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花姫  作者: タナカスズ
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上 第一章「メリイ・ルゥ」A

 うるさく鳴り止まない鈴に思い切り眉をひそめて、それから、少女は目を覚ます。

 まばたきを二度。母親譲りと噂の大きくて元気な目。瑞々しい林檎色の透明な瞳。虹彩に映り込む、郊外の安物蛍光灯の、饐えた木漏れ日。

 ありがとよ、鈴。片手で所定の位置を探り、スイッチを切る。電力を失った発音機構は、重く低く沈んでから、やがて鳴り止んだ。次には、部屋は無音で、外に張り渡した電線がたわむ低い唸り声がかすかに聞こえるだけだ。

 乾いた脱色の金髪に、砂色のエクステンション。と思われがちだが、実は染め込んだものだ。メリイにしては金が掛かっている。冷や汗も少しかいたけれど、とりあえず目は覚めた。スイッチから手を離せないまま、記憶を探っている。

 夢を見ていた。

 どこかの最高にクールで頭のおかしな政府官僚が、つまりフリンジが会うたびに聞かせてくれる千余の都市伝説の化身が、今朝はメリイを襲おうとする五十代の巨漢になって現れた。誰かの顔に似てたんだけど、どうせバグハウスの教官のどれかに決まってる。

 こいつはいわゆる、酷く糞ったれってやつね。早いとこ忘れてしまおう。

 そう思いながら体を起こす。

 目覚めてすぐに特有の記憶障害か何かで、次には気が付くとメリイは斜めにひび割れの入った鏡の前におり、出掛ける支度を始めている。この記憶障害というのは、物凄に急いでいたり、熱中しているときによく起こるものだ。ふと気が付くと、必要なことを終えてしまった自分がいる、という具合。

 充電式の清掃機で歯を綺麗にし、備え付けの歪んだシンクの上でバルブを閉める。まるで石油でも流すみたいな水道管で、鋭利さを取り除いた歯車のような取っ手が付いている。それから柔らかい琥珀色のオイルで鼻や頬の角質を取る。灰色の屑は花の匂いのする湿った紙布で拭き取り、それから一晩分の毛を剃刀で切り落とす。バグハウスへ行くか行かないかというのは、目覚めた瞬間のほとんど無意識の判断だった。ところであの時計は、地上では安く手に入る電波時計の亡骸と、複数のポンコツ山から漁ってきた部品類をどうとかして組み合わせて作った、メリイだけの専用の目覚まし鈴だった。電波式なんで時間は正確。まあ、繋げてある懐中時計の秒針が折れてたもんだから、代替品として溶鉄留めにしてある裁縫針は、格好悪いけど。

 とにかくバグハウスには行く。問題なのは、メリイがそもそも鈴を鳴らす時間を間違えたことで、だってもう八時。今からじゃ最短で出向いたって書類に遅刻と書かれてしまう。それは大いにまずい。

 まずいのだけれど、最近のメリイはそういうことにあえて脚を突っ込んでいる気がしてならない。酷い目に合うのが分かっていて、どうしてかそれを避けず、受け入れてしまうのだ、と。

 教育とは名ばかりの、金も学もない少年少女をいたぶって楽しみを得る施設だ。それが分かっていながら、毎日通うことをやめられず、多くの人間は体系の一部であることを選んでしまう。さらに悪いことにメリイは、体系の一部にありながら常にはみ出しかかっている、という状態を自然と選択してしまうのだ。それが何か、記憶のどこかと結びついているのだけれど、何だったのかも思い出せない。

 散らかった室内にはベッドと木製の棚が二つ。あとは壁に備え付けの小さな鏡しかない。それ以外は屑同然の機械部品と生活廃品ばかり。衣類は洗って乾燥させたあとは放り出してあるから、そのへんで山になっている。

 メイクアップ段階に入り、目元に黒のアイラインを入れる作業の間、風がやんで外は静かだった。朝の沈黙が退屈だ。いつもの呑気な鴨の鳴き声もしない。どうにかして想像することができるものすら、聞き慣れた高層住民たちの、やたらに退廃で鋭角的な生活雑音でしかない。

 そこで片目のアイラインが終わるとメイクアップを中断して、部屋の隅に立てかけてある、大盤のデジタルディスクを取り出してくる。かつて純粋に蓄音機と呼ばれていたものの、円形記憶媒体を模したもの。黒塗りの薄いトレイで、つや消しの黒に衣類の埃がきらめいている。それから、紅色の綺麗なドレス風のスカートを拾い上げて、そいつの表面を二度ほど拭いてやる。今度は手近な配電盤のスイッチを上げ、再生機の作動ランプが点ると、その円盤を吸い込ませる。といっても吸い込みが壊れているから、手動で奥まで押し込んでやる。ずんぐりしたグレイの箱型で、限りなく再生だけが目的というデザインだった。操作用のスイッチ類も味気なく、発電施設か何かの操作卓みたい。

 メリイはいつも通りにディスクの三曲目に合わせ、最小にしたところから音量を上げ始める。やがて雑音だらけの古代ラジオ音質が始まり、いつもの聞き慣れた前奏部分だ。まあ、こんな音質ならわざわざ残しておく価値がないってほどに酷いけれど、音楽というのは中身が良ければ許せるものだ。あまりに遠い過去には、これこそ大陸の市場を渡り抜いて、一山の財産を築いた音ではあるわけだし。

 聞き慣れたお気に入りの古代ポップスに任せ、また鏡の前で作業に戻る。手早くもう片方の目も終わらせれば、ゆるく結った髪をほどく。結ったせいで少し形が変わっているから、気をつかって引っかきまわし、ていねいに伸ばしてやる。鏡を見ると、肩まで届く脱色金髪。それこそべらぼうに退廃だけれど、可愛いところもある。

 歯は白い。日々の努力のおかげだ。これが愛煙家とかそれなりの粉末派だと黄ばんでいたりする。注射針派のほうは、歯がびっくりするほど綺麗で小ぶりだったりするから分かる。

 にっと笑うのをやめてから、朝食を食べる気になって、ベッドに腰掛ける。狭い壁に埋め込まれた公共広告、略してパン端末を見やるが、いつも通りにからっきし無意味なニューズ見出しが並んでいるだけだった。それにこの液晶、電圧低減の影響か何かでほとんど暗くなっており、彩度もおかしなことになっている。

 メリイは一息つきながら、繰り返し再生されるこの歌を一緒に口ずさんでいた。気分のいい曲だ。

 どうもこんにちは、メリイ・ルゥ。




 ふいに潮騒が引いて、目が覚めた。

 白いシーツが視界の右側ですぐ近くに迫っており、目の前には、無気力に折れた自分の腕がある。白い死体の石膏細工だ。自分の体が部屋に対してどういう向きで転がっているものだか、しばらくの間、検討も付かない。もちろん、戦士に特有の超人的な感覚があればこそ、その気になればすぐにでも、それを把握してしまうのだが。細く開けた目には、中途半端な明かりでも苦痛だ。石膏細工の他人の肉、他人の腕が、シャッターの合間から落ちる斜陽の冷めた白で、綺麗に塗り分けられている。その腕は二度、素早く点滅して、消え、再び見えるようになる。事情を知らない人間には理解できない光景だろうが、確かに今、この腕は点滅したのだ。まるでそこに何もないかのように、世界が虚偽の映像を見せてくれる。そして当の本人には、これでやっと、自分のものだと分かる。点滅が終わっても、石膏細工の上には微妙な光の屈折具合と光学処理が残ってしまい、灰色で半透明のノイズ直線が走っている。それが二度ほど折れ曲がって、やがて自然な映像になった。ちょうど接続の悪い映像機器を、何とか動かそうとしているときみたいだ。普段なら完璧に現実的な映像を作り出すことができるけれど、集中を解いていれば難しいコツになる。

 薄暗い室内には音ひとつなく、水蓮はぼんやりと腕を見つめながら、まるで本当に他人の体みたいだと思う。この腕と自分は繋がっていなくて、たぶん誰のでもないんだろう。知識として、これが確実に自分のものだと知っているからこそ、その違和感は知的好奇心を絶妙に刺激する。だが何度かまばたきをすると、眠りの出口から現実の景色を遠目に見ているような、居場所なく浮かんでいるような、非戦闘員らしい感覚が完全に消えた。

 水蓮は起き上がる気になる。軽い体を仰向けに転がして、安い漆塗りの天井を見詰める。天井の軽量材に埋め込んであるのは換気用の通風装置で、今も微風運転だ。もう眠りの中の鉄の匂いはなく、重たい灰色の空もなく、孤独の喧騒を切り開いていくときの、冷めた怒りの感情もない。夢の残り香、懐かしいあの潮騒の音、死別に彩られた十余年の歴史。

 自分の呼吸の音が、どれほど美しく作られているのか考えてみる。製品版に比べれば自分もかなりの改造を受けていて、技術屋たちに言わせれば“ホットロッド”だから、もしかすると、この体を作った人形作家が本来意図した美しさや芸術的な完成度というのは、かなり失われているのかもしれない。目は覚めたものの、許されるならもう一度眠りに付いて、夢でも見たいところだ。水蓮はまばたきをしながら思う。今日は非番だし。ということは、何か厄介ごとが起こるのが分かっているとき、ということだ。侍の肉体が休みたがっている、それほど休む必要のない肉体が、嫌悪感を寒気を、胸のあたりに不快感として排出し続けている。これは魂と肉体から、純粋で無重量の知性への、最も原始的な最高権限付き信号なのだ。人間が長いこと、感情と呼んでいたものの正体か、少なくともその一部ではあるだろう。

 人形は本来眠らない。そういうふうに作られているからだ。望むなら、人工的な睡眠状態に入ることはできる。いずれにせよ眠る必要がなくなると、わざわざ何もしないで目を閉じているのが馬鹿らしくなるものだから、たいていはそのままになる。だが水蓮は睡眠できるようになるために、中東出資の巨大医療集落まで出向いていって、せっかくの大仕事で稼いだ大金を、自分の改造の支払いに回すことを選んだ。

 たぶん、夢を見ることに何かしらの意味を見出していたのかも、とヴィッキイは言っていた。あの大男の言うことはほとんどの場合正しい。正しいが、なぜだかうさん臭いというのが彼の流儀。

 反対側に寝返りを打って、軽く咳きこんでみる。明らかに安部屋らしい塗料がはがれかけた白の壁に、ところどころ観測装置や小さな作業台やらが打ち付けてある。今までここに住んだ人間たちの、様々な職業に合わせた備品たちだろう。読書をするときに迷惑で仕方ない壊れた蛍光灯の不定期な点滅も、早朝の今のところは部屋の管理装置が消しっ放しにしている。そういえば照明関係の修理の申請書は、書いたままどこかへやってしまった。

 口の中が乾燥していて、水が欲しくなる。大衆用の上水道から引いてきた酷い水を、濾過器で最高級に綺麗にしたやつ。この領域では、電力低減もよくあるし水道水の質は低い。その代わりに家賃が安いのだ。機材さえ揃えば、街の中枢にも近いし、良い立地と言える。そのせいで最近は改善が進んで、家賃は上がりそうとも言われているけれど。

 と、呼び出し鈴が二回。甲高い鐘だ。思わず水蓮は片目をぎゅっと閉じる。

 このにぎやかな呼び出し鈴は、安っぽい中古の簡易セットから技術屋が絞り出して、この部屋の通信機類のインタフェイスとして据え付けたやつだ。水蓮がどうするでもないうちに、こちらの意識があるのを予め知っていた電話は作業を始める。電話のほうが部屋の管理装置より機能が高いというのはよくない、とその技術屋たちは意気込んでいるから、そのうち部屋全体がこっちの体調やら感情やらに合わせてくるようになるのだろう。薄気味の悪い話だ。

 各種安機構の入り混じった騒音がひとしきりあってから、回線が繋がった。

「ヨウ」

 低い騒音交じりに、聞き慣れた三枚目の声で、

「ケルンだ」

 部屋の合図で自動シャッターが開く。きしむ音がして、早朝の景色が現れる。さらに別の装置が動き出してシャッターが巻き上げられていく。窓の外は安ビルばかりの平地で、まるでコンクリの灰色と薄れた青空しかないみたいだ。弱くなったモーターの音と、樹脂材のガシャガシャとうるさい音。

「そうらしいね……」

 うめきながら、水蓮は持ち上げるように静かに、ゆっくり上半身を起こす。音一つない。

 部屋は整然としていた。ここには何もない。このベッドと、段ボール箱が一つ。その中には各種ハードウェアの無残な死骸ばかりで、紙越しに、フレームの鉄や焼けた回路の匂いもかぎ分けられる。それから昨日空けたウイスキーの同じ瓶が三つ。物を所有するということはあまりしない。持ち物は頭に入っているやつだけでも多過ぎるぐらいだから。

「で、あんたが……」

 酒の瓶を見やって、首を鳴らす。戦闘用の人形の体なら、体内の基本的な埋め込み数種類でアルコールも殆どの薬物も安全な段階まで分解できるが、水蓮はせめて酒だけでも、と、技術屋に頼んでその手の修復を以来したのだ。身内の技術屋は、ハード関係なら万能だ。

 体を再び投げ倒すと、埃が舞い上がった。息をつく。

 空気も温度の違いで、流れに変化がある。通風口の低い唸り。

「あんたがあたしに、何か用があるってのかい。頼まれてた企業ビルならさっき片付けてきたぜ」

 と、いかにもけだるそうに身体を丸める。

「そいつはご苦労、酷い職業だな、あの数の人質とテロリストを、たった三人で相手するなんて。ところで、おれが頼みたいのはもっと楽な仕事さ」

 小型液晶にむかって眉を持ちあげてみせる。ここからだと少し見上げるような形だ。液晶には何か南国の島の、夕暮れどきの録画映像が映っている。それが点滅して、どこかの企業ロゴが敷き詰められた画面に変わる。

「てのは」

 ケルンの、東京製の擬似インタフェイスの間があって、

「要人保護。で、ギャラなし、ただし重要。なんで、お前さんを頼りたいとこなわけ」

 小さく繰り返し頷いて、粗雑に乱れた髪に手を突っ込む。触り心地は絹で、透明。

 珍しい話ではない。要人保護でギャラなし。つまり、大抵こっちの作業員が雑多な面倒をやらかしたときに借りにしておいて、こういう形で返すのだ。水蓮が頼まれたということは、水蓮の借りということ。うんざりなもので、天井に目をそらす。それから体をを伏せ、肘をついて寝そべる格好になって、酒瓶をぼんやり眺めた。隣で透明プラスチックのカップのビニルの蓋が開いており、食べかけの培養肉のスティックが入っている。一晩置いてしまったから、たぶんもう不味くなっているだろう。

「で、誰……」

「ヴァイス」

 眉をひそめて、

「何……」

「ヴァイスだ。二年前まで裏口で金洗ってたヤンキーの統領。お前さん、あいつの車に七脚の戦車ぶつけたよな」

 ちらっと目を流す。思い出せない。自分の膝に目を落としてみても、真っ白でいつも通り。

「そんなこともあったかね……」

「あったね。今は才能が認められて政府の職だが、あいつは酷い小児性愛者で、主に慈善事業の名目で趣味用に買い漁ってる」

 水蓮は腕を組んだ。七脚の戦車をぶつけたときというのは、最近のことだろうか。少し遠くから投げるように、

「そんでもって――」

「そんでもって、あいつは買ってどうするかというと、遠くから見守っているわけだ。迷子だの家が焼けたのだの、各地の紛争だのでリストに載っちまった少女に、施設を提供。で、たまに挨拶しに顔を出す、と」

「健全じゃないかい」

「健全そのもの。ただ、家に帰ってあいつが何をどうなってるかって話になると、これは別だ。精神科医がやつを重度の――」

 ふうん、と声もなく顔に出す。また擬似の間があって、

「まあ、それはいいとして、どういうわけかとんでもなく大規模なヤボが匂う、と。昨日のビル占拠だって妙だ。うちの有機計算機にも、まだ答えが出せない。とりあえずヴァイス爺の依頼を引き受けて、様子を見たい。詳しくは追って話す」

 水蓮はしばらく黙ってから、

「大規模なヤボと言ったね。あたしにゃ選択肢はなしかい。あたしゃ仕事を選べず、仕事はあたしを選ぶとか何とか――」

 面倒臭く息をついて、

「出発はいつがご所望……」

「今。今すぐ。耳栓と喉マイクを忘れるな、まだおれとお話したいだろ?」

「よく分かったね」

 回線が閉じる。青い待機ランプ。部屋に明かりが点いた。

 水蓮はむすっとした顔で、頭をぼりぼりとかいた。




 何がむかつくっていうと、あと五分も暇だってこと。それに何かおかしいんだもの。

 専用の軽量セラミクス護岸工事の高層河川沿いのバス停で、メリイは、昼下がりの陽気が高層町に特有の寂れた風に乗るのを見つめる。

 噛んでいたガムを草の上に吐き捨てる。まるで生ゴミから取ってきたイヌの死体みたいな味だった。黒の大きなサングラスを外す。白っぽい脱色の金髪に砂色の染め込み。最高にパンク。

 眼前に広がるのは、化け物が空から落としたまま、この広い大地に無数に突き刺さった黒の高層ビル群。何重にも積層化された立体の町並み。それらを繋ぐ陰鬱なパイプ類や、地図にも載り切らない通路たち。数百枚にも及ぶトレス紙による、見取り図の積み重ねだ。

 ちらりと目をやると、バス停には読み出し用のデータ端子がなく、つまり自力で時刻表を確認しなくてはいけない。これは高層町の流儀で、このほとんど不可能な町を建設可能にしたのが戦後の新興技術群だったことを無視しては、あらゆる新しいもの、洗練され民衆向けに天国から下ろされてきた技術を嫌う。こんな高さに人工の川を作っておきながら、その川を渡る船は中古で黒煙を吹いているようなエンジンか、もう少しこだわるなら人力で動いていなければならない、というわけ。ここでは、地上では主流になっている持ち運び可能なコンピュータというのがほとんど浸透していない。高層町のほうがそういうシステムに対応していないからだ。

 川の両側は微細な孔の開いたレンガ素材で下地になっており、その上から化学薬品まみれの土をかぶせて、町の基本美術担当が外注した各種の人工植物を植えてある。このあたりは芸術領域よりは大衆向けで、あくまで静けさを強調するような背の低い木や、白の花が多い。川の向こう側はしばらく床がなく地上に通じているから、人が落ちないようにフェンスを張り巡らしてある。

 直線で区切られたこの忌々しい時刻表と金の腕時計によれば、あと五分だ。

 このバスで四つ下ったところには、高層町が地上から重宝がられる最大の決め手となった歓楽街があって、メリイも一度だけ通り過ぎたことがある。つまりあらゆる種類の違法な流儀と薬物とが認可されており、メリイなど、同性愛者向けの培養ヘラジカ女に上腕を掴まれるところまでいった。あのときは、その手を振りほどくために暴れまわって、首に下げていたカメラが胸の骨を強く打ったっけ。家に帰っても胸が痛かったのを覚えている。結局は高層町を諦めて、課題の写真には地上の美術館を撮った。

 ああいう人種、つまり街娼のことを天使人は“呼ば女”と呼んでいて、少なくともこの二年ほどはそういう言い方が通用するのをメリイも知っている。通りがかった客を呼んでみて、金額を提示してくるわけだが、客のほうもなにか目的地があって歩いているところなのに、途中で呼びとめたら悪い気がしないか、などと思う。わざわざそんな通りに出ているのは、もともと行きたい店があるからで。

 高層町は、天使の町の中枢部から少し西外れにかけての極高層ビル群に、ここ数十年で根付いたもう一つの地下街だ。ここには地下街と同じ地底の風潮がありながら、どうしてか物理的には高高度だ。静止軌道吊り下げの極高層ビル群の針の山の、地上数十階から百階以上の範囲に、最初の居住者たちが簡単なカプセル型住居を取り付けたのだ。居住者たちは住居を繋ぐ細い鉄橋や、作業用の張り出し廊下を荷揚げするようになり、それらがしだいに大きくなり、そもそもこのビル群というのが、通常の高層建築に比べて桁違いに頑丈なもんだから、ほとんど見境なしに鉄道だの、人工の河川だの、広場だのスポーツ用のスタジアムなんかが作られてしまった。

 そういえばビル風を発電に使うような小型のプラントもできつつあるし、高層町は今のところ、生活しやすくなる一方だ。数十の階層があり、都市伝説があり、旅行者向けの観光領域だってある。こいつがあんまり図に乗ると、どこかの領域ごと落っこちるのではと地上の人たちは心配しているわけだが、だから高層町の真下は、行き場のない人間たちの不法居住区になり果てている。それで、高層町の頼もしい柱となってくれているこの企業ビルの従業員たちは、そんな危険な地上を渡らなくてもいいように、ビルとビルを繋ぐ交通ラインを整備してしまったのだ。けれど不思議なことに、その交通ラインが高層町との行き来を可能にすることはなかった。高層町と地上との交通はかなり不便だ。たぶんこっちの長老がただか井戸端会議だかが、その数少ない交通ルートってので荒稼ぎしてるもんだから、簡単でお手軽な地上側の透明パイプなんかは気に食わないのだろう。おかげでここの文化はどんどん閉塞的に、内向的に進化してきた。

 ふっとため息をつく。人工植物の揺れる河原に、犯罪なんかを見回るためのロボットの、壊れた円筒形が転がっている。円筒はメリイの頭の高さまであるようなやつだが、今は錆び付き、穴が開いて、表面には花や草木が育っている。

 メリイは今年で十七歳。最高にクズな軍隊アリと一緒に施設に詰め込まれて、大ぼら吹きの教団に、ケツの叩かれ方だの、ふざけたロボットダンスをやってから乾ききったパンを食べるときのやり方だのを教わっている。何が連中をクズたらしめているかというのは、上手に説明できないが、メリイは、あんなやつらがわざわざ偉い人間の金を受け取ってまで生きている理由って、さっぱり。

 犯罪孤児の子供っていうのはマスコミに大層可愛がられたあと、メリイのいる保護施設みたいなものに突っこまれて、メリイほど生意気でそのうえ不真面目な人間でなければまず耐えきれない精神医学的改造の洗礼を受ける。だが、メリイが最高にツイていなかったのは、自分は犯罪孤児なのに、周りはたいがいが親の手に負えなかったガキばかりということ。それは子供が酷いというよりは、親があんまり酷かったもんで手に負えなかっただけなのだが。

 こっちの施設に入ってちょうど一年だ。あの糞ったれ爺が、警察の施設で暮らしていたメリイの養育権を買い取ったのは二年前。最初の一年間は楽しい想い出ばかりだった。高層町の北端領域の、あの危なっかしい張り出し生活。電気屋の親父さんに雇ってもらい、寝るときは寝袋で、昨日捨てたものが今日は別のある店で売りに出されているという、この町特有の消費体系の中で、何年か前に親父さんが使っていたという電気式の暖房が、すっかり様変わりして売られているのを買って帰る。親父さんは喜んでくれた。雨漏りには第二世代宇宙生活者層のための填隙剤が安く、輸出前だもんで関税が掛っていないというわけ。仕事を手伝うことも増えてきて、簡単なハードウェアの故障なら、だいたい匂いで何が壊れたか分かるようにもなった。それが、一年の療養期間のあと希望を持って学び舎に入ったとたん、このざまだ。糞ったれヴァイスが糞をたれていることになったのも、残念ながら施設に入ってからだった。

 メリイが正式な文書のうえで施設を逃げ出したのは十八回だが、本当は毎晩それに近いことを企てる。気持ちが乗ってこれば、決行。わざと五本送らせているバスにすら乗らず、小銭を出して梯子を降り、高層町でも低い高度の市なんかで時間を潰す。あとは埋め込みの微細素子が黒服の警備員に言い付けるのが聞こえるような気になりながら、昼過ぎまで遊ぶというわけ。低地じゃだいたいがゴミ屑で、それらをよりあわせて、触れれば壊れるが、壊れるまではギリにゴミじゃないもの、という程度の物品が売っている。散弾銃を買ったときは、弾薬がなかったので撃てやしないのだが、警備員など近距離用の狙撃手を配置してこちらを脅かしてきた。金属製の重たい筒を、こちらが投げ捨ててゲームは終了。そのあと指導担当のご婦人に味わわされた苦痛と屈辱は忘れがたい。あの夜のあいだに、メリイの反骨精神は三倍にもなったような気がする。

 じつを言うと今日もそんなゲームのうちなのだと思いたいが、様子がおかしい。なぜってもう昼下がりだというのに、微細素子が警備員を呼び付けている感じがしないからだ。

 ずっと突っ立っているのも退屈で、すぐ近くのベンチに腰掛ける。工業用のベンチで、工場なんかで休憩用に置いてあるやつ。

 耳を澄ましてみれば、人工河川のせせらぎは、工業用水路とよく似た音だ。何たって同じものだから。セラミックスに水が流してある、と、それだけ。煙草だの紙製カップだの、得体の知れない廃棄物だのがしょっちゅう流れてきたりはしない、という違いはあるかもしれないが。ちなみに、ここに流れているのは本当のところ無害なゴミだけだ。ある主の危険な廃液などを流すと、人知れず科学の粋を集めた管理システムに引っかかる。危険な水は全て隔離され、排水される。固形物が相手なら各種の自動掃除機が動き回るし、地上でも実験段階だという細菌類が総動員だ。無害なゴミなら景観の一部として認められている、というわけ。

 メリイの今日の装いは、久々に街場の少女らしい取り合わせだ。お気に入りの黒革のロングブーツ以外は安物だとしても、黒のスカートは短いし中世人形みたいだし、白と黒で縞になったタイツは戦闘用みたいな素材だし、ゆったりした乳白色のタンクはしわだらけで、それこそ元気な部類の呼ば女みたい。その上には借り物の黒のパーカーを着ているが、こいつはほとんど無地で、背中には実在しない衛生放送局の宣伝。

 ただ、流行も参考にしつつ、攻撃的になり過ぎないように気を遣ってある。こちとらも、糞ったれには腹が立つにしたって、何も地球人全員が糞ったれなわけじゃなく、嫌いだってわけでもないんだから。もしかしたら、これを気に入ってくれた良い男が、助け出してくれるかもしれないじゃない……。

 そういう格好を許してもらえるだけまだマシだ、とは別の施設から抜け出して、メリイに煙草を教えてくれた少年が言っていた。彼はその日も白と黒の縞の服を着ていて、本物の囚人より酷かった。彼はそういえば、まだましな人間だったな、と思う。

 あの日は朝の九時に、用水路から伸びる分水パイプの網の上を渡って、地上数十階の風に震えあがりながら、普段行くことのできなかった領域に入った。つまり、分水パイプの向こう側だ。

 あちらには水道管理系と、聞いたところでは宗教関係の取り締まりをやってる事務所があるらしいが、事務所の方はお目にかかっていない。ほとんどが水道だった。この高さまで水を吸い上げるためのポンプ室ははた目にも立派で、まるで青塗りの心臓みたいだった。あのあたりには水道局員のための法外出店がいくつか並んでいて、そこで偽造カード鍵類を冷やかしていたら、彼に声をかけられた。白黒の縞に、日焼けした肌。宗教的な理由から許容されていた長髪。でも彼がその日教えてくれた煙草の銘柄は、すべて忘れてしまった。こちらじゃ見かけないものばかりだし。それに彼の名前も、入っているという施設の住所も。

 ふっ、と息をついて、ぼんやり空を見上げた。寂しく薄れた青で、雲なんて消えそう。人工河川の廃線便だの高圧パイプだの、ビル風だので何やらごちゃごちゃの空。あれがただの空で、足元がただの地面だった時代があった、というのも疑わしい。広告屋の飛行船が遠くにちらつくが、ホロは遠過ぎて見えなかった。

 やがて時間になるとバスが来た。

 しばらくは水流を見つめていたが、メリイは諦めて立ち上がった。曲がり角の向こうから、水を切る音がする。中古エンジンの荒っぽい音。

 何だか急に寒い気がして、自分の腕を抱いて足早に進む。乗り場には簡単なタラップがあるだけ。金属製のただの平板で、錆び付いた手すりには様々な広告のステッカーが貼ってあるが、日々の往来の手に手で、垢と湿気まじりのインクが溶け出している。いくつか読み取れるもののなかには、歯科医、理髪店。闇金庫。洗濯屋もあるが、高層町の洗濯屋というのは、張り出し廊下に溶接だか鉄材だかで無理やり据え付けた洗濯機を、勝手に使っていい、というだけのものだ。貨幣を入れると動くやつ。近くには自家製農園なんかがあって、誰かに教わるのでなければ、そこに洗濯屋があるのなんて絶対に気付かない。

 人工河川のバスは、だいたいがまったく別の用途で使われていた部分をより集めて作られている。今回のは、水陸両用の装甲車をフレームだけになるまではぎ取って、無理やり工業用の送風機を縛りつけ、どこぞの商業施設のロゴ入りベンチを据えてあるだけ。舵取りは高山修行の途中みたいなやぎ髭の東洋人で、いかにも新しい秋用のジャージを着て、散歩客みたいだ。バスをいい位置に止めると、振り返る。エンジンの音が待機状態で小さくなった。波打った水がコンクリート護岸に砕け、メリイがタラップに踏み出すと、透き通った水の底には、自動二輪だった部品類と硬貨。

 乗りこむと、船上には野戦用の害虫よけの香が焚いてあって、どうもこれが乗客を落ち着かせる匂いだとでも勘違いしているらしい。使い古しのスチール缶は錆びて腐食しており、底には粘土が押し付けてある。そこに黄色い棒がたくさん刺さっていて、そのうちの数本が燃えていた。

「どこまで……」

 舵取りはやはり東洋なまりだ。メリイは腕をさすりながら、

「学校」

「どの」

「最寄り」

 どうも水際だからか寒いようで、メリイの声は細かった。

「バグハウス。分かるでしょ……」

「あいさ」

 すっと手もとのレバーを引き、舵取りは前を向く。

「揺れるから、座って」

 メリイは冷たいベンチに腰掛ける。船は揺れていて、エンジン音が大きくなると、やがて、町そのものから切り離されたみたいな心地になる。

 このまま何も戻らなければ、と思いながら、私有の水門や壊れた公衆電話が過ぎていくのを見送る。全くもって、いつもの高層町の景色。




 バグハウスってのはつまり読んで字のごとくで、地上で害虫と見なされたやつが、何とか、どんなに酷くてもいいんでせめて人間らしくなってくれたら、と思った社会が作った施設だ。旧式の精神医学と教育メソッドに漬かりきった老兵が多いのは、この施設がそれほど素晴らしいもんでもないから。少なくともメリイは大嫌いだもの。

 バス停からしばらく歩くと、小型河川用の鉄橋をいくつも渡してある区画に辿り着く。周囲にはバグハウス向けの書店やらジムも見えてきて、電気屋が三つもある。高層町では基本的に、こういった中古の機械も一般的な大衆娯楽のひとつだ。何たって、それがさっぱり分からないってんじゃ、ここでは生きていけないから。これだけゴミ屑ばっかりをつかませる町では、ちょっとしたからくりぐらいは自分で直せなきゃいけない。鉄橋ごしにはビルが見えていて、こんなに近いのに、高層町の住民があの建物に入ることはとても不自然に思える。一度高い金を出して町を降りなくてはならないし、そこから、もう一度昇降機を使わなくてはならない。高層町から直接入れるビルというのは、先住民がとことん使い古したものだけで、ほとんどの立派な企業ビルは、町を支える脚でしかないというだけだ。

 足元の網目状の金属の下には暖房用の水道管と変圧器が見えていて、ベニヤ材を敷きつめて床にしてある。

「メリイ」

 と、橋のふちに腰掛けた少女が手を振ってくる。全身が美しさの限界で細長くて、まるで大人みたい。放り出した両足が可愛らしく揺れていた。メリイは手を振り返す。

「フリンジ。あんた、煙草やめたんじゃなかったの……」

 にやっと笑って、フリンジは煙草をくわえなおした。メリイは橋に駆けつけて、フリンジの隣にしゃがみこむ。フリンジは色白で、綺麗だけど生活がひどい。その上声も低いし。今は借り物らしい白衣を着ているが、下はほとんど裸で、街場ダンサーのような出で立ちだ。胸には東洋風の赤い巻物、腰にも妙な模様の入った布が巻いてある。どちらも合成絹か培養か何かで、何にしたって安いはず。両手首には金属製の腕輪がたくさん付いていて、重たくって仕方なさそう。首筋には薬物投与のための専用受容器が埋め込みになっているけど、この二歳離れた少女が果たして本当に中毒なのかは分からない。ここいらじゃ、そういうのを見かけてもただの美容受容器かもしれないから。とにかく、安物とはいえ、専用規格のフラスコをここに突き刺せば、高純度の薬品を完璧な浸透圧で全身に送り込むことができる。

「それに、何でバグハウスの近くにいるわけ。あんた、ここの人でもないわけだし……」

 フリンジは笑って、

「ちょっとした用事よ。あたしゃ人脈が広いんだから」

 フリンジの横顔は鼻が高く、黒っぽい茶髪が肩まで伸びている。赤の細い染め込みが幾つか入れてあって、つまりメリイと同じ店で入れたものだ。正直に言えば、フリンジがあんまり素敵だったんでメリイも真似をした、ということになる。フリンジのどことなく重たい目のまわりは化粧品で真っ黒で、芸者の紫で眼下にクマが描き入れてある。長くて繊細なまつ毛。細めて、遠くを見る。

「煙草はね、やめてた。うん、昔のことよ」

 橋から見ると、隣の鉄橋とのあいだに、下のほうの区画への近道として金属ワイヤーが垂らしてある。これに専用の装置を使えば、多少揺れるとか危なっかしくて怖いってのをのぞけば、人が一人ぶらさがって自由に昇り降りできる。下の区画から上がってきた煙はどこか魚料理の匂いだ。嗅ぎ慣れているが、一度もあの区画に降りてみたことはない。

 フリンジはほとんど白い煙を吐いてから、

「やめるったって理由があったのよ。あのときは健康のためなんて言ってたけど、それはラッキーに示しがつけたかったからで」

「ラッキー、煙草嫌がってた……」

 フリンジは頷いて自分の煙草をつまみ上げ、いかにも厄介そうに振ってみせる。

「あたしのは特別ひどいからね。それに、あいつがやめてくれって言ったのを、みんなに吹いて回ったら、吹いたのがあたしだとばれちゃうかもしれない、じゃない。大の男が煙草なんて嫌がらないはずでしょ、あの人の流儀だと。で黙ってたわけ。ま、今この印度製を吸ってるってので、あんたにもさすがに分かると思うけど」

 ラッキーはフリンジのここ三カ月のボーイフレンドだ。だった、と言うべきだろうか。真っ白で背が高くて、でもそれって薬物のせいだし、白いっていうか青黒いんだもの。そのくせ脂ぎっていて、表情なんてムカつくったらありゃしない。話し方も妙で、博学っぽいことを言うのだけれど、丸っきり大間違いだとメリイやフリンジにも分かるくらいで。あの野菜か何かみたいな、緑に染めて突っ立てて、ヘンな布で巻き込んだ髪は、なかなか芸術的だったけれど、それだってあいつがやったんじゃ妙なだけだし。

 メリイはフリンジが一番の友達だから、よくラッキーとも話す機会はあったけれど、その日の気温だとか汚染予報だとか、髪型のことだとか、何でもかんでも凄く気を利かせてくれるくせに、スイッチが入ると全然他人に興味を示さず、そういうときのことをフリンジは“超芸術期”なんて言っていたっけ。それに、ともすればメリイに手を出しそうな感じがすごく伝わってきていて、それをフリンジが何とも思っていないのも分かった。つまり二人は、始まりのころから、それほど熱くはなかった。ようやく理解できてくる。フリンジっていうのは、ときには酷い男だって選んで、都合のいいように乗ってみて、だめならすぐ次を探し始める人なのだ。メリイはそれを自由で素敵だと思うけれど、本人に言わせれば落ち着く場所がないんだとか。どんな屑野郎にだって、こっちが慣れっこにさえなれば、それなりに帰る場所としての役目は果たせるもので、私はあんたなんかより何倍も寂しい生き方をしてるんだよ、と言われたことすらあって、メリイはその意味を今でも考える。

 重たい煙草の煙を吐き出して、

「別れちゃったよ、ほんの何日か前。後腐れなし、綺麗にさっぱり」

 フリンジはいつもこんなふうだ。面白そうではないけれど、確かに全然悲しいわけでもなさそう。

「だって客よ。客だった。で、何かしらあったもんで、客には戻れなかった、と」

「あんた、ときどき何言ってるかわかんないよ、うちの担当みたく」

 フリンジは嬉しそうな笑みになり、

「そいつはあんたが何言ってるのかわかんないときがあるのと、同じ理由だ」

 またこれだ。むっとして、メリイは言わないでおこうと決めたことを言う。

「せいぜい次の客には、ケツにわく虫なんか連れ込まれないようにね……」

 フリンジは首を振って、

「そればっかりは思い出したくなかったんだけどね。そのうち寮に入れられるよ、あんた」

 こっちは多少なりと怒っているっていうのに、フリンジは少しも悪気はないし、悪口を言う前より自分のことを大切に想ってくれているみたいで、さっぱりワケが分かんない。あの虫の話を出したのは失敗だったんだ、と惨めな気持ちになる。

「この時間だと、あんた、強制出頭か何か……」

 聞き方が何気ないから、メリイも何気なく答える。

「うん。ううん、もしかするとばれないまま講義に忍び込めるかも」

 参った、と笑い、フリンジは煙草を投げ捨てる。メリイの目が追う中、白い紙の円筒は燃え尽き、メリイの知らない地上の街路へ落ちて行く。煙の匂いは消えず、

「最近、多いんじゃない。そういうことすると面倒が増える一方だって、分かってんでしょ」

「それ、なんだけどさ」

 そう言ってから少しためらったけれど、フリンジだったら分かってくれるかも。慎重に言葉を選び、

「つまり、さ。私、頭ではそうだって分かってんだけど、どうもわざと遅刻してるみたいなんだよね。何でだと思う……」

 しかしフリンジは少し微笑んで遠くを見るだけ。

 メリイは立ち上がる。

「行かなきゃ」

「そういうもんよ。でも、体には気を付けること」

 それにはメリイも笑って応え、

「またね。吸うったって、あんまりやっちゃだめだよ」

 フリンジの肩を叩いてから、鉄橋を渡る。その柔らかい感触は片手にずっと残っている。見た目よりずっと柔らかいし、温かい。

 鉄橋を歩き抜け顔を上げるとき、無数の光の筋が流れ、遠くのホロがかすみ、思い出すのは両親の死。これによく似た冷たい冬のビル風が、割れた耐圧ガラスから吹きこんでいた。紙幣。でも確か、ずっと冷たかったんだよな。

 この向かいに、指導官の制服を着た男が一人立っている。メリイに気付くと、組んでいた腕をほどき、端末を取り出して誰かに連絡を入れはじめた。その抜け目なさ。

 錆びた非常階段、予備電源。

 メリイ十四歳の冬は、疎遠な両親に付いて歩く、天使の街のホロ広告の下。超電導線の重々しいバスが湾曲したレールの上を滑っていくと、汚れた熱気が歩行者の間を吹き抜け、鉄鋼フェンスの向こうでは国産室外機の唸り。遺伝子組み換えの猫がするりと抜けていって、ビルの谷の向こうには、狭く切り取られた遠い空。旅行会社のラベルが付いた貸し自転車が三台停めてあって、どう見たところで長いあいだ三人は戻っていない。その次には、色々な種類の酒の瓶が、何か地元の新興宗教だろうけれど、たくさん並べてある。

 安い賃貸ビルの表面で中華料理屋の広告が明滅し、消えると、しばらく空きチャンネルの白になって、東洋圏の汚染予報になる。あっちじゃ防護マスクと埋め込みなしでは肺がやられてしまうとか。それとも、それだって母親の数ある物語の延長だったのだろうか。

 父親は町の小工場三つの統領で、中華圏での営業の汚い手口が受けて本国に戻ってきたばかりだった。現地では複数の族長と渡りを付けていたらしいし、そういう意味ではやり手だったということ。工場で死人が出たときの話をいくつか聞いたけれど、メリイは、死んだ作業員が悪いのだと、つい最近まで思い込まされていた。間違った認識を正してくれたのは母親だった。母親は、きっとこの父親を憎んでいたのだろう。メリイの知る限り、とても優しい人だったから。

 ビルの谷では変電盤が火花を吹いたままで、ドラム缶には汚れた排水が満たしてあった。

 父親は右にいて、母親は左。そのうしろにメリイ。三人で薄汚れて安っぽい道を歩きながら、父親の予約した中華系の店に向かう。メリイの知らない不思議な遊びをみんながやっていて、それも色んな種類がある。良し悪しの分からない高級料理が出て、それが全部べらぼうに高いと母親は言う。

 そういえばあのときは、高層町なんてものが全くの他人事だった。空を切り取るいびつな工業廃品の寄せ集め。あんなものなくなってしまえばいい、と。だって路地に影を落とすし、たまに迷惑な落し物があるし。

 神様が居るという石の祠の前で父親は一礼し、それから鳥居をくぐる。長いエレベータに乗って、重たい沈黙の終わりに、やっと息をつくと、コンクリでできた大きな門があった。龍と虎の舞いが描かれた看板、ホロの水しぶきが周囲で暴れて、ゲームの歩合なんかを表示しているが、やっぱり分からなかった。裸の女の人が、半透明な青や赤の殴り書きで現れ、客たちの周囲を優雅に舞う。

 入り口の鉄扉では銃を持った現地人が警備していて、定額の貸し出し用だろう。簡単な防護服を身に付けていたけれど、それほど何かを警戒している風じゃなかったのを覚えている。父親は中華街のための紙幣で、簡単なチップを渡す。

 扉は錆びた鎖で引っ張りあげられて、大きな音を立てて開いた。ここへ来たことが、とても重大で後戻りのできないことのように。それこそ、お偉方が求める感覚だったのだ。三人は長くて静かな廊下に入り、灯油が燃えている。静かだった。

 メリイは母親が店の感想を言うのを期待したけれど、そこでは母親は、ついに口を開かなかった。




 指導官がメリイの上腕を掴む。せっかく可愛い服を着てきたってのに、平気でパーカーを握ってくる。指導官の両手には作業用手袋があり、埃っぽくて鳥の糞だか塗料だかで白の汚れが付いている。こいつらときたら、台無しにするんだとか汚すんだとか、あるいはぶち壊しにするってのが日課なもんだから。

 階級や役職にもよるけれど、こういう時間割制でいちどきに何十人もが施設内を巡回してるような種類の指導官は、おそろいの紺色の軍人の制服みたいなのを着ている。ただ肩に飾りなんてなく、胸のポケットにバグハウスのロゴと、正式名称の頭文字を取ったのが書いてある。ほんのたまにだけど、客でも子供たちでも、職員でもいいんだけど、とにかく気の利いた感じになるときがあって、そういうときにはこの頭文字に勝手に単語を当てて、面白いことを言ったりするのだ。

 紺色の制服の他にはこのふざけた手袋で、暴力沙汰を抑えるためのものだろう。弱いやつなら薬品も通さないし、鉄板が仕込んであるんで、使い方さえうまければちょっとしたものだ。あとは制帽もあるが、施設内の風潮で、あんまりかぶらないようだ。

「その手、弱めてくれると助かるんだけど――」

 メリイは片目をきつく細め、あんまり痛いんで何とか、弱々しく声を吐き出す。

「いや、逃げ出されると困るからな」

「逃げ出すようなやつが、わざわざ河川バスを使ってまでここへ来ると思うわけ……」

 こいつを今すぐこの高層から付き落とす方法ってのがあれば、試させて欲しいもんだわ。

 高層町から人間が落ちるさまを思うとき、メリイは考えてしまうのだが、地上の連中ってのは、たまに落ちてくる死体をどう思うんだろう。死体というよりは、砕け散った破片か何かなんだろうけど。地下街の連中もそうだけれど、とにかくこの異なる階層の人間が交わることは、よほど望まない限り難しい。

 そして自動ドアが開き、闇で、薄暗い階段を上る。

 メリイは連れていかれて、いつもの指導室に入れられた。

 担当官は一度、職員共用の便所に用を足しに出て行った。これも共用らしいけれど、メリイに見える距離のデスクに権利侵害もののウイスキー瓶が置いてある。

 一人きり。並んだ事務机。書類が空調の風に揺れている。ここは担当官が、悪事を働いた子供に制裁を下すための部屋で、血やら、潰れた椅子なんかが置き去りだ。とても広いオフィスで、複数人分の机があるのに、実はほとんど使われていない。掃除係がここをおもな休憩所としているのは知っているが、その相手をさせられるのも、メリイみたいな子供だ。何かの安っぽいバーで聞いたことがあるけど、フリンジなんて一度はひどく汚い流儀を好む客に当たっちまったってんで、その契約を撤回させるために凄い大枚をはたいたとか。でも客のほうも自分の趣味を隠していたわけだから、このあたりでは買い付けができなくなってしまっただろうけど。本人があまりそのときの話をしたがらないのは、たぶん、思い出すといやに腹が立つからだ。

 室内は全面的な灰色塗りで、天井は妙に高い。壁一面の大きな窓にはシャッターが下り、だから時間の感覚が掴めない。部屋のすみでは壊れかけのホロ投光機が、薄れた太陽系を表示している。太陽系は拡大され、まずは木星。何か詳しいデータも順に表示されていくが、あんまり薄いんで見えやしない。

 足音。

 メリイはいつも決まって、こういうときには昔のことを思い出す。あのときにくらべれば、不幸なんてもんじゃない、苦しむことはない、と思いたいのかも、と、それはフリンジのいくつかの意見のうちの一つだけど。メリイとしては、どうもそれが正しい答えだったんじゃないかと、最近よく思う。だってあんまり楽しいとか嬉しいってわけでもないし、終わってから、一人で吐きたくなるときがあるから。ま、涙が出るなんてことが全くないもんで、そのせいでメリイには喜怒哀楽以外のどれか、ということになっているけれど、それじゃいよいよ正体が分からない。

 ドアが開くと担当官が出てきて、青の作業着に着替えている。どうせ今から脱ぐのに、と思うけれど、笑えやしない。施設の簡単な名刺カードを胸に付けている。メリイは目をそらすようにうつむき、聞こえるのは校内放送の遠い呟き。楽しげだ。

 それからやっぱり、手には電撃棒。軍隊から降ろしてきた教育法だというが、少なくとも軍隊では兵隊を仕上げるためにこれを使うはずだ。ぶっ壊すためってんでなくて。電撃棒のせいで下半身がおかしくなった生徒の話は有名で、でもバグハウス側の教育法に改善は見られないし。

 鳥の鳴き声も聞こえる。どうせ遺伝子組み換えだ。緑色のやつ。担当が口を開く。

「君は今日も、わざと講義に時間通り現れず、友人とのんびりお喋りをしてからやってきた。しかも……」

「いくら……」

 メリイは床を見つめながら言う。安物の椅子に生体プラスチックで縛りつけられていても、恐怖は感じない。

 これなら慣れっこだ。

 男がくすっと笑う。

「もちろん無料」

「違うよ」

 舌打ちして、

「何回だって聞いてんのよ」

「五回。無期限。薬あり。相場だろ?」

 メリイは眉を上げ、黙って繰り返し頷く。うんざり。

 男の笑い声。




 店内に入ると、やはり見慣れない各種のゲームに興じる東洋人ばかりで、三人家族は不似合いだった。夜の闇が、冷たい静けさがここにもあり、派手な中華圏の装丁に飾られた天井を見上げても、美しさではなく恐怖だけがある。天井にはどうしてか西洋医学と南部天使の街の新興宗教が入り混じっており、微細なガラス細工のシャンデリアが九つ。安っぽいむきだしの電線も渡してある。

 大きな円形の卓に着いて、震える飲料水の表面を見つめる。椅子は木製で、やはり龍と虎の彫り物になっている。座ると冷え切っていた。母親はいくつか店の感想を言ってから、静かに前菜の魚料理に手を付けはじめる。あらためて見ると、メリイと同じ長い金髪をうしろでまとめていた。少しだけしわもあるけれど、年齢相応の美しい顔立ちだ。

 やがて父親が笑い、工場での話を聞かせてくれる。

 株のこと。外貨取引の抜け道があり、資金洗浄を生業とする各種事務所があり、日本製企業連合の退廃と中華系原油閥の癒着。天使の街の政治は完全に独立の体系だが、こちらには狂気がある。培養液漬けの脳、電源プラグにがんじがらめになった各種臓器。十三人の頭脳。最高会議。

 メリイは帰ったら何をするか考えていた。母親に、学校で何をやっているかちゃんと話そう。天使の街にはごまんとある工業系の学校の中でも、かなり上位の教室にメリイはいる。父親の資金と、まじめで禁欲的な母親のおかげだった。

 繰り返すのは、この世を渡っていくとき、必ずどこかで裏切りを経験しなければならないということ。だがコツさえ掴めば、それもまた微妙な経験則のうちの一つでしかなくなる。裏切りという技術があり、汚れた金という制度がある。父親はそれが得意だった。

 母親がおもむろに、父親の話をさえぎった。メリイは思わず目を見開いている。これをやるとひどいことになるのだが、店内ではさすがに父親も黙っている。メリイの大嫌いな父親の沈黙。どこかで誰かが小声の言い合いになり、ゲームが中止になる。

 母親は笑う。笑って、鞄からメリイへの贈り物を出した。小さな硬い紙の箱で、それが何だったのか、分からずじまいだけれど。

 あとが怖いな、と思いながらも、メリイは贈り物を受け取って、不思議な喜びを感じていた。だって母親が、わざと父親を怒らせるようなことをしたから。あのとき箱を開けておけばよかったと思う。

 もう永遠に分からない贈り物の正体を、今でも考えるときがある。




 男は名乗ったけれど、知りたくない。これをどうか、ただの行為で終わらせて欲しい。

 目の前にあるのは、笑っているくせにどうしてかとても苦しそうな男の顔で、浅黒く焼けた肌に、銀色の無精髭。同じ色の短い銀髪を脂か何かで後ろに撫で付けて、首には金めっきの鎖。透き通る夜の黒い瞳。男はもう上着を脱ぎ、上半身は裸だ。

 メリイは両手を頭より高い位置に投げ出して力なく拡げ、腋がじっとり汗ばんで、それが空気に触れるから冷たい。というのも、男はメリイの手首を強く握って、灰の正方形タイル張りの壁に押し付けているのだ。まだ服は何も脱がされておらず、大き過ぎるタンクトップはこのヘンな姿勢のせいで胸を隠しきれなくなっている。

「いいか、おれたちは仕事をやる。お前たちも仕事をやる。それだけなんだ」

 男はそう言ったけれど、息はすでに荒く、熱く、宿した欲望というものがどれほど強烈で、また限りなく獣らしいかということをメリイたちは知っている。これは仕方のないことなんだ、と必要以上に何度も繰り返している。彼自身が後ろめたさを少なからず考えているからだとメリイにも分かる。もしかすると、ここへ来て日が浅いのかもしれない。何にせよ、メリイ自身もそうだったように、人とは慣れるものなのだ。

 フリンジに聞いた数え切れないほどの恐ろしい性病の数々への警戒心や、精神を病んだ客のおぞましい趣味に付き合わされる恐怖、事実上タダ働きで己の体を投げ出し、こんな寂しい男たちの性欲処理の道具としてしか扱われないことへの屈辱感も、慣れれば少しは緩やかになった。バグハウスで時おり遠くに聞こえる楽しげな笑い声は、耳を塞ぎたくなるようなグロテスクな響きを帯びている。こんな世界で楽しそうにしていられるということが、どういうことか、メリイたちは知っている。彼女たちはもう感じなくて済む。とうの昔にあまりに酷い負荷に負け、心と呼べるものが形を失ってしまったのだ。彼女たちはさえずる鳥だ。壊れた鳥の人形なのだ。

 そして今やメリイ自身も、自分がそうなることを望んでいる。こんな酷い気分はごめんだからだ。熱く、どこか途方もなく薄汚い生ゴミの腐臭も、男の吐息が耳に触れるたび、明け渡してはいけない場所に踏み入られる絶望も。彼らの足跡は一生消えず、眠る前、その夜ごとメリイの胸を重たい大気で満たす。その熱気に悶え、吐き出そうとして声を絞るけれど、何も聞こえない。

 小さな背中が壁に触れた。母のことを思い出さないようにしている。詳細を一つも思い出せないその笑顔が、壊れた映像デッキのように何度も現れては、目の前の景色と入れ替わる。

「この世には、結果だけがあるんだ。お前たち虫けら女どもは、不幸にも親を失ったとか、まともな親に恵まれなかったせいでこんな施設に置き去りにされ、人知れず、ウジ虫どもの食い物になっている。それはお前たちが何か、神に罰を受けるようなことをしたからじゃない」

 男はメリイの細い手首を片手にまとめ、もう片方の手で、こちらの顎を強引に持ち上げる。後頭部がタイルに当たって鈍い音を立てた。早朝の遠い朝日みたいに白い金髪が、自分の目に掛かっている。その向こうで、男は蛍光灯の白を背後に、暗い陰になっていた。両足が震えている。恐怖でなくても、酷い気分だけで体が震えることはあるものだ。

「お前たちは、恵まれなかっただけなんだ。この世には、お前たちみたいなゴミ屑同然の人間よりもよほど、死んだほうがマシな人間なんてものがごまんといる。だがそいつらはみんな金をたっぷり持ち、権力やコネにものを言わせて、お前たちみたいな力のない人間を騙し稼いでいるんだ。やつらブタどもにとっては、レイプなんて簡単なことなんだ」

 まるで自分自身を嘲笑うかのように、男はメリイを笑った。

 男の乾いて大きな唇がメリイの唇に触れた。と、ずっと太くてざらついていて熱い舌が、メリイの口の中に押し入ってきた。こちらが男と目を合わせないよう、歪めた視線を落とす間にも、男の舌は死にかけの毛虫みたいにはいずり回った。こちらの舌はそれに応える意思など全くないけれど、男の舌はそれを無理に絡め取り、向こうへ引き入れようとするかのよう。相手の唾液が大量に流れ込んでくる。メリイは思わずそれを飲んだ。酒と何か分からない饐えた匂いで、飲み下す。喉が低い音を立てる。

 頭上にまとめられた両手が、吐き出しようのない不快感に折れ曲がる。

 内股に曲げた脚に男の手が触れたかと思うと、冷たい膝どうしをくっ付けて抵抗しようとするけれど、眠たげな温度の二本指が黒のスカートの下に入ってきた。下着越しでも男の指は温かいと分かる。スカートの縁が柔らかい大腿の肌にこすれた。

「なあ、どうしたんだい。慣れっこじゃないのかい。震えてるみたいだぜ……」

 ようやくその薄汚いキスをやめてくれたと思ったら、男はそんなことを言った。

 鎖骨に汗が一滴流れ落ち、胸に溜まった汚れた大気を吐き出したいけれど、それが喉を通るとき、男の味を確実に感じてしまう。

「お前は有名なんだよ、メリイ。中毒の阿呆女の中では、指折りにルックスは良いし、何たってあのヴァイス親父がわざわざこんなところに放し飼いにしてる物件なんだから」

 その瞬間に、メリイは思わず男の顔を見てしまう。

 それはただの顔だった。獣の数ある部分の一つでしかなく、肉体でしかない。

 男は手首を放したと思うと、すぐにこちらの首を絞めてきて、床に座り込ませる。そのまま今度は引っ繰り返され、下着を強く引っ張って脱がされる。

 寝そべったメリイの乳白色のタンクトップは、腹が見えるまでたくし上げられ、男はそこに口付けをする。匂いを嗅ぎ、感触を味わっている。その合間に男は言った。

「お前は初めから、こうして汚されるためにここに入れられたんだ。何故って、ヴァイス爺さんは芸術が大好きだからさ。芸術ってのは美しいだけじゃないんだ。醜いものだって、人を感動させることはできる。人はときに、酷い気分というものを閉じ込め、飼い慣らしたいと思うものなんだ」

 まるでその動きは犬か何かみたいだ、と思うけれど、何の感動もなく、ただそういう風に見えただけなのだ、と思い込もうとしている。

 両脚を開かされ、とうとう男が作業着のベルトをカチャカチャ言わせ始めたとき、メリイは自分がどんな顔をしているのか、初めて意識した。

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