2.聖と俗
2 2012/11/26
聖と俗、について考えてみた。
あまり馴染みのないテーマだと思う。骨の髄まで俗っぽい人間も、なかなか自分が俗だとは考えないものだ。
聖はもっと馴染みがない。宗教的なもの、くらいのイメージしかない。それで充分だ。突っ込んだ話をするつもりはない。
ウチの親父は写真が好きだ。最近はしていないようだが、もっとも熱中していたころには、写真雑誌(○○カメラ、とかいうやつ)などにも作品を投稿していた。大きな賞ではないが、佳作に選ばれたこともある。
写真にかぎらずとも、自分の作品が認められるのは嬉しいものだ。俄然創作意欲が湧いてくる。親父は得意気だった。
写真のネタが家の内より外に多く転がっているだろうことは、素人のオレにもわかる。親父はカメラを持ってネタを探しに出かけた。
その日、親父はちょっと危ない目に遭ったらしい。被写体に問題があった。なにをトチ狂ったか、街で立っている僧侶(もどき?)を撮ろうとしたそうだ。
その僧侶は、親父に掴みかからんばかりだったという。明らかに親父の撮影行為に不快感を示したのだ。
その僧侶が本物か、もどきか、判断することはできない。お布施目当ての「もどき」である可能性は、たしかに高い。彼は親父の撮影行為によって、商売を邪魔されたと感じたのかもしれない。
本物の可能性だって、もちろんある。職業にかかわらず、撮られることを不快に思う気持ちは、誰しも理解できるだろう。
するとつまり、うん、親父が悪いのだ。そのことは本人も自覚していて、これ以降、創作目的で街へ出ることはなくなった。
だが、悪いのは親父ばかりではない。写真のみならず、あらゆる創作表現に、この問題はついてまわる。
写真ならば撮る・撮られるの関係。文章ならば書く・書かれるの関係だ。被写体やモチーフの意向を、表現する側はけっして、ないがしろにしてはならない、ということだ。
創作に関する問題提起は、これくらいでいいだろう。今回は聖と俗がテーマだし。
親父の失敗談をほじくり返すようで申し訳ないが、そもそも、なぜ親父は僧侶を撮ろうと思ったのか。
その理由を本人の口からは聞いていない。聞かなくても、だいたいわかる。
僧侶が格好いいからだろう。僧侶とは、格好いいのだ。オレでもそう思う。
某オレンジ頭の死神マンガでも、死神とよばれる人(?)たちは、僧侶っぽい格好をしている。死を司る死神と、死を弔う僧侶。関係があるのかどうか微妙だが、とりあえず、格好よければいい。じゃあ僧侶っぽくしちゃえ、という制作者側の意図が見え隠れする。
なぜ僧侶が格好いいのか。それはたぶん、聖なるものに対する、オレらの憧憬や畏怖だろう。
では、聖なるものとは何ぞや、というところで、最初のテーマに還ってきたわけだ。
ぶっちゃけ、俗じゃないものが聖、でいいような気がする。じゃあ俗は? 聖を格好いいものとして敬ったり、畏れたりすることです。
聖と俗は、もちつもたれつ……そう、撮ると撮られるの関係に似ているね。ザッツ・オール!