上 第四章「咆哮」B
「制圧完了ですか? 本部からです」
通信兵は言う。
フロストは大男だが、頼れるし、味方にとっては心強いという以外の何でもない。しかしこれを敵に回すとなると話は別だ。通信兵はつとめて明るい表情で彼の返事を待つ。
夜の高層町に武装ヘリで降り立ったのが三十分前で、今やこの周辺は綺麗に片付いてしまった。そこらじゅうに暗い赤のパーカーを着た、猟犬たちが倒れ込んでいる。実際に死んでいるものもいれば、死ぬほど痛めつけられただけのやつもいる。
フロスト・“ライノ”・サイクスはデザイン済み移植筋肉の巨漢で、主要な各関節に強化デバイスの白プラスティックと銀の縁取り。強烈にイカした若者が付けているようなリング状グラスを付けている。グラスは表面が真っ白なのに、ちゃんと物が見えている。このところの大衆向けハイテク産業といったら、使用者の想像も付かないほど高度で偉大な技術の投げ売りのようなものだ。
美容工学的に保証されたスキンヘッドに刻まれた、複雑な中華刺青の舞。赤黒の龍と暗雲の海原。
機械仕掛けの闇を背景に、フロストが口を開く。
「確認作業が今終わった。差し当たって順調。完了だ」
低い声だった。設置型の重機関銃の声を聞いているようだ。
「了解」
通信兵は周囲を見渡す。猟犬たちと同時に、番犬たちの死体もいくつもあった。ここは今日、もっとも激しい白兵戦の行われた場所でもある。危なっかしい四点吊り下げのスポーツ広場で、ひしゃげたバスケットゴール五つに囲まれている。本部ビルの主な入り口より下の階層で、彼ら番犬たちが訓練のために使っていたらしい場所だ。
見上げると前後はビルの谷で、かなり遠くまで壁になっている。いびつな非常階段や高架橋が交錯しており、やはり視界は悪かった。
本部に連絡を送ってから、無意識に言葉をこぼしていた。
「しかし、地上で一番ホットとされていた猟犬たちを丸ごと買収するなんて、ここにそれほどのものがあるっていうんですかね」
「さあな、番犬たちは偉大な組織さ。おれたちは彼らに借りを返した。考えることはそれだけでいい」
けわしく眉をひそめながら煙草を吹かすフロストを見上げ、通信兵は無言で頷いた。まったくそのとおりだからだ。
煙交じりに、フロストが言い募る。
「地上で一番ホットな犬どもも、彼らのコネには勝てなかった。今日ここに集まったのは数十の、義理に忠実な組織なんだ」
「どうやら赤い猟犬もすごいが、おれたちが貸しを作っていた相手も同じにすごかったようだ」
テッドはそう言いながら、おもむろにコンピュータの作業をやめ、立ち上がる。彼がコンピュータの元を離れるのを初めて見たせいで、メリイは不思議な不安にとらわれてしまった。テッドが二足歩行できるということが意外だった。
「そのへんにコーヒーを入れておいたんだが……」
「冷めちゃってるんじゃないの」
デレクウがくすくす笑う。メリイは目配せして微笑んだ。
テッドが言う。
「ヤマは超えたよ。赤い犬たちは数と質で圧倒する地上からの友人たちによって、完全に制圧されている。こっちの残存勢力をそれぞれ分配して送ったから、後始末の引継ぎがそのうち完了するだろう」
テッドのひ弱な手がデスクの上の書類と機械部品の山を漁る。と、そこから拳銃を見つけ出すと、おもむろに弾丸を装填し、メリイに向ける。デレクウが反応しかけるが、すぐに動きを止めた。
「まったく嫌味な茶番だったぜ」
メリイはただ銃口を見つめる。本物だろうか。
それから、テッドを見る。
「お前さんが現れたとき、契約の申し出があったんだ。君を猟犬たち、引いてはその雇い主から保護する。フクロウたちがここに引き取りにくるまでな」
その顔には憎しみはなく、メリイとデレクウに対しては相変わらず好意を残している。眼鏡に緑の光が反射していた。うっすらと笑い、
「メリイよ。君は彼らを誤解しているよ。連中は君のジンが欲しいだけだ。誰の命も欲しくはないんだよ――」
「どういうことだい。お前さん、仲間が何人もやられたかもしれないんだぞ」
デレクウが真剣な声で言う。テッドは同じ真剣さで目を伏せ、答える。
「仲間は一人も死なせないと約束していた。だが結局、猟犬たちとの戦いにまで彼らは介入しなかったらしい。フクロウたちは自分の手では、仲間を一人もやっていないと思う。猟犬たちっていうのはどこか別口に雇われた勢力で、同じくメリイを狙ってる。フクロウはそれに乗じて君を手に入れようとしたんだ、メリイ。なぜなら、一度失敗しているから。君はおれたちを信用したよな。それがなければ、こうして小さな部屋に誘い込むなんてこと、できないだろ……」
その声には、自分にだって選択肢はなかったのだという主張も滲んでいる。何より、メリイにもデレクウにも彼を責めるつもりは毛頭なかった。
テッドは始めからこうするつもりだった。デレクウにあらかじめこの部屋を避難場所として教えておいて、信用させた。メリイが現れたとき、メリイがまだテッドを知らなかったとき、ひそかに商売が成立していた。猟犬たちがここを襲うことは分かり切っていた。その戦いで見事にメリイを保護し、こうして逃げ場のない部屋まで誘導することができれば、金は払ってやると言われたのだ。テッドはフクロウたちに頼み込んだだろう、仲間を傷付けるな、と。フクロウたちは頷いた。だが猟犬のやることに関しては責任を負わなかった。
「本当にすまない。あらゆる企業が君を狙っているから、君をかくまっている限り、おれたちは危険にさらされ続ける。おれは仲間を救うために君を売ろうと思った。猟犬たちに、な。だがそこでフクロウから話があって、猟犬との戦いをうまく演じ切ってくれれば、あるものをくれると言われた。おれは乗っちまったよ」
仲間の犠牲を知っていて結んだ契約だ。それだけの価値のあるもの、だったのだろうか。
カチリと音がして、テッドの頭部が無音の柔らかな霧となり、赤や黄色の無数の点が優雅に回転する。その現実離れした球体をぼんやり見つめているうち、次にはフクロウの放った二発目がデレクウの右肩を吹き飛ばした。
振り返らなくても見える。フクロウは入り口に立っていた。少年たちに銃口を向け引き金を引くという作業に、作業以上の意味を見出してはいない。チェックをつけ終えた事務員がページをめくるように。フクロウの面が微笑むように傾げられ、デレクウのうめき声が上がった。
デレクウが右肩を抑える。
テッドだったものの肉体が崩れる。それが何かの合図だったように、メリイにはたった二秒のことがきわめて長く冗長な白黒映画のように感じられ、そのどこか底深くで漠然と理解している。この巨大な力から逃げることはできず、得体の知れない商売の巨大な日陰に横たわる、あの否応のなさへ引き戻されていくのだ、と。
メリイの右手が自然に動いていた。
「そうだよ」
今や、誰のものとも知れない透明な声がささやき、再生速度をきわめて遅くしたモノクローム映像の中でフクロウの面は動かない。なおも声は続け、
「先端が鋭利なら、弱い力でもかまわないの。針と同じ。あなた、怪力の持ち主ってわけでもなさそうだから」
女の声で、メリイとそれほど離れているわけでもなさそうに、内にあるものの重さ、深さときたら計り知れない。その背後にあるものの巨大さ、冷たさときたら空恐ろしい。
フクロウがどう引き金を絞っても、その次の瞬間には命を奪える。だが目の前のフクロウを片付けたとしても、その次には二人目が現れ、自分はそこで捕まることになるだろう。
「だから、ね。あなたが思ったこともないくらい鋭利に絞りこんでやれば、間っていうのも針みたいになるものなの。的確な間に、的確なことをしてやる。すると小さなあなたが、穴をも穿つことになるかもしれない」
その声はちょうど、フリンジとかほかの色んな女の子たちが、メリイの知らないことを教えてくれるときの口調だった。特に壊れた機械を直すやり方とか、メイクアップのちょっとしたこつとか、そういうものを教えてくれるときの。どうしてか陽気で楽しげで、まるでこんなに恐ろしく巨大なフクロウを目の前にしているというのに、そんなこと問題じゃないみたい。
フクロウが引き金を引く。その弾丸が自分のどこを貫いたかは感覚できなかった。その瞬間には、メリイの二本の指がフクロウの面に優しく触れていた。それは十分に絞り込まれた衝撃を送り込んだあと、その反響を確かめるために残されていた指先だ。重たい微振動によって指は軽く弾き返され、同時にフクロウが倒れこんだ。
すっと手を引く。倒れたフクロウのすぐ後ろに二人目が現れている。
絶対に逃げられない。しかしそれは、敗北を意味してはいない。
「絞って、メリイ。そのでくのぼうには分からない隙間が、いくつも開いてるんだから」
女の声は励ますようにそう言った。前後を見失わなければ大丈夫だ。前のめらず、しかし遅れず。フクロウのあまりに素早い斬撃にも、三箇所打ち込める範囲がある。それは明らかだ。
「そう、うまくはいかないものさ」
フクロウが言った。メリイは気が付くと後方へ吹き飛ばされている。足が地に付いておらず、空中では身動きが取れない。無音の一瞬だった。そこにフクロウの静かな手のひらが触れ、床に強く叩き付けられる。頬に鋭い熱が走り、血が流れ出た。フクロウが歩み寄り、こちらを見下ろしている。そこで、映像の再生速度がいつも通りになったのを知った。暗い湿りが感覚の背後から視界を埋め尽くした。
「君の鋭い感覚にも肉体が付いてこない。ソフトが最新なら、ハードも最新でなくては、ね」
メリイの息が止まる。低くうめきながら何とか力を入れて、腹に空気を送り込んだ。
フクロウの面が逆向きに首を傾げた。まるで本物のフクロウみたいに。
丸い二つの目玉は黄色で、中心に黒い穴を開けてある。全体がくすんだ灰色で、赤い部族模様が中心に向かって伸びている。七色の紐で編んだ飾りの房が両端に垂れているため、どことなく女性的だ。それほど手の込んだ装飾ではないけれど、どことなく格式の高い面でもある。
別のフクロウが部屋に入ってくるなり、デレクウに三発撃ち込んだ。彼の大きな身体は二度痙攣したが、動かなくなる。全身が痺れた。
右手がゆっくりと動き、緊急用のお守りに触れる。
「さ、君の友達からいろいろと話は聞いているんだよ。君がどういうものが好きとか、嫌いとか」
安っぽい警告音が短く、デレクウから聞こえる。気が付けばメリイはお守りの呼び出しスイッチを押していた。
「やはりあの商売のおかげで、こういう構図には慣れているのかな。つまり、敗北の構図に?」
「友達って、どれなのよ……」
フクロウは面白そうにするだけで、答えない。フクロウの面はただの面で、表情はなかった。何を考えているのか分からない。
警告音が繰り返し鳴った。
「まったく年齢に相応な詳細だったよ。巨大なものには服従を余儀なくされ、怒りのようなものの断片は見せるが、決して現状を変えるような行動には出ない。君が大層なものに感じている反抗心だって、せいぜい軽度の遅刻癖を発現させた程度だった。恐らく両親を失った過去と、ここでの生活のトラウマが深く人格形成に関わっているんだろう」
フリンジの印度産。あの天然薬物の匂いが好きだった。その匂いがすると、フリンジだとすぐに分かった。
息が苦し過ぎ、ろくに言葉が出ない。百もの罵声を浴びせたかったけれど、このフクロウに自分ができることなど一つもない。
「君はどうやらとても強い。生身の肉体にできうる限りで、人間離れした戦闘力を持っている。何せ我が同胞があれだけいて君を捕まえられなかったんだし、そこの彼を気絶させてしまったんだから」
そのとき、右のわき腹に強烈な痛みを覚えた。助けになりそうな声は聞こえてこない。
あまりに熱く、真っ白で、この痛みから逃れられるのであれば死んでもかまわないというほどの痛みで、メリイの歪んだ顔に、涙の生ぬるい一筋が頬を伝い落ちる。
何とか苦痛の中で表現した怒りの目で、メリイはフクロウを見上げる。フクロウが片手を挙げて合図すると、後ろから来たフクロウが発砲した。メリイの脚が吹き飛ぶ。その痛みを知るより先に、視界が真っ赤になる。その後続けざまに何発から貰ったが、体が大きく縦横に揺さぶられた、という程度の実感しか持てず、それらはメリイを殺すためではないと分かる。メリイの反撃を恐れているだけなのだ。
あまりにも全身が痛いものだから、全部をはっきり知覚することはできないはずだと期待したけれど、そんなことはなかった。はっきりと分かる。詳細は分からないだけで、感じたこともないほどの痛みであり、痛みというよりも絶望そのもののようだ。
「少年を騙すのは容易かったよ」
メリイにはその意味を考える時間がない。
フクロウはしゃがんでメリイに顔を近付ける。
「彼はね、テッドはね、復帰したかったんだ。ハッカー業に復帰させてやる、と言った。彼は大企業のブラックリストに載ってしまっているから、表舞台に出られなかったんだよ。だから経歴を綺麗にして、新しい人間に仕立て上げて、戻れるようにしてやる、ってね。そしたら、君を引き渡すことを了承してくれた。彼は筋金入りの番犬だったから、本当なら仲間に内緒でそんな約束をするわけがない。事実、仲間の命は奪わないでくれと頼まれたしね。でも、こっちには番犬みたいな忠義なんてなかった」
メリイのうまく回らない頭に、言葉が流れ落ちてくる。黒い滝。重たい言葉の滝。胸が切り刻まれたように鋭く痛い。
フクロウは優雅に詠い続け、
「彼は私たちを信用してしまったんだ。夢に目がくらんだのかもしれない。私たちは彼を復帰させるどころか、この場で始末した。ここへ来る途中で、何人かの番犬も片付けたしね。それに――」
白。
最初の男がどんなだったか、あまり覚えていない。
バグハウスでは誰でもやっている商売の繰り返し。その巨大なシステムの流れに、ひそかに乗り始めたというだけ。薬だって煙草だって、酒だって何だって、始めの一回がそれほど重要なわけじゃなく、つまり本当に肩入れしたときが本題なわけで。
経験を積んで分かったことだが、いつも男は名前を名乗る。ホテルにチェックインするときに必要な名前だ。そしてメリイの中に多少なりと己の記録を残そうとするのだ。
どう考えたっておかしなことをしているのに、あまりにもこの商売について聞き知ってしまったために、むしろシステムの一部になれたことへの安堵感のほうが強かった。その相反する二つが、メリイの中に漠然とした疑問として残り続けた。結局どちらが正しかったのか。工業系密造ウイスキーの強烈な刺激臭と、薬品じみた人工の清涼感とで胸が悪くなる。ちょうどそのウイスキーみたいな、琥珀色の照明の下。
男の顔も覚えていない。
思い出せるのは照明の色と、それほど強烈に感じないで済んだことへの、ささやかな驚きだ。強いて自分の感覚を鈍らせることができるようになったのは、多分あのとき。
いや、それは両親の死以来あったことで、それを知ったのがこの男との一夜なのだ。
朝、高層町の中でも高高度の領域まで連れられ、その安いホテルで一晩を過ごした。早朝、一人で市場を歩いてから帰りたいとメリイは言い、男も了承してくれた。彼と一緒にバグハウスへ出向くのなんて願い下げだったから。
これもフリンジが教えてくれたことだけれど、たぶんメリイが初めてだということに相当な高値が付いていたんだとか。道理で、その後の男たちに比べて彼はまだマシだった。金は十分に持っていて、バグハウスも数ある娯楽の一つでしかない、という手合い。
「君はこんなところにいなくてもいいはずなんだ」
男の言葉が、すぐそばでささやかれたようにはっきり思い出せる。録音の電気声のように明晰で透明な声で。
そういえば、そんなことも言われたっけ。
市場を歩いて横切るとき、無意味なガラクタの数々と、その日の荷揚げが高値で取引されているのを見た。地上から輸入したものはやっぱり高い。高層産の怪しげな食品群は、安くて不味い。でも私に、他に選択肢があったとは思えない。
両親の死も、どうしてか選ばれてしまったジンの件も、ここで出会った番犬たちやその死も、メリイにどうにかできたとは思えない。
私はここにいるしかないよ。きっと。
赤い非常回転灯が神経を逆撫でするような周波数で視界を翻し、手すりや複雑な構造材のモザイク芸術を、二人は足早に歩き抜ける。この嫌味たらしい建造物の中部区画全体に、非常信号を出した間抜けはどいつだ。
死んだ蝶のように袖の長い白装束、蜂蜜色の長髪。その連れは、灰褐色の耐火ローブで細い身体を隠している。
「してやられたよ」
水蓮が苛立たしげに呟いた。噛み潰すように低く抑えた声で、
「ヴァイスがおとりだったんだ、あたしらを遠ざけるための」
しかし獣使いはすっかり澄まして、物憂げな無の表情だ。水蓮の隣の少し後ろを静かに歩いている。いくらか考えてから、最も相手を傷付けない言葉を見つけたように、物静かに言う。
「グウルゥがそう仕向けたんなら、私たちには予想できなかったと思うよ」
水蓮は納得できずに、黙してしまう。それを見ると、獣使いは念を押すように、
「外はヴィッキイがうまくやってくれてる。最小限の被害だよ」
「そんなわけないさ」
水蓮はそう言い捨てたきり、黙ってしまう。
迷路のような極高層ビル内の、空き家が連なる回廊を歩く。フクロウたちが少年たちを襲い、命を奪いつつある。フクロウたちが手間を減らすためと、番犬たちの注意をそらすために呼び付けた猟犬たちは、力強く機敏に、この領土争いにいそしんだ。ヴィッキイが外で忍者をやっているおかげで形成はいくらかましになったとはいえ、すでにして死者は数え切れないだろう。
フクロウは番犬の中に目を付け、一人の少年を利用した。彼は不完全な人生の補完への渇望から、フクロウの嘘八百な商売に耳を傾けてしまった。少年はもう始末されてしまったろうか。
全てこの手で正すことができたはずの問題だ。だがあのヴァイスとかいう老人の護衛任務を仰せつかっていたせいで、水蓮もシエラも、すぐに動けなかった。グウルゥはどうとかしてヴァイスに恐怖を植え付けたか思い出させたかして、古い貸しを当たらせたのだ。その長大なリストの中に彼は、“ルーツ”の侍たちの名を見た。相当な恐怖と危機感だったのだろう、彼はリストの中で段違いで、いまだかつて誰も至ったことのないほどの高みを極めた護衛を選んだのだから。
退屈で無意味な護衛任務の間、水蓮は暮れていく高層を見守った。そしてケルンからの緊急通信が入ったとき、何か大切なものが次々と失われていくような、悲しい虚脱感があった。今まで幾千度も経験してきて、少しも慣れることのない空しさだ。そして今、再びケルンから通信が入る。
「出会ったフクロウは全てぶちのめせ。命は奪わなくていい」
「あんた」
水蓮はここへ来る間、ずっとあった思いを口にする。
「この件について、少しは嗅ぎ付けてたんじゃないのかい」
「正直に言おう、その通りだ」
人工知能は真剣に言い、
「だがお前さんを呼ばなかったんだ。あの娘が自力でどこまでやれるか見たかったからな」
はと目を開く。
「何かができると思ったのかい……」
内なる仮想の水蓮の声は、切削力のある冷気のように怒りを帯び、
「あんたのせいで、ここで殺しが行われた。あんたがしげしげと品定めをしたがったからだ。理由はそれだけかい」
「それだけだ」
通信を切る。
隣で獣使いがいかにもおっかなそうに、わざとらしく目を丸くしてみせた。それから、シエラは少しの微笑を浮かべる。
「水蓮、やれるところまでやるしかないよ。匂いが近いよ」
「あんたの純朴さを見てるとね」
もう水蓮は怒りを、鞘に収められた凶悪な刃に込め始めており、
「自分なんて大層、汚れちまったと思えるのさ」
開きかけのドア。闇の中に緊張の無音、フクロウの群れ。フクロウたちがこちらを振り返る。ここだ。
目の前でフクロウの仮面が宙高く舞い、そこで静止する。その一瞬で面の向こうにあった魂が消えてしまったみたいに。
魂を失ったフクロウが崩れ落ちる。壊れた人形だった。突然、大きな音が何度も繰り返され始める。そのたびにフクロウの身体が床に崩れ落ちるのだった。血の雨が降った。テッドの画面の、緑色の光に洗われ、見たこともない映像となって。
「立派な犬どもだったろうに」
知らない女がぼそっと言うのを聞いた。
ばたばたと、大きな身体が地面に倒れる音が続く。それから金属質の鋭い音がして、メリイは何とかまばたきをしてみる。これは血の匂いだ。全身が気だるく、とても暖かい。
「このフクロウどもだって、大人しく得意の雇われの商売をやってりゃいいものを……」
「頭のおかしい雇い主くらい、騙せると思ったんでしょ。ま、実際それはそうなんだけど」
別の女の声が答えた。とても細々としており、病弱な者が悪態をついている、という具合。けれど心のどこかでは常に自分の非を認めており、だからこそ弱々しい声なのだ。その愛嬌に、メリイの首筋が軽く痺れた。多分、フリンジなんかと話すときに似ていたから。
視界には二人の女は映らず、テッドの部屋の天井だった。緑色の表示は映りこんで、点滅している。画面いっぱいの文字列がずっと流れ続けている。気付いたことだけれど、片目が見えない。視界の右側が赤黒い暗闇になっているのだ。
「本当にあいつらが雇われてたのは、あの狂った女を操るもっと大きな別のもの。そんなことも分からないほど、こいつらが間抜けだったとはね」
身体が動かない。忘れかけた痛みの感覚はあるが、今は低い周波数の、定期的な鈍痛に切り替わっている。だができるだけ早く逃れたい、その痛みが戻ってこなければいい、と切実に願うほどには痛む。体を少しでも動かすとすごく痛みそうだ。
「そりゃあ、筋金入りの古い影だよ。こういうものには慣れっこじゃないもん」
「こういうもの、ねえ――」
女が室内を見渡すのが、メリイにも目に見えるようだ。
「ヴァイスだってそりゃあ、自分の持ち物だった女の子がジンを書き込まれたってなると、怖くもなるよ。誰に狙われるか分からない」
ジンという単語に聞き覚えがある。けれどそれが自分にとってどういうもので、端的に言っていいものなのか悪いものなのか、よくわからなかった。それを言うならこの件は分からないことだらけだ。見知らぬものが多過ぎるし、闇の商売とメリイが信じたものに比べてよほど地味で淡白で、しかも無慈悲だ。ここには人の心などない。
「街場ってのはジンにしか興味がない。あんな爺に護衛は必要なかった」
と女は言う。もう一人は、魂を失った肉体から何かを読み取りながら、
「でも、そのおかげであんたも私もこの町に入り込めたんだ。全部うまく繋がってるんだよ」
「そのために犬が死んだって……。あたしゃあの気味の悪いウイルスが大嫌いだよ」
あまりの情報にメリイの思考はとても追い付かない。そして、たった一つの言葉が引っかかって離れない。フクロウの雇い主はある狂った女で、猟犬たちは別の勢力の手だ。テッドがそう言っていた。少なくとも彼はそう信じ込まされていた。
この女は、猟犬を差し向けたのがフクロウだと言った。
「麻酔、打ってやりなよ。その娘、意識が消えてないよ」
「相変わらず。獣使いはお優しいことだね」
獣使いじゃないほうの女が近付いてきて、首筋に熱が溢れた。
「よく寝るこった。今はあんたの出る幕じゃないよ――」
視界が再び真っ白になるようで、腹の痛みも、全身に回っていた冷たさも、その柔らかな光の中でゆるやかに溶けていく。
滲んだ視界に女を捉えた。長い金色の髪と、冷たい白の肌。白装束。