。なので、一旦私とラリカはここでお別れ。後は、ミアヴェルデが始まった後のラリカの晴れ姿を観客に混じって観覧する事になる。
体温の高いラリカの腕の中から持ち上げられ、フィックのひんやりとした両手に抱え込まれた。
ラリカは、フィックに抱えられた私の頭を撫でると、若干名残惜しそうに先ほどまで私を抱えていた両腕の袖を数度撫でると、ごそごそとファラスを取り出し、折りたたんだまま首では無く左腕に掛けた。
……今日は正式な行事ということもあり、ミアヴェルデの間はファラスを首から下げることになるらしい。部屋で久しぶりにファラスを身につけた姿を見たが、簡袈裟のような、マフラーのような布地を首からさげたラリカは、普段とはまた違いどこか神聖な印象を受けた。
「いーよいーよ。私が好きでやってる事なんだしさ! 祭りは楽しまないとっ! ――ってことで、ラリカちゃんにはいーっぱいお土産買ってくるからねっ!」
「ふふ……では、楽しみにさせて貰いましょう。――くろみゃー。くれぐれも、フィック=リスにご迷惑をおかけしてはいけませんよ」
申し訳なさそうに言うラリカに向かって右手をパタパタと振りながら笑顔を浮かべるフィックを見て、心配そうにしていたラリカが微かに笑みを浮かべる。
「――そう、何度も言わずとも分かっている。――だから、君も安心して行ってきたまえ……平常心でな……気をつけて行くのだぞ」
「ええ。そうですね。ありがとうございます。くろみゃー」
私からも、なにか一言言ってやりたいと思った私は、緊張したラリカがあらぬミスをしたり、恥をかいたりすることが無いことを祈り、『平常心で』という一言を送った。ラリカは、そんな私に向かって安心させるように満面の笑みを浮かべている。
……そんな笑顔を見た私は――。
「――周りに居る人間はすべて野菜だとでも思っておくと良い……一人で寂しくなったら、近くで見ているからな。なに、所詮この身はミルマルだ。いざとなれば、主人の下へとミルマル一匹駈け寄ったところでハプニングのひとつになるだけだ。遠慮せず助けを求めのだぞ? ああ、そうだ。ラリカ。お腹が減ってはいないか? 実際ミアヴェルデの間はあまり食事が――」
――この段になって、色々と不安が押し寄せてくるのだった。
……なにせ、ただでさえラリカは不安定な状況だ。本当にそんな状況で一人にして大丈夫なのだろうか? 先日レシェルと話する為に一時的に別れたときの様子を思いかえしてみても、随分と落ち着かない様子だったではないか。
そんな次々と浮かぶ不安に、思わずフィックの腕に両前足を掛けて身を乗り出しながら、ラリカに色々と言ってしまう。
「……くろみゃー……お前は主人の事をなんだと思っているのです……これでも人前に立つことは多いのですよ? 王都でも皆の前に立っているのは見たでしょう……?」
「……なっ!?」
「……うん。くろみゃーちゃん。心配なのは分かるけど、そーれは流石に心配しすぎだと思うな……」
……気づけば、ラリカが恥ずかしそうに頬を赤くして膨らませながら、不服そうにじとっとした視線をこちらに向けていた。同調するように、頭上からも呆れたようなフィックの声も降ってくる。
――やはり、つい言い過ぎてしまったらしい。
確かに、自分の事を信頼していないと思えば、少し不満げになってしまうのも分からんでも無い。
――そういえば、昔から『お前は過保護すぎる』とはよく言われたものだ。最近ではだいぶ気を付けているつもりだが……いかんな。気を付けなくては。今は亡き友人の言葉を思い出して、懐かしさと寂しさを覚えながらも反省する。
「……そうだな。すまない。……つい、心配でな」
「……いえ。そうですね……。――本当は、少し緊張しているのです。だから、『ありがとう』ですね」
「……そうか」
私が謝るとラリカがぎゅっと目をつぶった。そして、子供っぽく不満を口にしたのが恥ずかしかったのか、少しバツが悪そうに頬を染めながら右手を開いて見せる。――開いた小さな手のひらは、微かに白と青がまだらになっていて、強く手を握りしめていたことがうかがえた。
「さぁ、そーれじゃラリカちゃん、フィディア=ヴェニシエスも来たみたいだし、ほんとーに頑張ってね! いやいや安心してよ! ちゃーんと、『良い場所』は確保してるんだ―。だから、私達は近くで見てるからさ、安心して晴れ姿を見せてよ!」
「そうですねっ! フィック=リスもありがとうございますっ!」
「――ああ。ラリカの可愛らしい姿を、私も楽しみにしている」
「……ふふ、ならばここはひとつ、良いところを見せられるように頑張らないといけませんね!」
じゃれ合うようにラリカと馬鹿な会話をしながら、『フィディア=ヴェニシエスも来たみたい』というフィックの視線を追ってみると、確かに近くの橋を渡ってくるフィディアの姿が見えた。
祭事という事で、一張羅を着込んでくるかと思えば、ラリカ同様フィディアの服装も普段と変わらないようだ。いつもの黒と白が基調となった服装で、まるで今日がそれほど大きな祭りだとは思えないほど普段通りの――
……ん?
よくよく見てみれば、フィディアがなにかふらふらと左右に揺れているような……
「……フィック=リス。フィディア=ヴェニシエスの様子がおかしくありませんか?」
「……んー、なーんか顔色悪いね」
段々と、近づいてくるフィディアの姿がはっきりと見えるにつれ、その顔がはっきりと見えてくる。寝不足なのだろうか? うっすらとではあるが、目の下にクマができているように見え、ふらふらと定まらない足取りで歩いている。
――私達が自分の事を見ていることに気がついたのだろう。はたと足を止め、私達の方に顔を向けると、大きく深呼吸をした後、幾分か力の入った歩き方で『ぎくしゃく』と歩いてきた。
「……待たせたわね。ラリカ=ヴェニシエスっ! それでは、一緒に来て貰えるかしらっ!?」
「……いえ、行くのは分かっていますし、良いのですが……その、フィディア=ヴェニシエス……大丈夫ですか?」
……血走った目で、妙に肩肘に力が入り裏返った声で誘うフィディアに、ラリカが心配そうに声を掛けると、フィディアは図星を指されたように口元を隠し。動揺した表情を見せた。
「――な、なんのことかしらっ!? ラリカ=ヴェニシエスこそ、緊張されているのではないの!?」
――その一言で、何となく状況を察する事が出来た。
……ああ。なるほど。緊張して眠れなかったのか……
昨晩の食事会の後、フィディアは今日のミアヴェルデが心配で眠れなかったのだろう。
「いえ……確かに少し緊張していますが……その、フィディア=ヴェニシエスは少しお疲れに見えたので……」
「そんな事無いわよっ! ……そんなに見てすぐに分かるかしら……?」
フィディアが、ラリカに向かって強く否定しながら。ラリカ達に聞こえないように小さく呟きながら、不安そうに自分の顔を触っている。
……なんとか取り繕うとしているフィディアには悪いのだが、見かけの表情は気合いでなんとかなっても、目の下のクマはどうしようも無い。表情が気を張ったものになっている分、余計に追い詰められているような、無理をしているような印象を与えてしまっている。
――結局、原因は分からないままだったが、昨日の食事会でもフィディアはどこか追い詰められたような表情を浮かべていた。年齢的にも、普通に寝不足なだけなら問題ないだろうが、こうして精神的に来るタイプの疲れは如実に表面に出てくるものである。
……言葉を交わすことが出来るのであれば、恥をかかないように身だしなみは整えておけという所だが、まさかこんなところで言葉を発する訳にも行かない。
「フィディア=ヴェニシエスー。ちょーっとお時間大丈夫ですか?」
考えているうちに、私を抱えたままフィックがこいこいと手招きした。
「ああ――フィック=リス……本日は、セトの件をお願いしてしまって……」
「いーから、いーですから、ちょーっとこっち来て下さい」
若干フィックの声に対する反応もいつもより遅い。どうやら、やはりどうしても疲労が祟っているようだ。
そんな朦朧とした視線で思い出したように御礼を言いかけるフィディアを遮りながら、フィックは彼女を近場にあった石で出来た腰掛けるにちょうど良いブロックの上に座らせた。偶然なのか、少し奥まった場所になるそこは、フィック達の姿で隠れて周りからは見えづらい位置になっている。
「――ヴェニシエス、ちょーっと、くろみゃーちゃんを抱いててくーださい。 よいしょっと――ごめんね。くろみゃーちゃん」
言いながら、座った『フィディア』の膝の上に私を乗せた。そして、てきぱきと布地を二枚取り出して、魔法で水に浸して暖めると一枚でホットタオルらしきものを作っていく。もう一枚は単に水で濡らして絞っただけである。
「ちょーっと、フィディア=ヴェニシエス、目をつぶって上を向いて下さいね」
有無を言わせずフィディアに目をつぶらせると、ほっそりとした頤に手を当てて上を向かせた。
フィックの勢いに、フィディアは反論するタイミングを逃したように、言われるがままに従っている。ただ、膝の上に私が乗せられたときは、少し嬉しそうに頬を緩めて私の事を何度か撫でた。
……いや、まあ……単純に反論する元気が無いだけかも知れんが……
しかし、どうやらフィックはせめてフィディアのクマをなんとかしてやろうとしているらしい。思えば確か、フィックはリクリスの髪の毛が跳ねていたときにコッソリ直していた。案外、その辺りは気を遣うタイプなのかも知れない。
――いわゆる、老婆心という奴か……
決して口には出さずに、そんな事を考えた。
「……何をしているのですか?」
「んー、目の下のクマだけでもなんとかしようかなってー。ほーらー。ちょーっとはマシになったらいいじゃないですかー」
ラリカは、フィックの作業を横から興味津々に覗き込んでいる。二人から見つめられるフィディアは、少し居心地が悪そうに座る位置を直した。
「ちょーっと、熱いですよー」
「……暖かいわね……」
目元に暖めた布を掛けられると、ほっと息を吐き出しながらフィディアが呟いた。
そのまま熱が染みいるのを待つように、しばしの間静かに時間がおかれた。
「つーぎは冷たいですからねー」
言いながら、ぺりっとフィディアの顔に乗っていた布を剥いだフィックが、冷たく濡れた布を載せる。
――顔に布地を乗せられた瞬間、急に訪れた冷気に驚いたのか、フィディアの身体にぴくりと力が入った。
……そのまま、堪えるように時間が立つと、今度は問答無用でフィックが暖かい布にいきなり載せ替えた。
「――っ!」
――そのまま、一定時間暖め、冷やしを繰り返していく。
……そのたびに、目を閉じているために状況を掴みかねているのか、フィディアが驚いたようにぴくりぴくりと身体を震わせていた。
――まるで新手の拷問でも受けているようだな……
フィディアの身じろぎが良く伝わってくる膝の上で、堪えるように頭上を彷徨うフィディアの手のひらを見上げていると、思わず笑いを浮かべそうになって喉が音を立てた。
「こーんなもんですねー……完全には無理でしたけどー。ちょっとはマシになったと思いますよー」
最後に冷たい布で冷やしてから、フィックがフィディアの目の下を軽く引っ張りながらどこか不満げに声を掛けた。
「……そ、そう……もう、十分よ。感謝するわ……」
おずおずと目を開けたフィディアが、目をつぶって色々乗せられていたせいで、ぼやけたしまったらしい視界を整えるようになんどかぱちぱちと瞬きを繰り返している。
ようやく正面を向いたことで、目元が見えるようになったが、確かにフィックの言う通り幾分か目元のクマが薄くなり、顔全体の血色もマシになったように見えた。
「……だいじょーぶ。だいじょーぶですよ。フィディア=ヴェニシエス。……若いんですから、それくらいは愛嬌ってものですよ」
……どうやら、思ったほどはクマが消えてくれなかったらしい。
フィックが、自分自身も納得させるようにフィディアの肩を叩きながら、励ましている……らしい。『若い』という励ましは、フィック自身が実年齢はともかく、見た目の年齢がフィディアとさほど変わらないせいで、励ましなのかなんなのかよく分からないことになってしまっている。
「――ああ、そうでした。たしか……」
隣で、フィックとフィディアのやり取りを見ていたラリカが、ふと何かを思い出したように腰にぶら下げた袋に手を入れた。ごそごそとどこにしまったか探していたようだったが、やがて小指の先ほどの小さな蓋のついた入れ物を二つと小皿。そして水が入っている筒を取り出した。
「……良いものがあったのでした。私も少しよろしいですか?」
近づいてくるラリカの姿を見て、フィディアが再び緊張したように身体に力を込めた。
ラリカは、フィディアの隣に跪くようにしゃがみ込むと、小さな入れ物の中身を耳かきの先ほど小皿に入れる。どうやら、小さな入れ物の中身は練り物のようになっていたらしい。そこに水を流し入れると、小指の先でかき混ぜ練り物を溶かし込んだ。
そして真剣な顔で混ぜ合わせるとフィディアの手のひらと顔を覗き込んで、指先をフィディアの目元にちょんちょんとのせた。
「――っ」
目の前に迫ったラリカの顔に目線をあわせながら、フィディアがこれ以上無いほど目を見開いて、微動だにせず固まっている。ラリカも、繊細な作業に緊張したように無言でひたすらフィディアに顔を近づけて覗き込みながら、指先についた液を乗せるように動かしていった。真剣な表情で、フィディアの目の下に乗せた液体を馴染ませるように綺麗な布で伸ばしていく。
「――よし、出来ましたよ! フィディア=ヴェニシエス!」
――どうやら、コンシーラーのような役目を果たしてくれる化粧品だったらしい。
見てみると、フィディアの顔に出来ていたクマは、見ても分からないほどになっていた。
「おおー、ラリカ=ヴェニシエス。それは一体どーうしたんです?」
「リベスに居た頃、町の人から頼まれて作ったのですよ。奥さんにプレゼントしたいからというので作ったのですが、結構、他にも欲しがる方がいらっしゃって、職人ギルド経由で最近売り始めたのです。が……私自身は使う事がありませんからね……すっかり忘れていました」
「ああ……ラリカちゃんは必要なさそうだもんね……」
思わず、フィディアの前だというのに敬語を使い忘れたように遠い目をしたフィックが呟いた。
「やー、それにしても、フィディア=ヴェニシエスも可愛いですね―」
「……お世辞は止めてちょうだい。そういうリスこそ、綺麗じゃ無い……」
褒められたフィディアは、褒められる事になれていないのか、激しく頬を赤らめながら唇を尖らせた。
そのまま、どこか言葉に落ち着かない様子で目元に手を伸ばす。
「あっ、フィディア=ヴェニシエス。しばらくはあまり触らない方が良いですよ。せっかく乗せたのが取れてしまいますから」
「――そ、そう。分かったわ」
慌てたラリカに注意を受け、伸ばし掛けた手をビクリと止めてフィディアがコクコクと頷いた。
「……その、ラリカ=ヴェニシエスも、フィック=リスも……迷惑を掛けたわね……お陰で少し、すっきりした気がするわ」
改めて、顔にのばした手を引っ込めたフィディアが、改めてラリカとフィディアに向かって礼を述べると、二人とも嬉しそうに破顔した。
「いえ。ミアヴェルデに向けて色々教えて頂きましたからね。その御礼ですよ」
「そーですよ。それに、わったしは、単にかーわいい女の子をもーっと可愛くしたかっただけですよー。二人のミアヴェルデが素敵なものになったら良いですねー」
「……御礼をされるような事じゃ無いわ……」
フィックの言葉には反応せずに、フィディアは視線を逸らしながら、ただラリカの言葉にだけ答えた。
――ただ、その頬は見た目にすぐに分かるほどに真っ赤に染まっている。
それを見ながら、ラリカが不敵な笑みを浮かべた。
「――今日は、よろしくお願いしますっ!」
「そうね。善き日にしましょう……!」
……そうして言い合う二人の間に、昨日から再び漂い始めてしまっていた気まずい空気が、いつの間にか無くなっているのだった。