後部座席の夜
幽霊がいないことを証明しようと息巻く男とその意見に反論する男、そしてふたりを乗せた車を運転する女。
自動車が心霊スポットに近づくにつれ、車内に異変が起こる――。
「幽霊なんかいないってことを、あの有名な心霊スポットで証明したいと思うんだ」
同乗者二名の反応をうかがいつつ、俺はいった。
「だいたい、幽霊なんて科学的にありえないだろ。見間違いか、そうでなければ目立ちたがりのデタラメ以外の何者でもないわけで、なのにわざわざ証明しなければならないということ自体、俺にはバカバカしくってしかたがないぐらいだね」
「いやあ、そんな決めつけはよろしくないでしょう。まず、幽霊がでたらめか否かについての君の見解がただしいかどうかはさておいて」
さっそく、よこから反論がかえってきた。俺の右隣の座席、すなわち運転席の真後ろにすわる男。どうやらこいつは、幽霊の存在について肯定的であるらしい。
「だってさ、そのむかし、ガリレオ・ガリレイは天動説全盛の時代に地動説を唱えて、ひどく排斥されたというじゃないか。君の意見を聞いていると、ガリレイをやっつけた人たちに一脈通じるものが感じられるんだよ。異端は許せない偏狭さなんかがとくに」
ものは言いようというやつだ。疑うべきを疑うのは偏狭とはちがう。
それならとばかり、俺は斜めまえの席で車を運転している女に、あらためて話をふってみることにした。
「なあ、さっきから黙ってるけど、あんたはどう思う?」
「うーん……?」
ところが、生返事で流されてしまった。
こんなごくふつうの乗用車で、よもやバスの運転手のように、運転中に声をかけないで、ということでもないだろう。つまりは、すっとぼけか。俺の隣の男と同意見だということを、態度で暗に示しているわけだ。
やれやれ、まったく嘆かわしいね。
「もうすぐ心霊スポットかぁ」
返事の代わりのつもりなのか、つぶやくように運転席の女がいった。
ああ、そうだ。心霊スポットである。ここでどれだけ口先の言いあいをしようが、そこに到着して何事もなければ、自動的に俺のただしさが証明されるのである。
「じきにわかるよ、ただしいのはどちらか」
ニヤニヤと笑いながら、隣の男がいった。けっ、そいつは俺のセリフだぜ。
○○県□□市の××峠に位置する心霊スポット。ごくありふれた道路トンネルである。ただ、ちょうど下り坂の終点、しかもカーブの曲りばなに位置しているため、そこいらの場所よりかは事故が多い。
もっとも、それはあくまで自分の力量をわきまえないドライバーがスピードを出しすぎるためであって、幽霊のしわざでは断じてないわけだが。
いわゆる、幽霊に遭遇したが生き延びたと称する人間のなかには、白い人影を見ただとか、だれかの声が頭で響くように聞こえてきただとか、そういったたぐいの意味不明な供述をくりかえす者もいる。言うまでもなく、そんなのはデタラメ、さもなくば危険ドラッグでも吸引して、幻覚を見たかのどちらかに決まっているのである。
「ねえ、もうちょっとスピードを出しなよ。こんなペースじゃ、あしたになっちゃうよ」
隣の席の男が、よけいなことを言った。
「そう、そうね……。スピード、出しちゃおうかな」
女が同調しやがった。おいおい、なに考えてるんだ。
車は安全運転に限る。俺は以前、自動車事故に遭遇してからというもの、そのことを肝に命じているのである。
当然、俺は断固とした口調で、ふたりに『危ないからスピードを落とすように』と告げた。
「このぐらい、大丈夫だって。心配性だなあ、彼女を信じなよ」
「大丈夫、だいじょうぶだよね。ふふ、ふふふ」
いったい、その自信はどこから来ているのか。事故の恐怖が身にしみている俺としては、正直、不安で恐ろしくてしかたがない。
せっかくの忠告がスルーされたことに不貞腐れたのもあって、俺はふんとばかり、鼻を鳴らして視線を窓のそとに移した。暗闇のなかで、風景がびゅんびゅんとうしろに吹っ飛んでいくのが見え……る?
あれっ。
えっ、なんだこれ。
もしかして、制限速度無視どころか高速道路レベルの速さを余裕で超えているんじゃないだろうか。事故の恐怖とか心配性とか関係なしに、スピードが出すぎている気がするぞ。
いぶかしく思い、俺は再度スピードを落とせと警告しようとして、ふたりを見た。
瞬間、背筋が凍りついた。
前部座席右側の、座席とドアのすきま。その空間から、隣の男が首をのばすようにして顔を運転席の女に近づけている。そうして『もっとスピードをあげろ、もっともっと速く、大丈夫だから』とひたすらにささやき続けているのだ。
あわてて、俺も前部座席のまんなかのすきまから顔を出した。ほんとうの戦慄に襲われたのは、そのときだった。
運転中の女が小声でなにか、ぶつぶつと呟きながら、アクセルをぐいぐいと踏みつけていたのである。白目のような焦点の定まらない目つきで、恍惚とした笑みを浮かべていた。
いま、なにが起きているのか。まったく理解が追いつかないでいた。
ふたりして、自動車事故にトラウマのある俺をからかっているのだろうか。だが、こんな命がけのからかいかたがあるものだろうか。
思考がとりとめなく、頭のなかをぐるぐると駆け巡っていく。やがて、俺はあまりのスピードに触発されて、これまでずっと具体的には考えないようにしていた、まえに事故にあったときのできごとを思い出しはじめた。
あの夜も、こんな暗い道路だった。運転していた男は、助手席にいた俺の制止を振りきって凶暴なスピードで走りつづけた。そう、いま隣に座っているこの男――。
ガタンッ。
おおきく車体がゆれて、回想にひたることも許されなくなった。隣の席の男はあいかわらず狂ったように囁きつづけ、運転席の女は白痴にでもなったように、ヘラヘラと笑いながら口角から唾液を垂らしはじめている。
「やめろ、スピードを落としてくれ! おい、あんた。えっと……ええと?」
なかば哀願するように運転席の女を呼ぼうとして、俺はようやくその恐ろしい事実に気づき、愕然とした。
だれだ、この女は。俺はこの女の名前をしらない。
異常きわまりない疑問。俺が答えを手に入れるまえに、車は心霊スポットのトンネルへ――その外周の壁へと吸い寄せられていった。
× × × × ×
「やはりですか、先生」
眼鏡をかけたロングコートの青年が敬語で話しかけたのは、かたわらにたたずむ少女だった。
青年は、有名な心霊雑誌のライターである。少女は高校の制服を身に着けており、小柄な体つきに肩までの髪という、どこにでもいそうな見た目をしていた。
すくなくとも、外見から彼女が名うての霊能者だと気づくものはいないだろう。
暴走車両によるありふれた単独事故。すでにあの女ドライバーの事故は警察からはそう処理されており、くだんのトンネル付近にはふたりのほかには人影もない。
「ええ。生きているものへの嫉妬――そういった種類の怨念がだいぶ強いみたいですね」
頭痛でもするのか、少女がこめかみを押さえた。
「でも、もうひとりの男性の霊。このかたがいなかったら、おそらく死亡者数は何倍にも膨れあがっていたでしょう。実際、彼の声によって正気を取り戻した事例もあるようですし」
ため息をついた。
「ただ、悪霊のほうと違い、このかたはご自分が亡くなっていることに気づいていない様子です」
ライターが、穏やかな物腰で自身の顎をなでた。無精髭のひとつもない端正な表情を憐憫にゆがめた。
「皮肉なものですね。幽霊が存在しないことを証明するために心霊スポットにおもむき、事故死したあげくに、自分たちがそこで最も語られる幽霊になってしまっただなんて」
人差し指と中指で、軽く眼鏡を直した
「祓えそうですか?」
申し訳なさそうに、少女が首をよこに振った。それから渋い顔をしてつけ加えた。
「負け惜しみではないですけど、そもそも人間がどうにかできるレベルじゃないですよ、アレは」
「では、祟られないうちに逃げましょうか。来たときとおなじように、僕の自転車でね」
苦笑をうかべて、ライターが言った。
その心霊スポットでは、いまも自動車事故が起こりつづけている。
大昔に書いた作品が押入れの奥から発掘されたので手直ししてみました。