テンペスト
Act.29 テンペスト
こつこつと、ドアをノックする音が聴こえる。
書類に目を通していた豪は、書類から目を離し、ドア先に声かけ、部屋の中に入る様に促した。
ドアが開いた途端、豪は驚いた。
そこには深い陰りを帯びた表情で、忍が立っていた。
「一体、どうした?」と立ち上がり近寄ろうとする豪を無視して、無言のまま、いきなりサイドボードの扉を開け、豪の秘蔵のブランデーを飲み始める。
忍の突然の行動に、目を見開き呆然とする豪。
煽る様に飲み続ける忍に、さすがにこのまま飲めば泥酔する事が目に見えた為、やめる様に忍の肩をつかんだ。
肩を揺すぶり忍の顔を覗き込んだ瞬間、豪は一瞬、言葉に詰まった。
ゆっくりと自分を見つめる忍の瞳には、何の感情を映していなかった。
この瞳を見るのは、あの7年前の事故以来だ。
昏睡状態から目を覚め、現実を知り、正気を失ったあの…。
「一体何があったんだ?」と声を荒げ、強く肩を揺すぶる。
長い間、沈黙が2人を襲った。
緩慢な仕草で豪の手を払いのけ、忍は「別に何も…」と、ぽつりと囁いた。
何も無いはずが無いだろう!お前のその目は、と一瞬、大声を上げそうになる自分を戒め、豪は冷静に話しかけた。
「忍。
彼女と何かあったのか?」
ぴくり、とブランデーを持っていた手が微かに震えた。
その反応を逃さず見ていた豪は、自分の考えが正しかった事を確信した。
忍の平常心が失われるとしたら、夏流と言う少女が絡んでいるしか考えられなかった。
心配する豪に、忍は自称気味に笑いながら呟いた。
「飲んで酔えば自分の中に燻る感情を鎮める事が出来ると思ったが。
俺は飲んでも酔う事すら出来ない…。
どうしたら、俺は忘れる事ができるんだ…?」
寂しそうに微笑む忍を見つめた豪の胸に、言い様も無い痛みが襲った。
言葉をかけるにしても、何をどう言えば今の忍の心に訴える事が出来るのか解らず思案に暮れていた。
豪の気持ちを察したか、少し俯き「遅くにごめん」、とそう言葉を残し、忍は部屋を後にした。
ドアを閉める音が酷く耳に響いた。
ソファに深く座り込んだ豪は、額に手を当て溜息を零した。
暫し考え、そして机の上に置いていた書類を手に取り処理を行いながらも、今日の夕方、忍からかかって来た電話の事を思いだしていた。
今日の夜、輝の店で美樹を紹介すべく、忍と夏流を誘ったが、夏流の体調が芳しくないので、延期させて欲しいとの断りの連絡があった。
電話での忍の声が余りにも暗かったので、彼女の体調を心配しての事かと思ったが…。
(あの様子では彼女の体調の事ではないな。
余りにも表情が無さ過ぎる。
だとしたら、考えられる事は、彼女との諍いとしか思えない。
それもただの痴話げんかとかではなく、もっと何か。
何か忍の心を揺さぶる出来事があったに違いない。
もし、俺の考えが正しかったら、既に忍の心は、いや、完全に。
均衡が崩れているのではないのか…?)
弾かれた結論に豪は、視界がぐらりと歪む感覚に陥った。
平衡感覚が鈍り、何かを掴まないと身体を支える事が出来ない程、自分の確信に揺らいでいた。
(頼むから、俺の考えが誤りだと証明してくれ、忍!)
心に過る不安を拭う事が出来ない豪は、直ぐさま、忍の部屋に駆け寄った。
扉を何度も叩き、開ける様に促すが一向に開ける気配を見せなかった。
夜分に響くドアを叩く音に、注意すべく忍の部屋に集まる坂下家の住人達。
「一体、忍の部屋の前で何、音を立ててるの?」と母親の叱責に声を荒げる豪。
「そん悠長な事は言ってられないんだ、母さん!
忍の部屋の鍵は何処にある?
すぐ持って来てくれないか!
一刻も争うんだ!
早く!」
豪の正気では無い様子に不安を察した愛由美は、忍の部屋の鍵のスペアを探しだし、即座に扉を開けた。
開けた途端、余りにも変わり果てた部屋の様子に一瞬、声が詰まった。
防音が施かされている為、響かなかったが仇になったのか、と豪は部屋の惨劇に舌打ちした。
7年前と同じく、カーテンは引き裂かれ、部屋中の物は全て壊され、床に割れたガラスが散らばり、そして…。
目に映る衝撃に体中の血の気を失った。
ガラスの破片で自分の身体を切り刻んでいる忍の様子が視界を覆った。
あの時と同じく、自殺を何度も繰り返した忍の…。
忍の姿を見た朱美が涙を流しながら嗚咽を零す。
「やめるんだ、忍!
何、バカな事をしているんだ!」
忍の奇行を止めようとした豪は、手に持ったガラスをたたき落とし、忍の身体を強く揺さぶった。
覗き込んだ瞳には、既に何も映されていなかった…。
驚愕に見開く瞳。
「遅かったか…!」
悔やむ豪の瞳には涙が溢れ出ていた…。
そんな豪を見つめる事無く、忍はぽつりと呟いた。
「どうして、僕は生きているんだ…?」




