上 第四章「咆哮」A
待機のためとメリイが案内された部屋は、企業ビルの控え目な個室だった。たぶん少しは偉い人か、それに付きの秘書なんかが基本的に待ち構えているような部屋。それが内装はあまり取り去られずに、時間の経過だけが積み重なって、本当に独特の薄暗さになっている。バグハウスに古くから根付く闇と、不思議なことに同種だ。部屋を覆う香りは、もうしばらく焚かれていない印度香の蝋燭。涼しくオレンジ色で、何かの薬草幾つかを束にして燃やしたときの匂い。
日焼けした白塗りの壁紙に、高級そうなんだけれど、たぶんそうじゃないってことが分かるこげ茶色の木目のデスク。何もないけれど、何か重要なことがここを流れ、出ては入っていたのを感じることができる。飾りは少なく、緋色の壺が、さり気なく置いてある。侍の国の意匠だ。消えた白の蛍光灯。すりガラスから差し込む明るみも、巨大な建築群のせいで陰鬱だ。
電源を落とした窓代わりのスクリーンは真っ黒なまま。
壁に鏡が備え付けになっていて、縁取りのない簡素なもの。部屋を出がけに、ビジネス男が自分の襟をチェックするためだけのもの。
今、メリイは自分の姿をこの鏡に映す。
着替えようにも服なんてないし、化粧道具も何一つないわけで。仕方なく素手で前髪をていねいに作り込んでみたけれど、大して差はないし。
映ったのは見慣れた自分の顔だった。けれど普段はメイクアップのために見るばかりで、こんな風にのんびりと、退屈しのぎに見ることなんてまずないから、こんな顔だったかと自信が持てなくなる。それに言いたくないことなんだけど、ずっと細かく調べるうちに、何だか自分が思ってたより野暮ったい気がしてきた。でも、自慢の肌は健在だ。
真っ白な肌で、ここじゃ日焼けのしようがないっていうのもあるけれど、日陰と夜を生きた肌だった。それに年齢とともに目立たなくなっているそばかす。これは母親譲りだと聞いたけれど、生きてきた母親がどんなだったか、本当のところ詳しく思い出せない。十代のころの母親なんてなおさら知らないし。ときおり保存された二次元の映像を再生してみることもあるけれど、いつも感じるのは、自分の中に強烈に残っている母親の印象というのが、そこからはあまり感じられないということだ。
身に付けているのは、白黒が縞模様になった締めのきついストッキング。子供っぽいかもしれないけれど、どうやら番犬たちに比べれば自分はよほど子供じみているのだし、今はそのことに正直になってやろうという、開き直りの選択だ。それから短い革スカート。黒で艶消しになっており、銀色の財布チェーンが垂れ下がっている。ベルトは白の革を複雑に織り込んだものと、細いワイヤ状が一つずつ。そして兵隊みたいな革ブーツ。これは番犬たちに貰ったものだ。とんでもないデカブツで、厳重に紐を縛ってあるのに、さらに三連バックルを閉めなくてはならなかった。急いで脱ぐには不便だ、と気付いたのはついさっき、最後のバックルを閉めたとき。細かな鉄細工がたくさん付いており、歩くたびに揺れて、千ものささやきになるのが好きだ。そして白のズタボロになったタンクトップには、よく見ないと気付かないような控え目さで、銀のステンシル殴り書きが入れてある。メリイには読めない字体だった。パーカーは脱いだままにしてあり、あくまで仕事態勢だ。
ぼさぼさにした金髪。砂色の染め込みは見かけはエクステみたいなものだが、わざわざ金を掛けて染め込みを入れることに意味があるのだ。髪には、原色が虹になった可愛らしいビーズ飾りを一つだけ織り込んでみたけれど、誰か気付いてくれるだろうか。大きなサングラスは額に押し上げてあり、水気と艶のあるピンクのリップで、唇は極めて元気そう。両手首は金銀の財宝でメチャクチャになっており、全くもって自分らしい。腕時計なんて、直してないままだし。でも、と思い直して、サングラスは外した。今からあのフクロウをまくために走ることがあったとして、鼻に落ちかかってきたら痛そうだからだ。
「オーケイ、私は、私だ。問題なし」
真剣に頷いて、くるっときびすを返す。どこかで誰かが、戦いの準備を始めている。どこかで誰かが、得体の知れないフクロウの化け物と戦おうとしている。仮にそうだったとして、それが自分と何の関係があるんだい――。
だって、私は私が望む通りにするべきなんだし、あいつらが戦おうってのも、あいつらが自分たちの流儀に従っているだけなのだし。そういう風に考えなきゃ、自分の身が守れないことは分かり切ってる。
だから、こんな言い方はしたくないけどね、メリイ。あんた、何もやましいことはないのよ、メリイ。
今はまず、ちゃんと逃げ切らなけりゃ。
「そうでしょ、ねえ……」
そう呟きながらも、相変わらず首に未練たらしくぶら下げたお守りが重たい。
この部屋に閉じ込められ、メリイはすっかり退屈することになった。どこかに不安を感じながら数時間も待った。
もう外では夜が始まっているだろう。
彼らの守り神が火を吹くのや、凄まじい電撃戦が展開されることを想像していた。
ドアの外にはデレクウがいるけれど、お馴染みの任務中の横顔で、下らない世間話なんて相手にしてくれやしないし。いや、話は聞いてくれるんだろうけど、そうなるとこちとらが相当に惨めな気分になるわけだし。わざとらしく泣き喚いたりでもしなきゃ、親を振り向かせられなかったガキみたく。手の中にコインを転がす。緊急呼び出し装置。
けれど、何か物凄く微妙なある一点を境にして、どの番犬たちにも気付けないほど早く、メリイはそれを感じ取るようになった。彼らの最も鋭利な感覚装置に、恐らく相手はわざと足跡を残したのだ。だから兵隊たちは、ありもしない襲撃に備えて走り回るはめになった。そして、今、彼らの強い集中が解け始めている今、本当に危いことになろうとしている。
始めは、忘れていたことを思い出すみたいな感じだった。けれどそれが何だったか思い出せず、やがて始めから知っていることなのだと気付く。
フクロウが近付いている。
やつらは闇と基本的に同じであり、幾つもの陰が、人知れずある境を越えてくる。その姿はむしろカラスだ。放射性の生ゴミと、黄色い高分子ボトルから流れ出る、緑色か何かの違法薬物漬けになった、あの真っ黒な鳥たち。片方だけただれた眼窩と、赤黒いむき出しの肉。鋭くて大きなくちばし。メリイは本能的に、彼らがある種の性に関する危機感を刺激することを感じている。群がる鳥、群がり、己のお求めを満たして帰ってゆく野生たち。バグハウスの取り引きの比ではない。後ろめたさというものすら、彼らには初めから全くない。ないというより、持ちようがないのだ。
鏡に映る自分は、全くいつも通りの、安っぽくて可愛い町の少女そのもの。
喉の奥に、静かに引っ掛かるものがある。自分が引っかき回した連中の追跡網が、この一晩の間にメリイの知覚できない距離に潜んで人知れず研ぎ澄まされ、今日、今、ここに焦点を引き絞っている。フタを開けたとき、もうそれは抑えようもなく巨大で鋭敏で、もはやメリイには自分一人で逃げ切ることすら怪しい。
「ねえ、あんたら、私のジンだか何だか、くれてやるからさ――」
そう呟く。
「どうか、私の友達を放っておいてやってよ……」
フクロウは、いつも陰から現れる。まるでそこに始めからいたみたいに。
あるいは陰そのもでもあるというように。
どこかで銃声が聞こえたのが、目に見えて分かる始まりだった。兵隊が引き金を引いたのだ。それが遠くから、幾重にも重なる人工物の間を抜けて、複雑な反響音になる。残ったのは重たい金属質の沈黙。
その沈黙を挟んで、デレクウが軽く二度、ドアをノックした。赤ペンキで非常口風に仕上げ直してあるやつだ。
「大丈夫かい、メリイ」
メリイはドアの前に立っていた。
「うん」
デレクウがドアをノックしようとすることも、どういう調子で声をかけてくるのかも予測できていた。
この部屋に今、フクロウはいない。いないけれど、いつ現れてもおかしくないという空気でもある。陰はすでに意思を持ち始めているし、メリイはここにいない方が正しいと感じ始めている。
「ここがヤバくなったらテッドの部屋まで昇る。あそこは本部とも少し離れているから」
「ねえ、デレクウ。それなんだけどさ」
つとめて明るく、というよりも退屈した子供みたいな口調で言ってやる。自分にそうさせたのは、明らかにジンだった。デレクウや他の立派な兵隊たちを遥かに上回る鋭さの感覚の塊。メリイを、あのフクロウたちからすら遠ざけているもの。言葉にしようがなく、けれども全て知っていたという類のもの。
あくまでていねいに、申し訳なく。
「今すぐテッドの部屋にお邪魔しちゃ、だめかしら。私たち、ここにいない方がいいって気がするんだけど」
自分の声が部屋に吸い込まれる。背中を取られている。もう少しで、デレクウという最後の頼りをすら失うという恐怖を覚えている。
「女の勘ってやつかい」
その声は真摯で、強い者が膝を折っているときの柔らかさだ。
メリイは断固として、
「狂った女の直感」
ドアに触れている。その時、背後にフクロウがいるような気がしてしまった。
振り返って確かめる勇気がなく、デレクウがドアを開けた瞬間に、どうしてかメリイはすでにデレクウの側におり、強いるともなくドアを閉めさせている。重たい真鍮ノブが音を立てた。デレクウは驚いていたけれど、できるだけすぐに全て飲み込んだ。兵隊お揃いの市街迷彩服をしっかり上まで着込み、片手には黒塗りの政府式拳銃を持っている。その頬は乾き、目に見えぬ者への強い警戒が読み取れる。言葉は交わさず、どちらからともなく二人は廊下を歩き出した。隠れ処はある。企業ビル内部の、あまりに入り組んだ階層構造の動脈だ。
流れてゆく緑と白との蛍光灯が不安定に点滅する中、二人の足音が静かに響く。急いでいるとはいえ、軽い足音だった。焦りというものとも違う。二人はまだ見ぬ恐怖を遠ざけておくために歩いているのだ。すぐ後ろをずっと付いてくる精神病質者に眉をひそめながら、足早に人ごみを目指すみたいに。だから焦りや恐怖は足音に宿らない。むしろ無音に宿ると言うべきだ。今はただ金属質で研ぎ澄まされた感覚に、透明な視界に、次にどうすべきかということだけが刻まれている。
いつも自分が生活している高層町の基部に、見慣れた格式高い高層ビル群に、こんな迷路が隠されていたとは知らなかった。
企業ビル内部の入り組みようときたら、わざわざそう作ったとしか思えないほどに複雑怪奇だ。内装の様式は絶えず変化するし、幾余の職種が、階層の雰囲気が入り混じっている。五階分しかないような局所的な昇降機に乗り込み、階段を使い、吹き抜けになった十数階を、職員用の高価なエレベータで昇る。その間も無言だった。聞こえるのは呼吸。空調装置の低い唸り。ワイヤーが軋む。テッドの部屋の階で降りたとき、奇妙にもメリイは、ホテルに二人で遊びに来ているみたいな気分になってしまった。二人でチェックインを済ませ、これから浮かれた一晩を過ごすときのようだ、と。
最高階のバーにはお仕着せのドレスで出向き、先に座っていたデレクウの手を取り、冷たいテーブルに触れ、プラスチック合板の投影に触れ、メニューから飲みやすそうなカクテルを選び出す。名前も可愛いやつ。だって酒は苦手だし、煙草だってしょっちゅう吸うほど好きじゃないから。この想像の中で、夜景には極高層ビル群も樹木式階層構造も、静止軌道吊り下げの塔の真っ黒な陰もない。企業ドームの耐圧隔壁も肉体の商売もなく、古びた機械仕掛けの部屋で目覚め、退廃の音を聞きながらメイクアップをする自分の顔が、鏡に映ることもない。
しかしこの階層もやがては闇で、出口から西に四つ目の部屋がテッドの部屋だ。廊下は煙草の匂いがする。
開け放たれている。あの脚付きカメラがこちらを見ている。
デレクウが先に立って部屋に入る。それだけのことですら、メリイは不安になった。背後が気になって仕方ない。
部屋に入ると、テッドは分厚い書類の束を素早くめくっているところだった。
「こいつはハードだぜ」
テッドは極めて面白そうにそう言う。その表情が辛そうだった。苛立ちからか、二点を縛っただけの書類を破いてしまいそうだ。
「だめだ、基本回線は一つも繋がらない。これじゃ、おれたちゃバラバラの野良犬だよ」
デレクウは拳銃を手近な作業台に置く。金属質の、黒くて重たい音がした。
「非常回線か?」
「電源装置が動いてるならな」
テッドはそう言いつつも、何やらを素早く打ち込む。デレクウが頷く。むき出しの電気回路の匂い。
「絶好調。たぶんな」
「それじゃ」
テッドは書類を再びめくり、
「卓の電源を入れてくれ」
壁に備え付けた大きなベニヤ板のスイッチをデレクウが入れると、ベニヤ番に張り付けにされた大量の赤い豆電球が輝く。それらは一見、複雑な路線図だった。
「見てな、おれの本領発揮だぜ」
そう言うと、テッドは書類を前後にめくっては何かを打ち込む、という作業を繰り返し始める。それがあまりに早く、そのたびに、ベニヤ材の上の赤い豆電球は緑になり、複雑な路線図は緑の点を繋ぐ微細回路になる。もっと高度なインタフェイスだって出回っているこの高層町で、あえて十本の指でのキー打ち込みという原始的なスタイルを使用するというからには、それなりに彼も芸術家なのだ。前に見たときはキーではなく、一般的な仮想のインタフェイスを使っていたのに。これが彼の戦闘用のやり方というわけだ。
「それぞれのノードに仕掛けてあるパスワードは、全部この紙に書いてある。もちろん簡単な暗号ではあるけどな。そいつを解いて、直接打ち込む。ノード同士を繋いだら、その組み合わせに対応した別のパスワードを入れて使用可能にする。そいつをさらに繋げて、一本の流れにする」
やがて美しい通信路線図がベニヤ材の上に構築された。
「今のおれたちがお話できる相手は、お偉い二人の、たぶん壊されてるだろう受信機と、各地の買収済みなお仲間。飲み屋に洗濯屋。探偵事務所。義理や貸しは十分にある。後始末は面倒だが、地上の連中にも手紙を出すか?」
テッドはデレクウをその目で見ていた。
「お前さんの権限だよ、こいつは」
「送ってくれ。可能な限り迅速に。最高に鋭い手助けが必要だ」
少し考え込んでから、
「そんなものが、おれたちより鋭いお仲間ってやつが、いるならな」
「地上は分からんぜ。本当に、あのフクロウ並みかも」
何か文章めいたものを作って送信すると、誰へともなくテッドが言った。
「外はとんでもないことになってる。たぶん、何人か死んだ。通信が落ちてから、もっと死んだかもしれない」
その瞬間、メリイの中で何かべらぼうに重たく銀色掛かったものが視界を覆い、世界がしんと響き渡った。
頭が高周波振動の金属溶解に掛けられているような気分だった。強い粘性の吐き気を覚える。
しかしやがて無音が訪れたとき、それらは消えた。頭の中が血の匂いでいっぱいになる。
全て良好。きわめて明瞭。
ちらっと横目に盗み見る。見たのは部屋の壁だが、感覚されたのはもっと別の様々なものだ。
「向こうは雇いの猟犬を送り込んできてる。それなら番犬の白兵戦でも十分に負かせると思うけど、それは撹乱のためよ」
まるで会話、日常に溢れる言葉の一つ。
「本題のフクロウが何匹か、もうビルに入り込んでる」
メリイは二人にそう告げる。
二人が目を合わせてから、こちらを見た。
空が落ち、夜になった。
それだけで水蓮には、昔懐かしい気分が味わえる。天使の街の朝は眠り、昼は夜に備えなくてはならない。芸者見習いにはたっぷり時間が必要だ。姉妹のように仲のよかった同業者たちが、いっせいに小さな衣裳部屋で化粧を始める。小さいけれど、必要な機能は全て備えた優秀な部屋でもあった。そして、肩をぶつけ合いながら行き来するみんなが、とても綺麗だった。みんなは西海岸流の下品な言葉でののしり合い、また別の誰か、そこにいない誰かの噂をした。昨日の客にどれだけ酷く気味の悪い男がいたか、そしてそんな男の相手をさせられる自分たちがどれだけ不幸か。最後にはこう締めくくるのが常識だ。こんな町、いつかは出ていってやるんだ、と。
夜は、彼女たちが一番、本当の意味で生きている時間だ。大金持ちの客たちと、美しい女たち。年取った女将はみんなに愛されていて、仕事についてはとことん厳しかった。彼女にこってり絞られて泣いた女たちは、明くる日、数倍綺麗になって戻ってくる。水蓮は彼女たちの手伝いをするだけだったけれど、いつかは自分も同じように働けたらと思ったものだ。黒い太古趣味のキセルや、レコードなんかを集めた棚。読めない東洋文字で、墨で書き付けられた警句。美しい言葉たち。木製の建物の匂い。中核は建機六脚が仕込んだ鉄筋だとしても、内装は全て、いかにも熟練の建築家たちがやったみたいな木製だった。長い廊下を、音を立てずに進む。本当に音を立てない人たちもいたけれど、今にして思えば、彼女たちの中には、仕事の中で侍じみて研ぎ澄まされていった人たちも混ざっていたのかもしれない。
風が冷たく吹いて、ペンキの剥がれたフェンスの、水蓮の蜂蜜色の髪を引いてゆく。
ヴァイスの別荘は高層町の中でも最も優雅で、極高層ビル群に近い場所にある。彼は逆さに井戸を落ちていった連中とは違い、富と、社会とに見捨てられたわけではないと、そうやって表現していたのだ。巨大なコンクリートの怪物で、とにかく大きく、無意味に複雑だ。そこらじゅうに室外機が置いてあるのは、ごく一般的な高層町の流儀だというのに。
そしてヴァイスは一歩も外に出ていない。彼は分厚いコンクリートの牢屋の奥に自分を閉じ込めて、何をやっているというんだろう。少女の人生を壊す楽しみというのは、彼のような閉鎖型の遺伝子と仲良しなのだ。
彼は何か仕事でへまをしたのだろう。そうでなければ護衛を雇ったりしない。
と、通信が入り、ケルンだった。
「おい、水蓮よ、緊急の用事だ。獣使いを連れて、ちょいとお出かけ」
「いいのかい、客を放っておいて」
「ヴァイスよりは大事な用事だ。仕方ない」
まずい、こいつは恐らく三つの点においてヤバい。
番犬の若い衆、最高峰、ジェドが思う。
金属の水道タンクが連続に並び、古いポンプ類と複雑な配線が視界の両端だ。整備用の狭い廊下になっていて、足元の網目の下は遥かな地上だ。ビルの陰になって暗いのと、遠過ぎるのとでほとんど何も見えないが。そして背後は整備用の正方形になっていて、そこで行き止まりだった。使い方も分からない計器類が大量にあり、何か得体の知れない単車用バッテリがそのどれかに繋いである。きっと何か、先輩がたにとっては意味のあったことなのだろう。
とにかく行き止まりだった。追い詰められた。
いや、と思い直し、まあ最高峰ってのは確実としても、十六歳っていうのはもっと若いのに比べれば、若い衆かどうかは意見の相違がありそうなもんだしな、と思う。
実のところ、ジェドは若い衆だった。十六歳にして番犬の突撃隊の今期付け入隊組であり、その成績は今一つといったところだろうか。だから最高峰というのは彼が一人でそう主張しているだけだ。
三つの点。クールな兵隊というのは常に状況を冷静に見分け、問題を解決していくものさ。
だが、三つの点を縦に並べてみても、そこに箇条書きにすべき内容がジェドには思い付かない。代わりにこの言葉が頭を廻っている。こいつは恐らく三つの点においてヤバい、と。
死なんて覚悟していたつもりだった。いや、ともすればおれは未だに、ちゃんと覚悟は決まっているのかもしれない。ただあまりにその受け取り方というのが予想外だったがために、いまいち納得できないだけなのかも。だってそうだろ、番犬が死ぬときってのは、弱きを助け、友のために、だぜ――。
目の前には三人組で暗い赤色のパーカーを着た、野戦ハウンドたちがいる。パーカーの前は三人とも閉めていて、真ん中の一人は赤外線暗視ゴーグル、通信モジュール付きのやつ。黄色い滑り止めテープを巻き付けた突撃銃をそれぞれ持ち、三人とも短髪で、同じように頬には刺青が入っている。赤の三本線だ。そしてやつらの最大の特徴というのが、頭部に移植か何かでマジに犬の耳が付いているところ。なあおい、今ので三つ揃ったかも。
「手え上げろや、兄弟」
端の一人が言う。反対側はバブルガム少年で、膨らんだ風船をパチンと言わせるのに失敗する。
二人に比べて、真ん中は底冷えするほどに冷徹だった。だって目がないんだもの。
「ジェド・フィスだ。第三突撃隊、直属の上官の名前は――」
「黙んな。黙って手だけ上げろ。何か武器はあるか……」
とは真ん中。ジェドは慌てて手を上げる。ガム少年が言う。
「いや、こいつは武器なんて持ってませんよ。思いっ切り私生活。非常警戒態勢中だったろうに、サボってたんでしょう」
「高層町で最高の若い軍隊がこれか」
真ん中は暗視ゴーグルを押し上げて銀色の瞳をあらわにし、
「用済みだ。行くぞ」
と、重厚な黒のカーゴパンツのポケットから小ぶりな通信機を取り出し、通信番号を入れる。しばらくしてから話し始め、
「引き続きチーム二十五、外に少女はいないようだ。本部ビル内に合流する。見つけたのは、丸腰の隊員が一人」
「なあ、悪く思うなや。廻り回って、この逆だった、ってことも大いにあり得るわけだしな」
手を上げろ少年は銃を持ち上げ、ジェドに照準を合わせるとにやっと笑う。
しかしジェドの視界には何か別のものがあり、ゴーグル少年が何かにぶつかって通信機を取り落とすのを見ている。少年は何もない空を見上げ、腹を殴られ、次には顔面を下から蹴り上げられ、倒れ込む。そこには何もなく、誰もいない。
しかし次の瞬間にはガム少年が右に、銃の少年は左に殴り飛ばされ、水道配管にぶつかって崩れ落ちた。
どう見たって何も見えない。
三人の番犬が倒れており、それは自分の幸運、つまり実力ゆえなのだと思い込み始めた瞬間、いないそいつが口を開いた。
「命拾いしたな」
ジェドは身震いする。通信機風のノイズ、機械を通した細く無機質な声。
ちらっと電撃スキャンが走って、一瞬だけ黒ずくめの彼の姿が見えた。
「こいつらの銃をどれか一つ借りたら、さっさと梯子を下って安全な領域に逃げ込め」
それから音もなく走り去る。
三つ目はこいつだ。犬だろ、銃だろ、それから忍者。
「酷いパーティだよ」
テッドは今や四つにもなる書類の塊を次々にめくっている。キーを打つ音は美しい単信音のように研ぎ澄まされ、メリイはただ見守るばかり。デレクウは銃をぐるぐる回して止める。それを繰り返している。早送りの連祷。
「下から集まってる連中のハイテク具合ときたら、とんでもない。フォイルみたいな特別な装備なしに透過できる忍者だろ、力場デバイス付きの戦争ロボティクスだろ。もしかすると下でも、このフクロウどもみたいな騒動はホットなのかもしれない。力の入れようが凄まじい。貸しの二倍は返してもらってることになっちまう」
「それでこの娘がより安全だというんなら、それに越したことはないよ」
「何もかも、これまでになかったことなんだ。人がたくさん死に過ぎた」
テッドは言い募り、
「メリイ女郎よ。君はとんでもない嵐を連れてきたな」
「おい、テッド――」
デレクウを無視し、テッドはなおも口を開こうとする。
その疲れた声、テッドの溜め息交じりの言葉一つひとつに、わずかな怒りが宿っているのをメリイは理解する。
だが怖くはなかった。あんたが全面的に正しいよ、兄弟。
「言って。悪いのは全部、私だと思う。それは分かり切ってる。だから言って」
テッドは言われた通りにしかけたが、思い直ってやめ、ふいに溢れ出した感情をていねいに集めて飲み戻した。代わりに、ぎこちない笑い交じりに言う。
「まあ、君の頭にあるものを考えれば、仕方のないことだけどね」
仕方のないこと。
あんたらは、誰かにとって仕方のないことを片付けてくれる力持ちじゃないの。
「でも番犬なら大丈夫、でしょ。だってあんたら、番犬たちなんだぜ……」
テッドは何も答えなかったが、それが返事だった。メリイは不安に駆られる。大丈夫、全て平気、そういう言葉を聞きたかった。
彼の画面の中では、幾つもの立体見取り図や三次元シムの無限の虚空が目まぐるしく動き回り、次から次へと、新しい情報の碑文が流れてゆく。そんなものを五つもの画面で同時に把握して、テッドは凄まじい量のキーを打ち込んでいる。彼は各地から送り込まれた増援部隊の情報を統括する司令部だった。メリイにも今なら分かる。ジンのスイッチが入った今なら。
テッドはごく控えめに言って化け物だ。情報流を乗りこなす最高級のサーファーであり、病人であり、かなり実践的な芸術家なのだ。
「この物好きめ」
とメリイは呟く。テッドは手を止めないが、それを称賛と受け取ったようだった。
やがて、面白い話があるというように話し始める。
「昔の話なんだけど。世界経済のある時点に、マトリクス思想というものがあったんだ。この広大で底深い情報空間を、視覚的に、あるいはもっと別の感覚で捉えようというものだ。匂いとか何とか、ね。とりわけ感触と呼ばれるものに期待が掛けられた。脳と機械とのインタフェイスが発達し始めていた時代でもあった。今でいう高度な義肢や、思念操作といった技術の基礎が確立された時代だ」
デレクウも話に入ってきて、
「感触だって?」
とんでもない量の操作をほとんど無意識にこなしながら、テッドが答える。
「何ていうのか、こういう情報は柔らかいとか、あのウイルスはとんがってるとか、そういうのさ。つまり、見て考えて読み取るんでなくて、情報空間に脳味噌ごと繋いでやると、もう魂だけで全てできる、というわけ。そん中で生活してるみたいにさ」
「よく分かんないけど、それで……」
メリイも食い入る。メリイには、彼が何の話を始めたのかも全くもって分からない。思い出話なのか、ただの趣味の話なのか。けれども、こんな当たり前の会話をしていることが、今は心の安らぎになった。
「それで、人間はこういうキー卓やら、カーソル操作なんてものをなしに情報空間を利用できるはずだ、とみんなが思い始めた。そいつは金になるし、何たって世界が引っくり返るほどの転換さ。それで動く金は量だけでなく、種類も多い。あらゆる分野において経済が動く。何より、みんなが知ってるから、最初の成功者は有名人になれるだろ。マトリクスってのは、流行りものだったんだな。世界中の有名企業が躍起になったよ」
と、画面が明滅し、地図に赤と緑の光点が表示されるのを見て、直感的に、敵と味方の位置なのだ、と分かる。
「ここはやっぱり安全なんだな。ほとんどの敵が、本部の周辺を探しまわってるらしい」
デレクウがそう言って、息をつく。
「すまん、続きを」
「うん。とにかくそれで、みんなが頑張ったんだけど、どうやら無理らしいってことになったんだ。てのは、少ない情報ならいいんだけど、ほぼ無限大と見なせる情報空間に、そりが合わないって人が大多数なんだな。インタフェイスは完成した、理論的にも安全確実、って話だったのにだよ。みんな頭が痛い、吐き気を覚える。面白いのは、それ以前に“気分が酷くて仕方ない”ってんだな。情報空間はあまりに広過ぎ、深過ぎる。ってのは、理論的に無限大だからな。どの方向に対しても無限なんだ。これには技術屋たちもお手上げ。人間は情報空間が与える圧倒的な広場恐怖、あるいは高所恐怖、そして猛烈な孤独感に耐えられない。何たって本当に宇宙に一人ぼっちなんだから。視覚なんか限られた情報に絞らなきゃ、とてもじゃないが実体験なんて勘弁願いたい、と」
その口調が少し怪しげになり、
「だがな、人間の中には、そういうのをへとも思わないですむやつが、混ざってるんだ。ごく少数だけど、奇跡的な確立ってわけでもない。マトリクスに繋いでも、別段何も思わない。そういう体質が確認された。そういうやつらがどうなったかというと、視覚を通すのより何倍も効率が良いってんで、情報関係のご職業にべらぼうで向きなわけ。企業あつらえの絶滅危惧種の装置に脳味噌を繋いでおいて、ハッカー稼業。今でも大勢いるよ、そういうやつらは。移籍金も化けだし、常に世界中へ誘拐されまくってる」
何かひとまとまりの作業を終えたように、ゆっくりキーを二回叩き、満足げに息をつく。背を伸ばして後ろ向きにシートにもたれ、
「おれもかつてそうだったんだ。その素質を見抜かれて子供のうちから訓練させられた。企業共同体にどっぷり漬かってた。自社製品以外置いてないような、企業ビル暮らしでね。でも企業戦争に巻き込まれて、相手会社の送り込んだ細菌で脳に障害を受けちまった。だからもう直接繋ぐごとはできないんだけど、それでも未だに、キーと複数の画面を通すことで、そのときの感覚に近いものを適用できてるんだ。これで、ほとんどの同族より、かなり素早くなれるのさ」
ごほんと咳をし、
「さて、有志が用意してくれたレーダーと各種の通信によると、おれたちは明らかに劣勢だった。が、どうやら巻き返しつつあるようだぜ」