一人称へのこだわり「彼、いま良いこと言ったよね?」
オレはモノを書くとき、ほぼ一人称を使っている。悲しいかな、ほぼ主観でしか物事をとらえられない人間の性であり、オレにとって自然なスタイルでもある。
三人称を使うことは、この先一〇年はリアルにないと思う。登場人物が五〇人以上登場する大長編でも書かないかぎり。
いや、そういった大長編でも、一人称で書かれた作品は世にたくさんある。推理小説なんかがそうだ。
まあ、さすがに全編一人称というのはツラいかもしれないが、ところどころ三人称を使いつつ、クライマックスは一人称でという書かれ方も定番だ。
やっぱり最期はオレかアタシが出ないとね!
オレが一人称にこだわる理由は、もうひとつある。謎の提示がラクなのだ。
なにしろ、読者は主人公であるオレまたはアタシの視点からしか情報を得ることができない。「オレ」の知らないことは読者も知りようがない。我思うゆえに我あり。お前のものはオレのもの、はちょっと違う。
だから主人公にいろんな疑問を持たせることで、またその心情を吐露させることで容易に謎の提示ができ、なおかつ頁数も稼げてしまう。オレはいま、自らの手の内を吐露している……。
三人称ド素人のオレが言うのもおこがましいが、その道のプロといえば、間違いなく永ちゃんこと矢沢永吉氏だろう。彼が自分のことをしばしば「ヤザワ」と呼ぶのは、あまりに有名なエピソードである。
永ちゃんは興が乗ってくると、
「彼、いま良いこと言ったよね?」
と自分を三人称の代名詞で呼んだりする。もはや神レベルだ。
でも考えてみれば、あらゆる三人称は、じつは一人称なのかもしれない。
たとえば、こんな例はどうだろう。
(カツオはそのとき思った。絶対に負けられない、と。)
これはいわゆる三人称の神様視点というやつだ。カツオの心情を神様が代弁してくれている。さあ、これをヤザワに置き換えてみよう。
(ヤザワはそのとき思った。絶対に負けられない、と。)
ね? 矢沢がそう思った、というのと一緒でしょう? だから大局的に見れば、どんな三人称も一人称になるのである。
今日の授業はこれまで!
レッチリのギタリストであるジョン・フルシアンテが、かつて雑誌のインタビューでこんなことを言っていた。
「6/8拍子も5/4拍子も、すごく大きな譜割りで考えたら、ぜんぶ4/4拍子になるのさ」
オレが言いたかったのは、たぶん、これと同じことだ。違うか(笑)




