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花姫  作者: タナカスズ
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Prologue

 死んだ海鳥。

 その鳥の真っ白い身体はどこか遠くの土地で遺伝子的に改変されたものだ。美しい景観、人工の理想郷を飾る純白。大きな翼。汚染された二千ヘクタールの産業廃棄物に群がる都市のカラスとは正反対だ。よほどの毒を溜め込んだ魚類にでも中ったのか、その翼は力なく、突然そこで倒れたように波打ち際に揺れている。動いていたもの、美しく飛び、冷えた水面を見下し、自然の円弧を描いていたもの。それがただ、やがては腐る肉と骨になり、生物とも言い切れない廃棄物となって揺れている。

 桟橋の脚部が冷え切った小波を砕く音。白い亡骸に何か特別の感慨を抱くでもなく、今より三つ若かった侍は目を閉じ、背を向ける。桟橋を離れ歩いていくと木製の小屋があった。仲間たちが酒やまともな料理を楽しんだ場所。小屋の影に墓がある。そこらの流木から削り出した木を、無抵抗ワイヤで縛って十字架にしたもの。この手作りの墓標には、死んだ女性の名が刻まれている。美しく派手なものを好む人だったけれど、その墓の小ぶりでつつましいことといったら。早朝の氷みたいに冷たい空気の中、振り返ると橙に燃える水平線に、古い輸送船の黒が点と浮かぶ。薄れた青、この冷気に凝結した白のような千切れ雲。あの水平線の向こう、天にまで届く不可視の細い道が、この墓標からまっすぐに伸びているように思えた。彼女は散歩でもするような足取りで、それを歩き去っていったのだろうか。

 それにしても、こんなに貧しい墓じゃ、本人が見たらきっと怒るだろう。そんな風に思いながら今日まで侍は過ごしてきた。それに今は一人分だけれど、いつかここに三人分の十字架が立つことになるだろう。

 通信機が門を開く瞬間の高域ノイズ。途切れ、

「ヨウ」

 声がした。映像は消える。

 侍は目を開ける。冬の青空、その色の瞳。片耳に固定した小ぶりなイヤフォンに通信が入っていた。

「こちらケルン、通信は良好」

 高層のビル風は頬を刺すように冷たい。永遠に凍ることのない流動性の氷だ。この冷たさを思えば、あの朝の記憶が今甦ったのも当然だと思う。星のない夜もまた不変で、いつしか、夜空には無数の光の点滅があることを誰もが忘れていた。

 この三枚目の声の持ち主は、水蓮たちの指揮を執る人工知能だ。安いユーモアと法外な攻撃性向。耳に手を当て、応える。

「こちら水蓮、きわめて明瞭」

「よし、大ニュースだ。つまり、反応ありだ。場所は――てえと、もうそこにいるのか?」

 貸し切りの離島の早朝、その感覚は消え、視界は闇だ。彩度ゼロの真っ黒な静寂が、広大な都市の空を埋め尽くしている。今や重たいビル風となり、小規模な工業地帯の硝煙となり、女衒の現金取り引きとなり、この祝福された経済都市の夜となる。闇は落ちかかり、世界は悲鳴を上げている。金属質の軋み。かつてあの離島で何があったのか、知る者は少ない。水蓮は今でもよく思い出すが、感傷に飲まれるわけではない。そうではなく、どこから来たのか覚えていなければならないから、思い出すのだ。そもそもあれが悲しい記憶だったとも思えない。自分を変えたもの、今に至らしめたもの、その象徴的な記憶だ。

 そして極高層ビル群、くすんだグレイの建造物たち。どこを振り返っても視界を埋め尽くしている、極めて乱雑にではあるが中央のひときわ長大な“塔”に寄り集まるように建てられたビル群だった。これらは雲が出ればそれを貫き、遠くから見ても町の空を大いに損なうほど数が多くてまた巨大だ。

 そして群れの中央に位置するのは、静止軌道から吊り下げた構造材によって自重のほとんどを支える巨大な“塔”だ。この街の象徴、みんなはこれを単に“塔”と呼んだ。真横から見たなら、それは地上と静止点の両端で最大となり、中心に行くにつれ細くなる逆紡錘形に見えるだろう。ただし複数の建造物が互いに絡まり無数の通路や補強材で結び付けられているため、筋繊維のように複雑な隆起を宿している。昔々に神々が作りかけたが飽きて放置し、今となっては退廃してしまった鉄の植物。そんな風にも見える。神々はビル郡を、無数のグレイの直線を大地に突き立て、中央には強化炭素繊維の大樹を植えた。それは今、人の欲望を、経済の非情な利害を大いに吸って固まり、もはや育つこともない。月夜の邪魔になるから、水蓮はこの塔や、それを取り巻く数百に及ぶ極高層ビルが嫌いだ。

 天使の街。天使の夜。

 水蓮は喉マイクに触れながら、目を細める。マイクは目立たないよう白塗りの小ぶりな絆創膏になっており、面積は一平方センチもあるかなしだ。そして細めた目は、黒のまつ毛がくっきりと強調され空色の瞳を縁取っている。

「この感じだと政府直轄の大部隊が下に詰めることになるよ」

 その声に緊張した感じはない。これから相手にするものは大掛かりで強力。とはいえ水蓮が借りていて、自由に使ってもいいこの力に比べればまだ大人しいものだからだ。武装していようが、造作もない。

「つまり、あたしらなんて必要ないかもしれない」

「逆だ。彼らじゃ負傷者なしに事を済ませられない。よって必要。よって雇われる」

 片眉を持ち上げ、

「負傷者――、人質かい。何人……」

「聴いて驚け。二百人。三階層分の職員たちだ」

 呆れたように目を回す。ケルンが続けた。

「行方不明になってる、つまり捕まらなかったが逃げ出すこともできないで、どこかに隠れてるのが十五人。死者は出していないと向こうが言ってる。たぶん、その通りなんだろう」

「良心的だね。よほど頭がまともなら、脅威を実感させるためにまず何人か殺す」

 今度はケルンが呆れる番だ。

「良心的なもんかい。まあ、その話はあとだ。五分以内に獣使いとヴィッキイが到着。チームが揃い次第エリアスが穴を穿つ。三十秒で全部片付けろ」

「三秒って……、そりゃ大変だ」

 と、わざとらしく言ってやる。こちとら、耳が悪いわけではない。

「だろうな。まばたきする間に十人殺れるんじゃ、こちらが精一杯時間を稼ぐのも無意味みたいで悲しいよ。残りの二十七秒でお土産でも買ってきてくれるか? で――」

 ケルンがこちらの位置を探ったらしい。全天赤外スキャニング。政府が飛ばしている観測ヘリの数が知れる。

「五十フロアも上からどうやって入るつもりだ?」

 政府はよほど慌てているから、ビルの壁面に立つ女一人すら見つけられるほどの精度が出せる。ケルンはそれをコソコソと借りただけなのだ。水蓮は何気なく、

「外から。壁を伝って降りる」

 ビル風がこちらの髪をばたばたと煽る。しかし水蓮は平然と立っていた。“力場”があるから、自分の体重を普通より重くして安定させているのだ。見つめるのは直下、眼前に地上が、巨大な一枚の壁面となって広がっている。水蓮はビルの壁面に垂直に立っている。しかし水蓮には、このビルの外壁こそが地上と認識されているのだ。そして水平線に目をやれば、消失点まで続く大きな闇の壁があり、そこからは無数の、あまりに遠く長い梁が突き出ているように見える。

 白装束。安い合成繊維の、絹の着物だ。白地に薄っすらと金の装飾、龍や花鳥の模様が縫い入れてある。帯は紅。自由なキャンパス、白地に、金の髪と赤の帯は秋の色合いだ。この爽やかで消え入るような色彩の割に、高層建築に吹きすさぶビル風は圧倒的だったが。強烈な風に暴れていた黄金の長髪が、ときおり風が弱くなるとき、さらさらと流れる。これから伝統儀礼にでも参加しようというような出で立ち。腕を組んで、全身には純金の小ぶりな装身具を身に着けている。よく見なければどのような意匠か認識できないほどのささやかさ。つまり、派手ではない。長い袖が後方に張り、風にはためいてばたばたと音を立てた。これがこの街で芸者と呼ばれる外人娘たちの装束だ。水蓮もかつては芸者で、今は侍だ。その証拠に装飾なしの鞘に収められた刀を提げている。この刀に斬られた者で、その刃の、重くくすんだ銀色の輝きを見た者はいない。水蓮は“場”の他にもいくつかの小道具を持っていて、どれも生体ウェアのジンなしにはほとんど扱いに困る代物ばかりだ。酷く使い手を選ぶ道具たち、その扱いに長ける人間を、ジンを頭に載せた人形を、街場では侍と呼んだ。尊敬と畏怖を込めてそう呼ばれた。しかし水蓮は思う。侍の力なんて、面倒な役割を与えられ、まっとうするために貸し出されるものに過ぎない。

 風が吹いて、水蓮の輪郭がぼやけた。解像度を著しく上下させる操作。準備運動のようなものだ。必ず“幻”が必要になる。大勢の人間を相手にし、かつ人質を守らねばならない。“幻”は幻影を見せる。熟練するほどに、より現実的な映像を見せることができる。というのも、これは本当に詳細な現実映像を見せるものではなく、人の脳にこう呼びかけるのだ。あなたはこのような現実を見ている、と。錯覚をはじめ、人は不確かなものから確かな実感を得ることができる。そこに割り込み、見えてもいないものを全く見た気にさせるという仕組みのほうが、リアルタイムで完璧な仮想現実を出力するなどという非現実的な機構よりも、よほど簡易で信頼できるのだ。“幻”の扱いに熟練するということは、つまり他人の脳を騙すのが上手くなるということだ。水蓮は他の道具と合わせてこれを用いるのが得意だが、常人なら、二つの道具を同時に使用することなどできない。そして誰もいない空間から見えない太刀が振り下ろされたとき、それをかわせる人間などいなかった。まして、数メートルの距離を“跳躍”によって一瞬にして飛び越えられる水蓮の太刀を、斬られる前に知覚することもできないだろう。

「時間になったら呼ぶ。もう少し景色を楽しめ」

 ふん、と鼻で頷く。

「見飽きた景色だよ、どこへ行っても同じだ」

 壁面に立ち、臨むのは都市の地上、数万の交通と電気仕掛けの商売。黄色や白の明かりが、地上の銀河のように煌々と輝く。合法ホログラム広告が空を埋め尽くす人繋がりのノイズ雲となり、情報過多の生活音が溶け合い、低い轟音となって眠らない夜に震えている。高層建築構造材が軋む。

 天使の街。

 西海岸原子力機構、その最大供給先。かつて人類が想像だにしなかった量の電力を消費する都市。金は物を言った。この都市はもう何十年も、国家が定める法を無視して暴走し続けてきた。環境保全を無視し、貧困層を無視し、増え続ける犯罪を無視した。引き換えに得たのは自由な気風――、それも本物だ。ここは本当に自由な都市だ。誰にも縛られず、明日はわが身という闘争に身を削る。そして一部の勝者には圧倒的な力が約束された。

 加州にはかつてロスアンジェルスと呼ばれた街があった。天使の街は、歯止めの利かない企業経済の濁流に洗われた、死んだロサンジェルスの遺灰だった。遺灰は高く遠く積もり、この街になった。広大な台地に突き立てられた千余の極高層ビル群が、地上から見上げても先端まで見えないほどの長大な塔群が、何かの死を弔うかのように見えるのも当たり前だった。事実、この街は死を破壊を、汚染を糧に育ったからだ。黒ずんだ直線円筒は巨大な墓石なのだ。そして地上に平地などなく、地下にまで及ぶ数百階層にも積層した都市構造が続く。コンクリートと鉄材によってことごとく虫食いにされたかのよう。そこに悪徳の植物は根を張り、人工建造物が編む鮮烈なモザイク画となった。構造の密林となり、過密情報の狂気的な騒音となった。

 強い者はここではあまりに強過ぎ、誰もその悪徳を裁くことはできない。ここはまさに、公平さと引き換えに天井を破った都市だった。万の敗者と一人の勝者を生み出すシステム。まことに自然的であり、野生だった。そしてこの都市には、あまりにも灰色が多過ぎる。

 侍はこの街で生まれた。

 誰も触れることのできない不正を、弱者をただ消費する不正を、圧倒的な力で捻り潰す。それが水蓮たちに与えられた仕事だった。消えていった弱者たちの叶うことのない願いが、呪いとなり、街場のルールに歪みを生じた。その歪みを侍と呼んで差し支えない。呪いによって生まれ、水蓮たち侍は、何か強大なものを、誰かの代わりに破壊し消し去る者となった。そのために授けられた力だった。しかし誰にも、不正を不正とは言い切れなかった。強い者が弱者を踏みにじるのは当然のことではないか。弱者の群れの中にすら、嫌気が差すほど根強く、強者は存在するのだ。

 侍たちは憎まれる。助けられなかったものには、どうして自分を救わなかったのかと問い詰められる。彼らはそんな疑問を強烈に抱きながら地に堕ち死んでいくのだ。そのことを水蓮たちはよく知っている。あるいは巨大な市場経済からは、当然のこととして進むはずだった弱者の消費を、安い正義のために食い止めたものとして憎まれる。水蓮たちがそうしたのは、正義のためや優しさによってではないことも彼らは知らない。侍たちはグウルゥの筋書きから逃れられないだけなのだ。そして侍たちが最も気にかけているのは、助けたものにさえ恐怖の目で見られるということだ。そして彼らがこのように思っていることも知っている。どうしてもっと早く助けてくれなかったのか。私がこんな恐怖に巻き込まれる前から、その根源を潰しておくことだって、できはずではないか。

 高層に吹く風は冷たい。いつでも冷たい。闇にも無数の明かりが、生活の灯火が燃えている。ホログラム広告が締め出した大気。虚構の繁栄。ここでは世界の中の自分ではなく、世界を見下ろす自分でいられる。かつて弱者として消費されようとしていた自分が消えることはない。消えない卑屈さであり反抗心であり、与えられた力の矛先を決める微弱な意思決定性として今も生き続ける。侍とはかつて弱者だった者の名だ。そして今は呪いの指先である者の名だ。

 組んでいた腕をほどき、場を調整しながら一歩を踏み出す。と、その足がビルの耐圧壁面を踏むより先に、水蓮は消えた。不規則に明滅し、そのたびに遅れた画像処理の残滓が残るが、やがてそれも薄れ、完全に消失する。低い風の音と、平行に並ぶ建築郡だけが残った。




「諸君らに感謝する」

 と、男は言う。長身で筋肉質。戦闘用に精練された培養筋肉だ。彫りの深い顔、厳しい目付きとは裏腹にどこか優しい。少し離れて、その両端には武装した仲間が立っている。けれどひどく警戒しているというわけではなさそうだ。目の部分だけに穴の開いた黒いマスクを被っており、個人を判別することはできない。どんな肌の色で、目の色で、髪の色なのか。顔つき、いや、表情はどうか。分かるものではなかった。彼らもまた自分の求めるほうへ歩んだに過ぎない。純正品の突撃銃と通信関係の電子装置を持ち、高度に武装している。

 男は感情を込めて続けた。

「その命の価値をもって、この都市の腐った上流階級を脅かす無類の盾となってくれたから。死の恐怖と隣り合わせであっても、真摯で勇敢な受容の態度を崩さないでいてくれるから。できることなら誰も傷付けたくはなかった――」

 男はオフィスの中央に集められた職員たちに向けて明るい顔を見せ、

「そしてそれが、今のところうまくいっている。諸君らは英雄である。そして諸君らは、政治家どもの汚職がいくつももみ消されてきたのを知っている。この街の政治は糞だ。ふざけている。私たちはそこに刃を突き立てる」

 人質の視覚に相乗りしておいて、クロウは、無意識に情報を呼び出している。視界に半透明な暗緑色の幾何学が浮かび、複数のパスポートや身分証明書が表示された。この男は複数の偽名をこの都市で使用していた。それ自体はこの都市では暗黙のうちに容認されており、特別なことでは決してなかった。男はいくつかの職業を持ち、実際にその技能を持っていた。成績は優秀だった。戦闘用の肉体と厳しい目付き、短い金髪。端正だ。

 そしてその怒りの、無欲で純粋なこと。畏敬の念を感じつつも、それだけではない。全く、それどころではない。

「ふざけてるのは、あんたのほうだよ」

 どこか遠くで、クロウ自身が呟いた。

 ここで一時的に離脱。感覚で、スイッチを落とす。

 魂は他人の身体を離れ、自分の身体に戻る。情報収集のため五感を盗み見させてもらった現場の職員を離れ、横井ビルの対岸、居住区を多く持つビルのテラスで狙撃体勢を維持する自分に戻る。夜風が吹きすさぶ。感覚共有装置が廃熱と電圧上昇に追われてジーッといった。

 細めた目。都市で生活するためにコルク色に染めた髪。あなたは年齢よりずっと若い顔つきだからと店員はピンク色を薦めてくれたが、そんな色で砂漠を歩いていれば二十キロ先からでも狙撃されそうだ。だから、戦場で育てた動物性の純粋な恐怖ゆえに、この色を選んだ。渇いて鮮やかなコルク色。身に付けているのは簡素な白の作業着だが、上着は脱いである。

 暗闇。対岸のビルの個室を買い取り、消灯した状態で待機している。オープンテラスに腹ばいになり、五時間を過ごした。送風機の低音が耳障りで電源コードを切断してある。対テロ戦闘というのは敵が現れてからが状況開始なので、いない敵を丸三日も待ち続ける野戦とは比べものにもならないほど気楽なはずだった。しかしクロウはそれほど心安らかではない。今はあまりに厄介ごとが多過ぎる。かつての戦場では、敵と判断すれば引き金を引いてよかった。ここでは書類が通らなければ撃ってはいけないと教えられる。手元が狂う。研ぎ澄まされた至高の一発が、社会性とか経済とかいったものにどんどん貶められていく。今でも渋々この職を続けているのは、高過ぎる生存確率と給金があればこそだ。

 対物狙撃銃の市街仕様は重量のある固定脚を装備しており、取り回しは悪いが安定性に優れる。すらりと細長い砲身を含めると全長は二メートルにもなり、自動照準の固定砲のような外見だ。暗い灰色に塗った外装、滑り止めの安物黄色テープを巻き付けた砲身、そしてクロウが銃口付近にぶら下げるおまじない。クロム鍍金のカラスのチョーカー。有名ブランドの定番商品で街中ならどこにいても取り寄せられるが、そこそこ根が張り、砂漠で仲間の死体から預かったときは神様の贈り物にも思えたものだ。今でも部屋に在庫があり、新しい武器にはこれをどうにかして取り込んでいる。クロウにとって生き残ったことの、生きていることのこの上なく分かり易い証明なのだ。

 高度に機械化された肢体を補助管制システムに繋いでいるため、観測手は必要ない。一人で自動照準の固定砲台になるのだ。この規格において狙撃手であるクロウは、兵装の持ち運び、つまり砲台の移動を担当する。また砲台を守り、故障があれば迅速に整備する役目を持つ。人間という汎用機械に砲身を載せるようなものだ。では完全に機械化すればいいということになるのだが、人間なみの柔軟性、汎用性を持った機械は生きた人間一人分の命より高く付く。機械でできた人間よりは、人間にいくらか安上がりな機械を詰め込んで最適化するほうが、今のところ経済的なのだ。人間が引き金を引く時代は、もうしばらくは終わりそうにない。

 クロウは寡黙に、安物安定剤が十分な付与効果を発揮しているのを感覚している。視界は澄み渡り、闇は最も美しい色だ。言葉は少ない性格だと自負しているが、透き通る記号的な会話が延々と続くのも知っている。本当の意味で躍起になることはなく、単調に世界を描き出す。それがクロウにとっては、人間と機械との間にうまくはまるコツだった。

 高精度の投影装置により、ここに人影はないことになっている。向こう岸からはそのように見えているはずだ。ただでさえ発見されにくい場所を選んであるし、無数にあるテラスのうちの一つだ。また投影装置は複数のバラバラな位置に設置してあるため、装置特有の光学的な弱点を攻められても、どれが本題かはすぐには分からない。相手は狙撃手の存在を確信しているだろうが、位置を割り出すことはできないはずだ。代わりに、ばれればこちらも容易には生き残れない。目標を視認できる位置にいるということは、逆も全く成り立つということだからだ。

 ふっと息をつく。感覚共有で見たものをまとめる。

 他人の身体に入っていくのは得意だった。公的に許されている範囲で感覚を共有し、今まさに現場で何が起こっているのかを確かめる。北米警察機構と契約したことで、民間企業である“スター・シスター”社にもその権限が一時的に与えられていた。クロウはわきに置いた黒い箱を一瞥する。アルミ成型の立方体。中身は感覚共有のための変換機だった。そこから伸びる一本のコード。市販の絶縁テープが巻き付けてあり、管制システムの緑色の表示が映りこんでいる。

 通信を入れる。接続時のノイズ。

「ブラボーよりナイトへ。“デバッグ”はまだ実行できない」

 渇いたハスキーボイス。民間の女性狙撃手となる以前は陸軍だった。その前は運び屋だった。主に小ぶりな危険物を輸送した。現地の民間人であることを利用し、正規軍の監視をかいくぐるのが仕事だ。高純度の生体毒が入った瓶を懐に入れて、管理部隊だらけの町を歩いた。女性の権利を訴える団体は都市において強大で、かつての教会にも似ている。今や道徳が人の権利が神となり、倒すことのできない見えない力として利用されている。国際平和を謳う正規軍は、衣服の下まで正確に可視化してしまうスキャン装置を、女性に対して使用することを禁じられていた。各種ゲリラ組織は女性を使って薬品や高性能の火薬少量を密輸したのだ。ばれたことが雇い主にばれれば殺される。胸部には埋め込みの小型爆薬があった。

 可視化能力を廃したスキャン装置が二年経ってようやく実用化されたとき、女性たちは命がけの仕事を辞した。装置の実用化を知ったのは、誰かが爆発したのを噂で聞いたからだ。その爆発は検問用の機材車と、配備されていた正規軍兵士五人、検問の列に並んでいた民間人十数人を殺害した。埋め込みの火薬がいつ炸裂するとも知れずに、手には命を賭してなお乏しい財産を握りしめ、クロウもまた故郷を捨てた。火薬摘出のための手術が受けたかった。当分はそのために生きた。錆び付いた中古六輪車で空港へ向かうとき、やっとまともな仕事に就けると本気で思っていた。

 声が見た目と釣り合わなくなったのは、砂漠に長く居すぎたせいだといつも言われる。ただし目付きはもとから鋭かった。怒りを行動で表現するタイプだった。都市の市民としては忌避されるが、少なくとも激しい内戦地帯で生存の危機に直面したときは、それが生き残るための原動力になった。経歴を思えば、ここまで生きてこられたのは奇跡に思える。

「ナイトよりブラボーへ」

 ナイトが応答。

「説明しろ」

 通信装置を通しているため、ナイトの声は実際のものとは変質している。もっと芯がしっかりしているはずし、近くで聞くとついつい耳を傾けてしまう存在感があるはずなのだ。クロウは言った。

「ボスの位置は良好、ただしこれを撃ち抜けば仲間がすぐに反応する。人質が死ぬ。感覚共有によると、この対象は人望が厚く、人質たちの心すら捉えかけている、といえると思う」

「演説が得意なのか?」

「さあ、どうかしら。そっちじゃ共有はやってないの?」

 そう言いながら、固定された対物狙撃銃を握りなおし、構えなおしている。

「ヘリを近付ければ挑発と見なされ人質が死ぬ」

 ナイトが言った。こちらはあくびが出る。脳に酸素を送り込む作業だと、退役してから教わった。教官や上官の前であくびをすることは、まさしく神を冒涜するより酷いことだとされていた。眠気まなこをこするだけで殴り飛ばされるような場所だ。それは当たり前のことだと思っていた。ナイトは思いつめた声で、

「無線の共有装置は有効距離が短か過ぎる。君が主な情報源になるだろう」

 感覚共有は微妙な技術だ。未だに安定した運用は実現されておらず、有効通信距離や使用者の感じる精神的ストレスの問題が解決されていない。クロウが噛み付く。

「警察はまともにものを考えているのかしら。お得意先には、最善を尽くした、とでも言っておけば赦される業界なんでしょうね」

「いや、北米警察機構は腐っているにしても、この街の支部は骨がある。民間保安企業にこの待遇だぞ。“独自判断での殺傷を認める”ってか。これじゃおれたちがテロリストだ」

 鼻で笑い、

「それじゃ、闇市で仕入れた炸裂弾を三発ほど撃ってもいいかしら。八千の金属球が高温で飛散しフロアを全滅させる。ビルの構造は無傷だから、企業は文句を言わないわ」

「そして我が“スター・シスター”は働き口を失い世論に叩かれ、君は裁判で敗訴だな。素晴らしいプランだ」

 とナイトは大仰に言う。生徒の作文を読んだ教師のように誇らしげだ。クロウはまったく無関心に、

「素敵な話し相手がいてくれて嬉しいわ」

 望遠装置を覗き込む。光学シャッターが降りたままで、彼らが占拠しているフロア数階分が真っ黒になっている。厄介な仕様のビルだ。他の階は明かりが点いたままだが、避難は完了し誰もいない。

「とにかく今は撃てない。狙撃手が百人いれば別だろうけど。できることといったら、突撃部隊の支援ぐらいのもの」

「そのつもりで我々を雇ったんだろう。では、共有で得た情報を列挙してくれ」

「了解。やる気を失くさないでよ」

 クロウは言いたくないことを仕方なく言うことにした。

「まず、エレベータシャフトが使えない。全てのシャフトに監視が付いてる」

「透明人間なら大丈夫そうか?」

「無理ね。二つめに繋がる。レーダー類を大量に持ち込んでいるらしい、誰も近付けない。レーダーに反応が出たら人質は死ぬ。現行の警察部隊では手詰まり。お偉方も予算がないから、軍人は噛ませたがらないでしょうね」

「利権のこともある。そりゃ、絶望だな」

 ナイト――、黒塗りの輸送ヘリで指揮を執るスーツ男、ヨゼフ・ドレイクが唸る。指揮官というよりは電気製品の営業販売員だが、フットワークの軽さから民間保安業務で荒稼ぎしている。小さいものから大きいものまで、買い手を見つけて毎日のように戦闘を行った。まるでマグロの呼吸だった。照準装置の中にはさまざまな景色が映った。軽重問わぬ犯罪者、それも職種は多様だった。性犯罪者、武器の密輸業者、武装した家出少年。通り魔、たてこもり。対物狙撃銃は三千メートル先の四輪車輌、その鉄板外装を貫徹し着弾時の衝撃で円形の穴を穿つ。弾頭を選択し、件の炸裂弾を使用すれば事実、企業ビルのワンフロアを無差別破壊し制圧可能だった。そして民間保安企業とは名ばかりに戦場で傭兵と化することもある。戦場を視察に訪れる企業人や政治家の護衛任務は、まさしく保安企業でありながら現地の戦争に介入する機会だった。今やヨゼフは、天使の街経済の流行歌の一つとなった。

 状況はよくない。何せこの立場では何もできないからだ。人質がいる。それだけで、ただ標的を射殺するのとはわけが違う。これは全く別のゲームなのだ。だからクロウは、これがいつも通りのゲームになるのを待つことにした。何にせよ待つのは得意だ。

「炸裂弾、用意してあるか?」

 ナイトが切迫した調子で言った。とんだジョークだ。

「ないわよ、こんなところで使うわけないから」

「正論だ」




 煙草の匂い。ここでは喫煙が許されている。頑丈な兵員輸送車輌は、彼らにとって高級ホテルのスイートだった。扉が開けば、外には現実が待っている。最後の数分間は思い思いに過ごすべきとの大衆意見から、こんな習慣が定着した。そして膝の間には突撃銃を立てかけている。つまり突撃部隊だ。この重たい金属製のお守りの心強いことといったら。まともに当てれば必ず助かり、まともに当たれば必ず死ぬ。簡素過ぎる。部隊長を務める若い女性の口元に微笑みが浮かぶ。

 兵員輸送車が減速を始めた。やがて停車し、重たい音を立てて乗降口が開く。部隊長、ローズ・スウィフトは先に立って降りる。素早く仲間が続いた。まるで全体で一つの生き物。まさしくそのように訓練された組織だった。リアルタイムの情報共有と、戦術管制コンピュータによる統制された動き。一人が何かを狙えば、残りの人間はそれ以外の的を狙うように識閾下で指示を受ける。戦士たちは自然と的が被ることを回避でき、効率的な攻撃が行える。相手が機械なら、有効な急所を複数の隊員が分担して攻撃することもできる。埋め込みの受信機と識閾下への変換機とがあればこそだった。

 閉鎖された大通りにはランプを消した真っ白な警察車輌が数台、ばらばらに停まっている。それから大電力照明装置を搭載したトラック三台と、六脚戦闘車輌が二機。けが人を保護し応急処置を行うための救急車は三台。民間のもので、黄色や黒といった自由な配色だ。そして避難した民間人を運ぶために用意したであろう大容量の旅客バスが二台。うち一台は発車を控えている。

 この場そのものが、ローズたち特殊部隊、北米警察機構、対テロ科の到着を待っていたのだ。

 現場に先に到着していた担当官が歩み寄り、名刺を見せてくれた。古風なトレンチコート。聡明だが白過ぎる顔。まだ若いだろうが、無精ひげを生やし、四十台初期といった風情だ。フリイ警部。その名を覚えた。

 ローズは黒の戦闘服を着ている。隊員共通のもので、高機能繊維の内側には、各急所を守るための炭素防弾プレートが仕込んである。その下には身体にぴったりとフィットするインナースーツを着用しており、運動の精度を高め、負傷を探知して止血のための圧迫を自動で行う。全身が真っ黒なので、ローズのブロンド髪は目立った。

 フリイが言った。予想通り渋い声だった。

「エレベータシャフトが使えないとなると、侵入は不可能。向こうは対人レーダーも持っていて透明人間もだめだ。人質を取られた時点で手詰まりだな」

 彼は極高層ビルを見上げながら、星座でも見るように、くわえた煙草の煙を吐いた。ローズは顔色は変えないがあからさまに同調して、

「それじゃ、政治家の方々には汚職で稼いだ金を身代金に回してもらいましょうか」

「何者かがテロリストに情報を流したんだ。そして装備も与えてる。傀儡テロとでも呼ぶか? 本当の相手は企業か、個人の資産家である可能性が高い」

「それで分かるのは、テロリストが持っている情報で不利になる政治家は白ということだけ」

 フリイは何を言っているんだとばかりに目を丸くしてみせ、

「それだけでもありがたい。いまどき白の政治家なんていないからな」

「死にたくなる冗談はよせ」

 と、別の男が口を挟む。名刺を開く。通信用のマイクをスーツの襟に付けている。太り気味だが素早そうな男で、西部劇の保安官か何かだった。黒人で、浅黒い肌をしている。

「ウォーカーだ」

「よろしく」

 とフリイは手を差し出す。

「フリイだ。民間保安企業“スター・シスター”との契約を担当した」

「外注担当官か。私は“ただの”地元警察官」

 その自虐的なジョークを好意的に受け止めたらしく、フリイはあたりを見回す。

「素晴らしい。いいパトカーだ」

「安物だよ」

「それで、この最悪な状況をどうにかできるのかい、お嬢さん」

 フリイが振り返る。ローズは眉をひそめる。ウォーカーが口を開き、

「ローズ・スウィフトか。悪名高きゲイル軍団の最精鋭」

「それは褒め言葉でしょうか?」

 ついつい力を込めた。まじめ腐った口調。訓練時代には、教官に害虫以下の不幸で哀れな存在と怒鳴られ、張り倒され、絞られた。陸軍歩兵はみんなそうだった。二百年にも渡ってそんな教育が行われてきたのだ。自分が遺伝子レベルで劣り、さっさと除隊したほうが国家の安全と繁栄のためになるだろうと耳元でわめかれているとき、少年兵たちは負けじと声を張り上げこう言った。“素晴らしいご助言に感謝します、軍曹どの”。前線ではそれが主な笑い話になった。自分の教官がどれほどきつかったのか、自分たちの教官がどれほど共通した点を持っていたのか。

 冗談とはいえ皮肉を言われると、今でもこんな反応をしてしまう。

 ウォーカーはきょとんとしてから笑い出し、

「さすがに陸軍上がりだ。素晴らしいセンスだ。とにかく、私は君らを心から尊敬している。そのことは知っておいてくれ」

「了解」

 ウォーカーと一緒にフリイまで笑い出す。しかし笑い話ではなかった。高度な装備を持った突撃部隊が、手も足も出ないのだから。

 笑いながら、

「今まさに、本部でこういう議題が上がっている。決定には三分かかる」

 いくぶんまじめさを取り戻した顔つきで、フリイが言った。

「シスター社および対テロ科突撃部隊を待機させたまま、別の保安企業に現場を委譲。前二者にはその後衛に回ってもらう」

「別の保安企業?」

 ローズがたずねる。

「民間保安企業、“ルーツ”。公開管理者のコードネームはヴィオラヘッド。ブラックボックス技術を複数所持しホワイトハウスに顔が利く。今最もホットな、噂の侍集団さ」

「侍にテロの対処をさせるのか?」

 信じられない、といった口調でウォーカーが聞いた。

「信じられない」

 フリイは肩をすくめる。

「侍が無敵の犯罪者だった時代は終わった。彼らは軍団を組織し、効率的に利益を求める企業へと姿を変えた。少なくとも、ルーツはな。そりゃあ、精霊信仰で荒稼ぎするやつらもいれば、手の付けられない殺し屋集団もあるが」

 フリイの影になった白い頬には古い切り傷があった。目を細めビルを見上げ、

「複雑な時代になったもんよ」




 まことに美しい。

 光学シャッターを下ろした耐圧ガラス張りのビル外壁。黒いガラス窓は鏡となり、そこに映るのは地上に対してまっさかさまの水蓮の姿だった。水蓮の側から見ればむしろ世界が正反対で、巨大な地上という名の天井から全ての建造物がつららのように無限の虚空へと落ちかかっている、と見えるのだけれど。このおかしな画も簡単なことだ。直径二ミリメートルのべっ甲柄工業ワイヤで、外壁の非常用除圧扉のバルブに宙吊りになっている。支点からのワイヤ長さ約二十メートル。ワイヤの先端にはトライアングル型の金属が括り付けられており、それを掴んでぶら下がることができる。逆さ吊りの水蓮は、ワイヤを片足で壁に押さえつけ、強靭な人工筋肉によって奇妙なバランスを保っている。水蓮は死んだ蜘蛛のよう、壊れた人形を、乱暴にも宙吊りにしているよう。鏡の中では、重力のために髪がことごとく逆立っている。普段は金色の前髪に半ばは隠れる額も見えていた。

 そして“幻”を確認。鏡の中で水蓮が瞬いた。消える、映る。それから消える、映る。壊れかかったネオン広告のよう。夜に灯る古びた光学機械。

 消え、映る。

「時間だ。当該地点への到達を確認、しばし待て」

 ケルンからの通信。

 予感がある。いつも本番前はこんな感じがしている。自分はとてもいいものを作り上げることができて、それを今からやるのだ、という感覚だ。期待と自信。まことに美しい。

 水蓮はケルンの通信が切れるのを合図に、口に出して数えた。子供のころの歌を、歌うように数えた。

 ご、よん、さん、にい――。

 笑む。

「ゴー」

 消える。

 次の瞬間、水蓮が室内に現れた。黒塗りの窓の内側。“場”の力でふわりと一回転し、自然の重力を弱めた力によって無音の着地。あたりを見回した。テロリストたちを見つける。それは一瞬のことだった。時間は三十秒ある。

 ジンが鳴き出し、今や時計は静止し、水蓮には世界が止まって見える。

 水蓮は着地したままの姿で、腰の高さに柔らかに両手を挙げていた。無造作に握りかけた手指は、まるで祭りの帰りに、小さな段差を飛び越える少女のよう。川沿いの飛び石、蛍の揺れる景色。歩きにくい白装束では、ついついバランスを取ろうとして肘を曲げてしまう、というように。

 人質二百人。広大なオフィスは平坦で、同じ仕様の白塗りデスクがずらりと並べられていた。しかしフロアの西側に休憩スペースとも呼べるような、木製のベンチとプラズマ駆動のテレビばかりが置かれたスペースがあった。水蓮は東の端から、そのスペースをじっと見つめる。 すぐ背後には、外を見守るテロリストがいる。ついさっきまで向き合っていたというのに、録音された景色を見せられていたために気付かなかったのだろう。エリアスの情報的なかく乱は成功しているらしい。彼もまた戦闘員だ。どこか別の政府の特殊部隊の服をそのまま着ている。安上がりなプラスチック成型の突撃銃を携えて、物憂げに景色を見ている。自分が今やっていること、そこに至るまでに歩いた道を、これから歩いていく道を想うのだろう。

 時計が動き出す。

「ちょいと、邪魔するぜ」

 水蓮が小さな声で言った。静けさの中、透き通った。

 秒針が一秒を刻んだ。

 その不自然な声に、戦闘員の精悍な呼吸が止まり、こちらを振り返ろうとしていた。

 音もない。

 意識を失った戦闘員が、崩れ落ちる。再び水蓮が消える。

 十五メートル先で、一瞬の点滅。二百人の人質を取り囲む五人の戦闘員。それらが、一秒で完了する不可視の円周運動に沿って震え、折れ、順番に倒れる。その音が響いたとき、演説を終えて側近と会話していたボス級の顔面を、何かが殴打。不可視の拳だった。そして彼が空中に浮かび上がる中、音を聞き付けた側近が拳銃を抜きかけているが、即座に後ろ向きに反れてダウン。ボス級の頭部に駄目押しの一撃。長期に渡り意識を奪う。人質の安全を確保。

 二つの身体が倒れた。水蓮がそこで点滅している。振り返ろうとする。少し離れていた三人組がそれに気付き、突撃銃を掲げた。戦闘服を着た精悍な男たちは、あくまで冷静に銃を構える。音が発生してから一瞬のことだった。

 そして静かな発砲、全弾命中。美しい狩猟民族の射撃。だが、弾丸は水蓮の幻影を切り裂いたに過ぎず、穴の開いた投影が乱雑に歪み、明滅。その映像の中でノイズだらけの水蓮が首をかしげる。少女が、少年たちの遊びに興味を持つ。そして、何をやっているの、そう問いかけるように。黒いマスクを外したままのテロリストたちは、目を見張った。あれは本物ではない。

 その三人もまたふわりと浮き、倒れ込んだ。

 その場に水蓮が現れる。輪郭がはっきりせず、処理が追い付かない。映像の数箇所に長方形の白や黒が残ったが、高速で震え、順番に消えていく。ようやく本物らしくなった水蓮が、倒れた三人の戦士を見下ろした。

「いい腕だ。企業向きだよ」

 すっと顔を上げ、人質を見る。職員たちだった。よく整った聡明な服装の二百人。ただ運の悪い二百人。ようやく戦闘員たちが倒れたのに気付いたようだ。驚くでもなく脅えるでもなく、そもそも何が起こったのか、見極めようとしている。ちゃんと理解しなければうかつに何もできないほど危険な状況にあったのだ。彼らは驚いたり脅えたりすることにすら、張り詰めた警戒を抱くだろう。

 ケルンが割り込み、

「五秒かかったな。時間がないが買い物に行く余裕はありそうか?」

「夜景に夢中でね」

 自分がもと来たほうへ歩き出しながら、

「このビルなら、地上階にちょっとした土産物屋がありそうだね。何が欲しい……」

 窓に水蓮が映る。“幻”を使用し過ぎると、消えた映像とともに本物の自分も消えてしまうのではないか、そういう思いに囚われることもあった。だから鏡や夜の窓は頼もしい。自分がちゃんといると分かるからだ。

「ところで、二人が指定の階層に到着。工業ワイヤだ」

「“跳躍”は使えない。中に入れるのかい……」

「しーっ、耳を澄ましな」

 ケルンがそう言うので、空調だけの静寂に耳を澄まそうとした、その瞬間だった。おもむろに上と下の階で同時の爆発が起こった。しかも数箇所だ。意識を集中するまでもない派手な爆音だった。疎ましそうな顔をしながら、

「なるほど、どこから来るのか分からないわけだ」

「妙案だろ?」

「さあねえ」

 何かが起こる。それは水蓮にも分かっている。どこか浮き足立って、楽しげに微笑みをこぼす。




 突然訪れた八方からの爆風にテロリストはおののく。突撃銃が照準用の赤いレーザを点灯する。

 しかし何も映らない。人質がいない分、ここは乱戦となる恐れがある。対人レーダーに頼った戦略だった。外からは誰も近付けない代わりに、内側からの攻撃には純粋な戦闘しか対処法がない。そしてもちろん、内側からの攻撃などあるはずもなかった。

 しかし今、壮絶なパルス爆弾の使用により複数箇所の耐圧ガラスが内向きに吹き飛び、戦闘員たちは動揺した。無理もない。レーダーの反応を各隊員が即座に参照するシステムはなかった。敵がどこにいるのか分からない。そして二階下の戦術室からは何の情報ももたらされなかった。そのフロアも攻撃を受けている、ということ以外は。

 オフィスは荒れ、黒い戦闘員たちは気を引き締めた。

 と、何かが点滅する。

 黒い革のジャケットに、体格に似合わず小ぶりなサブマシンガンを両手に持つ男だった。背後から流入する怒涛、吹き付ける風にジャケットと短い髪を揺らしながら、男は状況を即座に飲み込む。それはもののコンマ数秒の映像だったが、誰にも視認されないまま、消える。

 直後、素早い発砲が行われ、戦闘員が次々と倒れた。同士討ちを恐れ、当てずっぽうな射撃は行われなかった。そのおかげで大量の爆発物、地上を狙うロケット砲や化学爆薬も起爆しなかった。ガラス片や暴風に舞い散った書類たちが跳ね上がり、目に見えぬ何者かの所在を知らせた。だが数秒後には、無意味に命を奪われないまでも、全ての隊員が再起不能な傷を負って倒れている。

 一方、人質がいるフロアの下の階、戦術室では、レーダー担当官が機材の不調を嘆いた。何も映らない。

 三つの階層でほぼ同時に、何者かの攻撃を受けているというのに。

 黒いカラスの群れが舞い込んでいた。機械仕掛けの鳥獣。鳴かず、ただ鋭い羽音を響かせる猛禽の襲来。まるで爆撃機だった。その翼を最大に開くと、カラスとはいえ恐怖に値するほど大きかった。絶望の黒い景色を見上げながら、隊員たちは発砲する。カラスは次々と墜落したが、なだれこむ数のほうが多い。そしてまたこのフロアにも、姿の見えない何者かが人知れず入り込んだ。黒の羽根が舞い散り、盛大な吹雪となる。

「ああ、耳が痛い。痛い……」

 微熱に苛まれながらも長い距離を歩かねばならない、そんな調子で獣使いは呟いた。歩きながら、“幻”を切る。これが使えるせいで、水蓮やヴィッキイとはよく一緒に出動した。今にも倒れそうな気分だった。黒いフード付きのマントを着て、頭を隠している。揺れる銀色の髪と、白い頬や鼻、その横顔がのぞいた。

 獣使いの意思で、カラスたちは攻撃をやめた。敵は全滅だった。機械化された肉体は破壊され、カラスの爪に仕込んだ麻酔針で隊員たちは深い眠りに落ちた。三時間は目を覚まさないだろうという強烈な薬だ。それから、目を覚ましたときにはきっと酷い気分になっていることだろう。

 獣使いのわきから二羽の白い鷹が現れる。不自然な彩色。白く流れる体毛、勇敢で誇り高い出で立ち。京都製。

 それらがちょこちょこと跳びながら近寄っていくのは、レーダーシステムを満載したラックだった。四輪付きの移動可能なラックモジュールだ。同規格の筐体が、積み上げた書物のように金属製のフレームに固定されている。

「電源供給ラックを破壊、他は残していい」

 鷹は物言わず、行動を開始する。獣使いはフードの下で鼻をすする。




 水蓮が長いオフィスを横切り窓の前に辿り着いたとき、二人の通信が入った。立ち止まる。

「シエラ、フロアを制圧」

 と、獣使い。けだるそうで心底不幸な仕事をやらされている、という声。この調子だと、彼女にしてはとても健康的で元気な部類に入るだろう。銀髪の日陰女。一方、

「ヴィッキイ、フロアを制圧」

 とヴィッキイ。野太く、大きい兵員輸送車輌が喋っているみたいな声。戦闘用の強化肢体と、黒のサングラス。彼は続け、

「こちらのフロアには大量のロケット弾と爆薬。テロ向きじゃねえよ。そっちはどうだ?」

「こっちは待機所、および戦術室。電子装備も全てこっち。電源は切断した。爆発物の処理に向かう」

 と、何かが地上階で轟く。ケルンが入り、

「いや、今しがた突撃部隊がシャフトに入った。後始末を買って出てくれたようだ」

「それじゃあ、退避しようか……」

 とシエラ。ヴィッキイが重たく頷き、

「そうだな。ケルン、合図したらワイヤを引き上げてくれ」

「了解。水蓮は独自の経路で」

「おうよ」

 目の前の鏡に映る自分を見つめる。思うところがあった。二人がワイヤに掴まり引き上げられたあと、録画の景色が消えた。ケルンとエリアスの三十秒限りのハッキングは終了しており、さまざまな電子的処置が停止したのだ。そして窓の外には本当の天使の街が映った。遠く、いくつもの高層ビル群の向こうに、街の象徴である塔が突き立っている。絶望的なまでに空の少ない街だった。

 シャフトを専用の装置で猛然と昇ってくる部隊。その到着が近い。大切な人が来る、そんな予感があった。




「何てことかしら」

 脅威が消えてもまだ不安を隠せないらしい事務員との感覚共有を切り、こちらの肉体に戻る。

「ブラボーよりナイトへ。三つのフロアで数秒間に渡る戦闘が行われた」

「結果は君の口から言わせたくないな」

 ヨゼフ・ドレイクが再び唸った。

「民間保安企業、“ヴィオラヘッド”だ。これが、おれたちの同業者だと……」

 聞き慣れない名前だった。明るくなった窓を照準器越しに見ている。クロウは告げる。

「オール・クリア。“デバッグ”の終了を宣言する」

「クリアだって?」

 ヨゼフが、抑えたままで言う。

「通達が来た。“現場は掌握した、後片付けを頼む”だと。我らが“スター・シスター”の名折れだな」

「その後片付けは北米警察機構がやるんでしょう。つまり、私たちは離脱。給金は出るのかしら」

「給金は出る。別途の成功報酬も支払われるだろう」

 落ち着きを何とか取り戻した声で、

「ナイトよりブラボーへ、“デバッグ”終了を確認。指定の経路で帰投しろ」

 と、ヘリの轟音が近付く。聞きなれた音だ。素早く機材を片付け終えるのに数秒ほど掛かる。いつもはこの時間が好きだった。素晴らしい満足感と、仲間たちのもとへ帰れるという安堵感。至高の数秒間。しかし今日は違う。ただ呼ばれ、五時間に渡って他人の感覚を覗いていたに過ぎない。やがて目の前で誰かが、ものの数秒間で大掛かりな仕事を片付けるのを見せられ、自分など取るに足りない存在だと知ったに過ぎない。あるいは悲しいとしたら、それは自分の無力についてではないかもしれない。仲間の無力、信頼しお互いに命を預けあった人々の敗北が悲しいのかもしれない。

 一つの長大なジュラルミンケースを持ってクロウが立ち上がったとき、オープンテラスの前を、大型輸送ヘリが水平に横切った。悪魔のホバリング飛行。突撃部隊か、ロケット掃射か。生身で渡り歩く戦場において、この真っ黒な怪物の頼もしいことといったら。見ればコクピットはこちらを向いており、まるで今から、こちらが攻撃を受けるかのように思えた。前後のローターが都市の湿った夜を貪欲に切り込み、黒塗りの無生物は周回する。それはクロウの上空に浮かび、梯子を降ろす。暴風が吹き付けるなか、クロウは近付き、それを掴む。目を細め見上げる先で、ヨゼフ・ドレイクのスーツもまた激しくはためいていた。厳しさを隠したように冷たい顔つきだ。

「ナイトよりブラボー、視認。回収する」

 クロウは轟音の中、自分にも聞こえぬほどの声で応えた。通信は切れている。誰もが力を込め、熱を込めて発する言葉。

「ブラボー、了解。作戦の終了を祝福したい」

 今はそれが、懸命さを上回って空しい言葉だった。




 散弾銃がエレベータのドアを粉砕。隊員たちがいっせいに駆け込む。五人で一チーム。それが三チーム、まず飛び込む。後衛二チームは軽機関銃を素早く設置。複数の足音。その力強さや、重装備と鍛えられた肉体の重量を感じさせない、落ち着きがあり静かな足音。それらが無数のノイズのようになだれこむ。人質を発見。そして倒れた戦闘員たちに走り寄る。警察が貸し出した手錠を素早く掛ける。ローズは一人に近付き、その負傷具合を見た。近くに別の隊員が待機する。防弾メットのバイザを持ち上げ、こちらを見守っている。

 ローズはしゃがみこみ、気絶した戦闘員の身体の各部位を調べる。

 そしてすぐに分かった。

「負傷はない」

 かたわらの隊員は頷き、

「何らかの特殊な体術でしょう。負傷を与えず体内の一部の機能を阻害したり、あるいは完全に破壊することは不可能ではない。それをこの人数分、ものの数秒でやりとげるとなると酷でしょうが」

「酷なんてもんじゃない、不可能なことよ。上下のフロアでも同じ?」

 ローズは立ち上がる。何者か、絶大で鋭い力を携えた何者かが、このビルを通った。何もできなかった自分たちとは違って、たったの数秒で仕事を片付けた。完璧だった。

 二百人の不運な人質のみならず、脅威であるはずのテロリストにも負傷はなかった。通信を聞いた隊員が言う。

「どうやら使用した兵装は全く異なるもののようです。上のフロアではサブマシンガン、下フロアでは使役型の無人兵器だそうです」

「なるほど」

 二人のチーム代表への通信で、

「テロリストから抵抗力を奪い、すみやかに搬送」

「了解」

 と二人。その二人も、すぐにチーム全員にこれを知らせた。使い捨ての簡易注射器によって、強力な睡眠薬を投与している。あちこちで無力化した戦闘員が担ぎ出される。

「さて」

 通信を切ったまま呟く。

「とんだ赤恥ね。何もできないまま、ここまで完全に仕事を奪われてしまった」

「そいつは、どうかな」

 と、声。

「あんたはあんたの領分、あたしらは、あたしらの領分。こういうのは得意だけど、そのへんのチンピラが女を襲っただとかってことには、関わっちゃいられないんでね。あんたのそれを恥というなら……」

 声は困った笑いを含み、

「あたしらだって、救えないものは多過ぎる。まさに生き恥だ」

 この声は脳のあるチャンネルを無理に奪い取ったようで、そこにいないのに、まるでそこにいる、という風に聞こえる。女の声だった。凛と高く、だが耳が痛いほどでもない。呼吸すら感じ取れる。落ち着き、どこか楽しげな呼吸。ローズは動揺を抑え、あくまで声に耳を傾けた。そして問う。

「何者なの?」

「どうしたんですか?」

 隊員が言う。構わない。

「あなたは“ルーツ”の職員なの?」

「そうだよ。東の窓を見な」

 ローズは鋭い目を、東の窓に向ける。天使の街、その殺伐とした夜景が見える。そこに何かがきらめいた。

 反射的に銃口を挙げる。機械化されたような手つき。一瞬のうちに照準、しかし撃てない。見知らぬ女がいた。

 走る。一瞬で最高速度に乗るが、照準は合わせたまま。

 女は窓の外に、足場もないのに立っていた。その髪は風で豊かになびいており、無色の幾何学模様がその映像に点滅している。黄金の長い髪、白装束。年齢はローズよりいくつも下だろうに、その出で立ちのせいかずっと大人びても見える。明度が落ち着かず、少し暗く淡くなったり、眩しく輝いているように見える。まるで壊れかけの投影装置だ。腰に刀を差している。侍だ。

「待って、聞きたいことが――」

 制動をかけ、停止する。思わずそう言っていた。しかし女は微笑交じりに首を傾げて、

「ないよ。あんたはちょいと悔しかっただけだ」

 少しだけ切れ長の目。いや、本当はとても目が大きいのだろうが、上下のまつげを黒く縁取っているためにそう見えるのだ。雪化粧のように白い肌、青空の色の瞳。明滅、消える。また現れる。それを時おり繰り返す。

「また会える。あんたはどのみち忙しくなるよ」

 映像はそのままに、声が途絶えた。

 ローズは立ち止まる。捉えようのない幽霊だった。何もできない、という感覚がいっそう強まった。この女に私は何もすることができない。しばしの会話をすることも許されない。

 銃を降ろす。

 窓の外に壊れかけ投影の女が再び現れる。体重を支えるものは何もない。幾何学の点滅。直線や、何箇所かの歪みが消えない。

 女は笑った。これから起こる何か大掛かりなことを、一緒に楽しもうとでも言っているかのようだった。とても危険なことや、どぎついことが待っているかもしれない。しかしそれに負けるつもりはない。そういう獰猛な笑みだった。街場の闘士が、高いレートの試合に勇むよう。湧き上がる観客に、自分の勝利を約束するときのよう。

 厳しい面持ちでそれをただ見つめるしかない。

 そして女は目を伏せる。長いまつ毛が、空色の瞳にかかった。はためく布地、白装束の女。

 消えた。

 ばたばたと足音がして、仲間が歩み寄る。誰にもあの女が見えてはいなかった。そして光学処理の残滓も全て消えた。

 はっと我に返り、夜景を見る。都市の象徴、静止軌道吊り下げの塔。月明かり。無数の墓標。極高層ビル群。ホロ広告の原色。窓には薄っすらと自分自身が映ったままだった。その表情には読み取れないが、胸には敗北が刻まれていた。

KikiとCarp'nに贈る。

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